合宿3日目:青い嵐、午後の自由時間
合宿三日目、午前の練習。九十九里の空は、暴力的なまでの快晴に焼き尽くされていた。太平洋から吹き寄せる潮風は、冷たさを運ぶどころか、熱気を帯びた湿気となって肌にまとわりつく。ハードコートから立ち上がる陽炎は、視界にあるすべての境界線を曖昧に歪め、呼吸をするたびに砂埃と熱気が肺の奥を直接焦がすような錯覚に陥る。
「水瀬! 打点が10センチ後ろだ! 左手だからといって、球の威力を殺す言い訳にするな!」
坂上先生の、鼓膜を劈くような鋭い怒号がコートに響き渡った。 コートの中央、湊兄さんはすでに左手でのラケットワークに、驚異的という言葉すら生温いほどの適応を見せていた。昨夜、一人静かに素振りを繰り返していたあの孤独なシルエット。その積み重ねが、今、結実しようとしている。
対峙する大野部長は、あえて湊兄さんの左側を執拗に攻め立てていた。不自由なはずの左腕。しかし、湊兄さんの瞳は、前髪から滴る汗が目に入っても瞬き一つせず、ただひたすらに、目の前のボールを屠るためだけの精密機械と化している。左手から放たれるショットは、重いスライス回転を帯びてコートの隅へと正確無比に突き刺さり、受け止める大野部長のラケットを重低音とともに震わせた。
その隣のコートでは、陽太が湊兄さんから授けられた「眼」の試練に身を投じていた。
「いいか陽太。ボールだけを追うな。相手の筋肉が収縮する瞬間、視線が向く先、グリップの僅かな握り替え……すべてに予兆がある。打たれる前に『視て』、一歩目を殺せ」
湊兄さんの助言を具現化すべく、陽太は同じ1年生の経験者、佐藤くんとのマッチ練習に挑んでいた。佐藤くんは女子部の佐藤春花先輩の弟だけあって、粘り強さと精度の高いコントロールを兼ね備えている。以前の陽太なら、その老獪な揺さぶりに足をもつれさせていたはずだった。
「いくぞ、佐藤!」
佐藤くんが鋭いモーションでラケットを振り抜く。だが、陽太の視界は研ぎ澄まされていた。ボールがネットを越えるより早く、佐藤くんの右肩がわずかに上がった瞬間を捉える。
(……ロブだ!)
陽太は激しくシューズのソールをハードコートに削りつけ、決死の覚悟で後退した。
「そこだ! 」
落下地点に完璧に入り、全体重を乗せた渾身のスマッシュが炸裂する。佐藤くんが驚愕に目を見開く中、ボールはベースラインぎりぎりに突き刺さった。陽太の眼には、湊兄さんに一歩でも近づこうとする野性的な執念が宿っていた。
一方、女子コートでもまた、熱い火花が散っていた。 私と美咲のダブルス練習。対戦相手としてネットを挟むのは、親友の莉奈と、真面目な奈緒だ。
「みゆ、美咲! 私たちだって、レギュラーの座を譲るつもりはないんだから!」
奈緒が力強いサーブを打ち込み、莉奈がネット際でプレッシャーをかける。莉奈はいつも私の恋バナを楽しそうに聞いてくれる明るい親友だけど、コートの上では一転、鋭いポーチで獲物を狙う。
「分かってる! 美咲、並行陣で行くよ!」
「了解、みゆ! 隙は見せないわ!」
私と美咲の課題は、個々の技術を超えた「共鳴」だ。美咲が前線で跳ね、私が後ろで泥臭く繋ぐ。言葉を交わさずとも、美咲の呼吸が、筋肉の動きが、自分のことのように伝わってくる。
(今、美咲が右に寄った。なら、私はセンターのカバーに!)
奈緒の正確なパッシングショットを、私が横っ飛びで拾う。浮いた球を美咲が冷静にボレーで沈める。私たちは何度も何度もコートを駆け、汗と土にまみれながら、二人で一つの「意志」を練り上げていった。
「みゆ、ナイス! ……でも、さっき湊先輩のことチラッと見なかった?」
莉奈が小休止の合間にニヤリと笑いながら耳打ちしてくる。
「見、見てないよ! 今は練習に集中してるんだから!」
赤くなる私を見て、莉奈は「はいはい」と楽しそうにラケットを回した。そんなやり取りを、奈緒が「莉奈、集中して。次は私たちのサーブよ」と真剣な顔で引き戻す。
「……よし、午前はここまでだ。三日間、お前たちはよく耐えた」
坂上先生の声が響くと同時に、張り詰めていた糸がわずかに緩んだ。 陽太は膝をコートにつき、激しい呼吸を繰り返しながら天を仰いだ。佐藤くんも肩を揺らしながら、「河村、今の眼……怖いくらいだったよ」とライバルを認める言葉をかける。
対照的に、湊兄さんは膝の汚れを無造作に払うと、静かに立ち上がった。その瞳には、未だ完成を見ぬ左手への冷徹な闘志が、深淵の底で静かに燃え続けていた。
先生の号令が掛かった瞬間、コートを支配していた殺気は霧散し、波の音にかき消されるような歓声が弾けた。 張り詰めていた緊張の糸が解け、選手たちが次々とコートに座り込む。
私は、肩で荒い息を吐きながらも晴れやかな表情の陽太と、汗を拭いながらもどこか遠くを見据えている湊兄さんの姿を交互に見つめた。 過酷な練習の終わり。それは、この合宿で最も波乱に満ちた「午後の自由時間」の幕開けでもあった。
女子部屋の重い扉が閉まり、鍵が「カチリ」と音を立ててかかった瞬間、そこはさながら「秘密の変身」を行うための聖域へと化した。先ほどまで猛暑のコートで戦っていた「テニスプレイヤー」としての顔を脱ぎ捨て、少女たちは一斉に華やかな喧騒へと身を投じる。
「莉奈、強力な日焼け止め、背中の届かないところお願い!」
「美咲、このパレオの結び方、変じゃない? 子供っぽくないかな……」
ベッドの上に無造作に広げられるのは、眩しいほどのビキニや彩り豊かなワンピース。そんな中、莉奈がクローゼットの最奥から、まるで神聖な儀式の道具でも扱うかのように、一つの包みを恭しく取り出した。
「さあ、みゆ。ついにこの時が来たわね。……覚悟はいい?」
包みの中から現れたのは、清楚なフリルがあしらわれつつも、眩しいほどの「純白」を湛えた水着だった。この白さは、夏の暴力的なまでの陽光の下では、肉体の輪郭をあまりに残酷なほど鮮烈に際立たせる。私は莉奈と美咲に囲まれ、なかば強制的に、鏡の前で着替えを促された。
シャツを脱ぎ、水着に袖を通す。背中の細いリボンを莉奈がキュッと結ぶたびに、胸元が締め付けられ、呼吸が浅くなっていくのがわかった。鏡に映った自分の姿を正視した瞬間、私は思わず自分の肩を抱いて立ち尽くした。
(……これが、私……?)
連日の過酷な練習で、無駄な肉が削ぎ落とされ引き締まったウエスト。練習の火照りと日差しによって、健康的に、けれどどこか艶っぽく日焼けした肌。その褐色に近い肌色に、純白の布地が眩暈がするほど映えている。 それは、昨日までの「部活動に励む妹」としての私を完全に塗り潰し、一人の「女」という性をあまりに鮮烈に主張していた。
「……完璧。ねえ、みゆ。あんた、自分がどれだけ『破壊的』な格好してるか、自覚ある?」
莉奈が私の肩に手を置き、鏡越しに悪戯な、けれど射抜くような真剣な眼差しで囁いた。
「……自覚なんて、あるわけないよ。ただ、すごく落ち着かないっていうか、服を着ていないみたいで、心臓の音がうるさくて……」
「それがいいのよ。その『無自覚な危うさ』が、男子たちの理性を根こそぎ持っていくんだから。特に、あの二人はね」
莉奈の言葉に、心臓が大きく跳ねた。 陽太に見てほしい。彼に、一人の女の子として意識してほしい。けれど、湊兄さんにだけは、この姿を見られるのが……なぜかたまらなく怖い。
湊兄さんは、この「私」を見て、いつものように穏やかな兄でいてくれるだろうか。それとも――。
自分でも整理のつかない矛盾した熱を抱えたまま、私はサンダルを鳴らし、潮騒が手招きする砂浜へと一歩を踏み出した。ロッジの階段を降りるたび、白いフリルが風に揺れ、まだ見ぬ波瀾の予感に私の指先は小さく震えていた。
ロッジの薄暗い廊下を抜け、一歩外へ踏み出すと、暴力的なまでの夏の光が網膜を焼いた。 九十九里の砂浜は、打ち寄せる波の重低音と、すでに海へ飛び込んだ部員たちの歓声で、まるで沸騰しているかのような熱気に包まれている。
「ほら、みゆ! いつまでそうやって縮こまってるの。行くわよ!」
莉奈に背中を押され、私は意を決してパイル地の羽織を脱いだ。真っ白な水着が、真夏の太陽の下で眩しいほどに発光する。背中が大きく開いたそのデザインは、動くたびに潮風を直接肌に感じさせ、まるで裸でいるような心細さと、同時に形容しがたい高揚感を私に与えた。
「……うわぁ、やっぱりみゆ、その水着大正解。肌の白さが際立って、なんだか神々しいわよ」
美咲が目を丸くして感嘆の声を上げる。女子部員たちはすでにビーチボールを膨らませ、波打ち際で円陣を組んでいた。
「さあ、ビーチバレーよ! 負けたチームは夕食後の片付け当番ね!」
高城部長の号令で、試合が始まった。
「そーれ!」
莉奈が弾いたボールが、青空に吸い込まれていく。私は砂に足を取られながらも、必死にボールを追いかけた。
「みゆ、後ろ!」
「任せて!」
夢中で跳ね、砂にまみれ、波飛沫を浴びる。 ジャンプするたびに、水着の細いストラップが肩から滑り落ちそうになり、慌てて直す。その無防備な仕草さえも、今の解放感の中では心地よかった。 海水を含んで重くなった髪が頬に張り付き、吐息が熱く弾ける。コートの上での厳しい顔とは違う、莉奈や美咲の弾けるような笑顔。私たちはただの「部員」であることを忘れ、この瞬間、九十九里の海を楽しむ「女の子」に戻っていた。
「きゃあ! 待って、今のはアウトでしょ!」
「いいえ、セーフよ。美咲、今のレシーブ甘すぎ!」
笑い声が潮風に乗って遠くまで運ばれていく。 濡れた砂の感触、肌を焼く太陽の熱、そして自分たちが放つ圧倒的な生命力。 ふと視線を上げると、少し離れた場所でビーチフラッグや相撲に興じていた男子部員たちが、いつの間にか手を止め、呆然とこちらを眺めていることに気づいた。
「……おい、女子たちのあんな姿、初めて見たな」
「……水瀬の妹、あんなにスタイル良かったのかよ……」
男子たちの、隠しきれない熱を帯びた視線が、私たちの動きを追っている。 特に、真っ白な水着で波打ち際を走る私に向けられる視線は、羞恥心を煽るほどに露骨で、強烈だった。 女子部員たちの無邪気な歓声が響けば響くほど、砂浜の温度は、太陽の熱とは別の理由でじりじりと上昇していく。
ビーチバレーの白熱したラリーが一段落し、私たちは肩で息をしながら、波打ち際に腰を下ろした。 「あー、疲れた! でも最高に気持ちいい!」 美咲が海水を弾きながら笑い、莉奈は慣れた手つきで濡れた髪をかき上げる。
その時、砂を蹴る力強い足音がこちらへ近づいてきた。
「……みゆ」
聞き慣れた、けれどどこか掠れた声に顔を上げると、そこにはビーチバレーの試合を終えたばかりの陽太が立っていた。 練習中よりも少し乱れた髪、日焼けした肌に浮き出る筋肉のライン。彼は私の方へ一歩踏み出し、そしてそのまま、金縛りにあったように動けなくなった。
「陽太? どうしたの、そんなに固まって」
私が少し首を傾げると、陽太の視線が私の鎖骨からウエスト、そして脚へと、戸惑うように、けれど吸い寄せられるように動いた。
「……え、あ……みゆ?」 手に持っていたビーチボールが、ポスッと砂の上に力なく転がり落ちる。陽太の顔は、首筋から耳の裏まで一気に真っ赤に染まり、驚くほど動揺しているのが見て取れた。
「……似合ってる、っていうか……。その、……凄く、綺麗だ。……眩しくて、直視できないくらいだよ」
陽太は、他の男子部員たちの視線から私を隠すように、さりげなく一歩前へ出た。その瞳には、私を一人の「女の子」として、あるいは「特別な存在」として、強烈に意識した熱が宿っている。
「いつもの部活の時とは、全然……雰囲気が違うから。なんだか、別の女の子を見てるみたいで、心臓が持たないよ……」
絞り出すような、けれど一滴の嘘もない賞賛。陽太の真っ直ぐな想いが私の胸を叩き、私は気恥ずかしさと喜びで、砂に描いた足跡をじっと見つめることしかできなかった。陽太が不器用な手つきで、潮風に乱れた私の一房の髪に触れようとした、その時だった。
「……おい」
低く、極限まで温度を失った声が、陽気な潮騒を鋭く切り裂いた。 振り返ると、少し離れた岩場の影。逆光の中に、腕を組んでこちらを凝視している湊兄さんの姿があった。
彼は海に入るつもりがないのか、ラッシュガードさえ着ていない。鍛え上げられた上半身を惜しげもなく晒し、ただじっと、獲物を狙う獣のような鋭さで私を……白い水着の私を射抜いていた。
陽太に「綺麗だ」と言われた時とは違う、もっと重苦しく、肌の表面がピリピリと痺れるような感覚。 湊兄さんはゆっくりと砂を踏みしめ、こちらへ歩み寄ってくる。一歩ごとに、周囲の空気から熱が奪われ、代わりに刺すような緊張感が満ちていく。
兄さんの視線は、陽太の存在を完全に無視していた。ただ、私の水着の白さを、露出した背中の線を、まるでその存在すべてを記憶に刻み込もうとするかのように、舐めるように動いた。
「……お前、自分がどういう格好をしているか分かっているのか」
至近距離で立ち止まった湊兄さんの瞳には、妹を見守る「兄」としてはあまりに鋭すぎる、冷徹な独占欲と、名前を付けることすら許されないドロドロとした熱が渦巻いていた。
「……兄さん? 私はただ、みんなと遊んでただけで……」
「陽太。……みゆから手を離せ。こいつは、まだ日が強い。……のぼせでもされたら困る」
湊兄さんの言葉は、建前上は「体調管理」という兄としての正論を装っていた。けれど、その声の微かな震えと、私を射抜くような強い視線は、それが単なる兄としての心配ではないことを雄弁に物語っていた。
「……湊さん。俺が、みゆのことをちゃんと見てますから。大丈夫です」
陽太が湊兄さんの気迫に気圧されそうになりながらも、一歩前へ出て食い下がる。だが、湊兄さんはその陽太を視線だけで撥ね除けた。
「……お前に任せられるほど、俺は甘くない」
陽太と湊兄さんの間に走る、肌を焼くような緊張感。陽太は悔しげに拳を握りしめ、湊兄さんはただ無言で私を背後に隠すように立ちはだかる。その均衡を破ったのは、快活な笑い声だった。
「あらあら、エース様がそんなに殺気立ってどうしたの?」
振り返ると、高城部長が濡れた髪を拭いながら歩み寄ってきた。
「湊くん、坂上先生が呼んでいるわよ。ミーティングの資料に不備があったみたい。……それからみゆちゃん、あんまり湊くんを困らせないであげてね。この人、責任感が強すぎて倒れちゃうわ」
部長の冗談めかした言葉に、湊兄さんは一瞬だけバツが悪そうに視線を逸らし、掴んでいた私の腕をゆっくりと放した。
「……すみません。すぐに行きます。……陽太、みゆをロッジまで送れ。それから、さっさと着替えてこい。風邪を引いたら練習にならん」
湊兄さんはそれだけ言い残し、一度も振り返ることなくロッジへと歩き去った。残された私と陽太の間には、先ほどまでの熱が嘘のような、どこか物悲しい潮風が吹き抜けた。
九十九里の空が深い群青色に沈み、波の音が昼間よりも重く響き始めた頃。ロッジの広間には、昼間の海辺の緊張感を引きずったような、どこか張り詰めた空気が流れていた。
陽太と湊兄さんの間に交わされた、あの刺すような沈黙。陽太は悔しげに拳を握りしめ、湊兄さんはただ無言で私を背後に隠すように歩き続けた。その答えが出ないまま、用意されたサプライズの幕が上がる。
九十九里の空が深い群青色に沈み、波の音が昼間よりも重く響き始めた頃。ロッジの広間には、用意されたサプライズの幕が上がる直前の、独特の静寂が満ちていた。
「……水瀬、前へ出ろ」
坂上先生の低い声に促され、湊兄さんが中央へ進み出た。先生の厳しい表情に、周囲の部員たちも息を呑む。湊兄さんは、どんな厳しい叱咤も受け止める覚悟で背筋を伸ばした。その瞬間――。
「――湊くん、誕生日おめでとう!」
高城部長の弾んだ声とともに、広間の入り口から大きなデコレーションケーキが運ばれてきた。真っ白な生クリームの上に、真っ赤な苺と『Happy Birthday 湊』と書かれたチョコプレートが誇らしげに並んでいる。
「な、なんだ、これは。先生、ミーティングは……?」
「ふふ、嘘に決まってるじゃない。私が企画した特大のサプライズよ。湊くんを驚かせるために、部員全員に口止めするの、結構大変だったんだから」
高城部長の悪戯っぽい言葉に、湊兄さんは耳の付け根まで一気に赤らめた。いつも無敵で、鉄の規律を体現している彼が、まるで幼い子供のように照れ、困ったように笑っている。その「完璧なエース」という殻が剥がれ落ちた、十五歳の少年の素顔。
「水瀬先輩、これ、一年生一同からです!」
「湊先輩、私からも……っ、おめでとうございます!」
次々と部員たちが湊兄さんの周りに集まり、小さな包みを差し出す。湊兄さんは戸惑いながらも、ふっと表情を和らげた。その顔は、部活中の険しい「戦鬼」の表情ではなく、家で私に見せるような、穏やかで優しい兄の顔だった。
「ありがとう。……わざわざ、合宿中に悪いな」
「うわ、湊先輩、今めっちゃ優しい顔した!」
「ずるいですよ、その顔! また女子部員が惚れ直すじゃないですか!」
後輩たちの冷やかしに、湊兄さんは「うるさい、さっさとケーキ食え」と苦笑いしながら、照れ隠しに部員の頭を軽く叩いている。その光景は、コートの上では決して見ることのできない、年相応の少年の瑞々しさに溢れていた。
「さあ、みんなで分けましょう。みゆちゃん、手伝ってくれる?」
高城部長に促され、私はキッチンから運ばれてきた皿を並べた。大野部長が手際よく切り分けたケーキが、次々と部員たちの手に渡っていく。湊兄さんは、苺がたっぷり乗った自分の皿を手に、ふと隣にいた私に視線を向けた。
「みゆ、お前も食べたか? 高城部長がわざわざ用意してくれたんだ、しっかり感謝して食えよ」
「分かってるってば。……おめでとう、兄さん」
「ああ。……旨そうだな」
湊兄さんが口にした一口のケーキ。その甘い香りが広間に漂い、さっきまでの砂浜での刺すような緊張感が、一時的に溶けていくような気がした。陽太も自分の皿を手に、遠巻きに湊兄さんを見つめている。憧憬と、対抗心。その複雑な想いを飲み込むように、彼はケーキを口に運んでいた。
「……湊さん。おめでとうございます。……でも、俺、諦めませんから。テニスであなたに追いついて、いつか……みゆの隣に立つのを、認めさせます」
不意に、陽太が湊兄さんの前へ進み出て宣言した。広間が一瞬静まり返る。湊兄さんはフォークを置き、笑みを消して、真っ直ぐに陽太の目を見返した。
「……ああ。期待しているぞ、陽太。だが、俺の基準は高いぞ」
それは、昼間の海辺で見せた険悪な独占欲とは違う、指導者としての、そして「兄」としての厳格な審判の顔だった。
誕生日会の狂騒が一段落した後。私は一人、火照った身体を冷ますために、ロッジの裏手にある誰もいないウッドデッキへと出た。
「……そこにいたのか、みゆ」
背後から聞こえた声に、心臓が跳ねた。振り返ると、ラフなTシャツ姿になった湊兄さんが立っていた。
「兄さん……。今日は、本当におめでとう。高城部長のサプライズ、大成功だったね」
「ああ。……あんなに大騒ぎされるとは思わなかった。陽太のあんな宣言もな」
湊兄さんは隣に並び、暗い海を見つめた。夜の闇が彼の横顔をより深く、大人びて見せる。
「だが、みゆ。昼間、あいつがお前の肩に触れようとした時、俺は……兄として、どうしてもあいつを許せなかった」
湊兄さんが一歩、私との距離を詰める。その左手が、私の肩にそっと置かれた。 昼間の、あの優しく頭を撫でてくれた手ではない。大切な宝物を決して手放さないと誓う、峻烈な「守護者」としての力。
「お前が成長していくのが、怖いんだ。いつか、俺の目が届かないところで、誰か知らない男に、簡単にお前を連れ去られてしまうのではないかと」
湊兄さんの指先が、私の鎖骨のあたりに触れる。昼間の白い水着姿を、剥き出しになった私の肌を思い出しているのか、その指先は微かに震えていた。
「あいつが俺を越えるというのなら、受けて立つ。だが、それまでは、俺が誰よりも厳しくあいつを、そしてお前を見守るつもりだ。……お前を任せられる男など、そう簡単に見つかるとは思えないからな」
湊兄さんの瞳には、月の光を反射して、妹を想うゆえの深い執着と、自分でもまだ正体を認められない歪んだ熱が宿っていた。私は、湊兄さんの手の熱を感じながら、返事もできずに立ち尽くしていた。
湊兄さんの手の温もりを肩に残したまま、私は逃げるようにウッドデッキを後にした。重い鉄の扉を開け、女子部員たちの笑い声が漏れる大部屋へと戻ると、そこは昼間の疲れを感じさせないほどの熱気に包まれていた。
「あ、みゆ! どこ行ってたのよ。湊先輩の誕生日会、最高だったわね!」
部屋に入るなり、美咲が興奮気味に駆け寄ってきた。畳の上には、ロッジで借りた浴衣に着替えた女子たちが車座になり、お菓子を広げている。
「本当に……。まさか、あの湊先輩があんなに顔を赤くして照れるなんて。やっぱり高城部長の企画力は神だわ」
「ねえ、見た!? プレゼント渡した時のあの優しい顔! 私、あんな顔で『ありがとう』なんて言われたら、合宿の居残り練習だって耐えられる気がする」
莉奈がそう言って身悶えると、周りの女子たちからも賛同の悲鳴が上がる。彼女たちにとって、今日の湊兄さんは「完璧な王子様」であり、同時に「守ってあげたい男の子」でもあったのだ。
「でも、自由時間の砂浜も凄かったわよね。湊先輩と河村くん、なんか一触即発って感じじゃなかった?」
奈緒が、ポテトチップスを口に運びながら私をジロリと見た。
「みゆのあの白い水着、やっぱり毒だったんじゃない? 湊先輩、あんなに怖いくらい真面目な顔して、みゆのこと連れてっちゃうんだもん。……過保護を通り越して、ちょっと独占欲、強くない?」
「……兄さん、ただ日焼けとか、私の体調を心配してただけだよ」
私は曖昧に笑って誤魔化したけれど、胸の奥はざわついていた。みんなが言う「優しいお兄ちゃん」としての湊兄さんと、さっきウッドデッキで見せた、低く震える声で『怖いんだ』と囁いた湊兄さん。その二つの顔の境界線が、私の中でどんどん曖昧になっていく。
「ま、それだけ大事にされてるってことよ。……さ、明日は最終日なんだし、もう寝る準備しなきゃ」
高城部長の合図で、部屋の電気が消された。修学旅行のような賑やかさは、やがて静かな寝息へと変わっていく。
けれど、私はどうしても眠りにつくことができなかった。 薄い布団の中で、じっと天井を見つめる。窓の外からは、昼間よりもずっと大きく、深く響く波の音が聞こえてくる。
私はそっと布団を抜け出し、洗面所へと向かった。薄暗い鏡の中に映る自分の姿。 水着はもう脱いで、今は貸し出しの飾り気のない浴衣に包まれている。けれど、鏡を覗き込む私の瞳は、まだあの砂浜で湊兄さんに見つめられた時の熱を帯びたままだった。
(……兄さんは、私を見て、何を思ったんだろう)
『お前が成長していくのが、怖い』
『お前を任せられる男など、そう簡単に見つからない』
その言葉を何度も頭の中で繰り返す。 もし、私が本当にただの「妹」でしかなかったら、兄さんはあんなに指先を震わせただろうか。陽太の手を、あんなに険しい顔で撥ね除けただろうか。
陽太は私に「綺麗だ」と言ってくれた。一人の女の子として、真っ直ぐに恋をしてくれた。それはとても温かくて、正しい「光」だった。 けれど、湊兄さんの私を見る目は、もっと暗くて、もっと重くて――まるで、自分でも持て余しているような、暴力的なほどの熱があった。
(……一人の女として、見てもらえたのかな)
そう自問した瞬間、心臓が痛いほど脈打った。 兄妹としてではない。血の繋がらない「男と女」として、私は湊兄さんの心に、消えない楔を打ち込むことができたのだろうか。
もしそうなら、私はなんて残酷で、醜い妹なのだろう。 陽太の誠実さを盾にしながら、その裏で兄の独占欲を確かめて喜んでいるなんて。
「……最低だ、私」
小さな声で呟き、私は冷たい水で顔を洗った。 滴る水滴が顎を伝い、首元へと落ちる。 明日、合宿の最終日。夜の花火大会、私はどんな顔をして二人の隣に立てばいいのか、答えは暗い波の音にかき消されて、見つからないままだった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
..........初の10000文字越え.......
おかしいところありそうだけど......
ひとまず無事完了。




