合宿2日目:灼熱の練習、夜の密談
合宿二日目、ハードコートの表面温度は、昨日を遥かに凌いでいるように感じられた。九十九里の空は昨日よりもさらに深く、どこまでも透き通るような青。けれど、照り返しの強いコートに立つ私たちに、その美しさを愛でる余裕は一秒もなかった。
「よし、今日は午前から男女各コートで、坂上先生考案の『ダブルス実戦メニュー』に入る。基本は陣形維持だが、常に生きた球を想定しろ!」
大野部長の号令が、潮騒をかき消すように響き渡る。コート脇のベンチには、顧問の坂上先生が静かに腰を下ろし、時折手帳に鋭いペンを走らせながら、全体の動きを鷹のように俯瞰していた。
女子コートの空気は、男子の荒々しさとは異なる、研ぎ澄まされた刃物のような緊張感に満ちていた。高城部長の声が、乾いた打球音を切り裂く。
「水瀬さん、ポーチのタイミングが遅い! 後衛の私を信じて、もっと大胆に飛び込んで。予測じゃないわ、反応するの!」
高城部長は、自らも私たち一年生とペアを組み、コート内を縦横無尽に駆け回っていた。無駄のないショートヘアから飛び散る汗が、陽光に反射してキラリと光る。彼女のプレースタイルは華麗だが、その根底には、泥臭いまでの勝利への執念がある。私が強いリターンに怯み、思わず一歩引いてしまうと、彼女はすかさず駆け寄り、ラケットの面で私の肩を軽く叩いた。
「落ち込まない。ミスは次に繋げるためのデータよ。……でも、今のを逃していたら試合じゃ命取りになる。水瀬くん(湊)なら、今の一球でコートの隅を射抜いてくるわよ。イメージして、常に最強の相手を!」
高城部長の言葉には、湊兄さんへの強いライバル心と、それ以上に深い信頼が滲んでいた。女子部のリーダーとして、彼女は一人ひとりの弱点を的確に見抜き、坂上先生のメニューに独自のスパイスを加えて私たちを追い込んでいく。
一方、ネットを隔てた男子コートでは、湊兄さんがエースとして、そして部長補佐として、一年生を極限まで追い詰めていた。
「田中、腕だけで打つなと言ったはずだ。砂浜で鍛えた体幹はどうした! 佐藤、前衛でのプレッシャーが甘い。相手にコースを絞らせるな!」
兄さんの声は氷のように冷たく、けれど驚くほど的確だ。陽太は膝をつきそうになりながらも、兄さんの放つ重戦車のようなストロークに食らいついていた。坂上先生が時折立ち上がり、「水瀬、今の河村のステップを見てやれ。もっと深く入り込ませろ」と短く指示を飛ばす。
練習の合間、二つのコートの境界線で、湊兄さんと高城部長が給水のために歩み寄る。
「高城さん、そっちのネットプレーの仕上がりはどうですか」
「ええ、一年生も少しずつ『攻めの陣形』を理解してきたわ。水瀬くん、午後の混合戦、手加減なしでお願いね」
「はい、任せてください。坂上先生からも『代表の手本』を見せろと言われていますから。……一年生たちに高い壁と、その先にあるものを教えるつもりです」
二人の会話には一切の無駄がなく、互いの技術と指導方針への揺るぎない敬意が透けて見えた。それは「恋」という甘い言葉では到底括れない、同じ高みを目指す者同士の強固な繋がり。
私と陽太は、そんな二人の背中を遠くから見つめることしかできなかった。太陽が中天に差し掛かり、コートの熱がピークに達する中、私たちの本当の試練である「午後の混合ダブルス」が、刻一刻と近づいていた。
午後の合同練習が始まる直前、コートサイドの空気は一変した。
「水瀬、ちょっと来い」
ベンチに腰を下ろした坂上先生が、湊兄さんを呼び止める。先生の手には、午前中の動きを分析したと思われる、書き込みだらけのバインダーが握られていた。
「お前はこの合宿中、今のままでは得るものがない。お前の実力は突出しているが、それは裏を返せば、右腕の完成度に甘んじた『慣れ』だ。……午後の形式戦、お前は『利き腕でない方(左手)』のみを使え。右腕は背中に回しておけ。それがお前への課題だ」
その場にいた全員の動きが止まった。エースである兄から、その最大の武器である右腕を奪う――。それはあまりに無慈悲な足枷であり、挑戦的な「呪い」のようにも思えた。高城部長ですら驚きに目を見開いたが、兄さんは一瞬の沈黙の後、表情を鋼のように硬くし、「……承知いたしました」とだけ短く応じ、ラケットを左手に持ち替えた。
形式戦が始まった。私のペアは陽太。そしてネットの向こうには、左手にラケットを握る湊兄さんと、それをカバーするように驚異的な守備範囲を見せる高城部長が立っていた。
「……行くぞ、みゆ! 湊さんが左手なら、今度こそ隙があるはずだ。絶対一本、もぎ取ってやる!」
陽太がこれまでにないほど鋭い目つきでベースラインへ走る。しかし、序盤は想像を絶していた。湊兄さんは左手であっても、長年培った戦術眼とフットワークで私たちのコースを的確に塞いでくるのだ。不自然なスイングから繰り出されるボールは、バウンドが予測しづらく、私たちはタイミングを狂わされた。
しかし、ゲームカウントが進むにつれ、異変が起きる。 「くっ……!」 兄さんの額から、見たこともないような大量の汗が噴き出していた。逆の手での慣れない重心移動、不慣れな筋肉への過剰な負荷。あの完璧な湊兄さんが、打球の瞬間にわずかに顔を歪め、足をもつれさせてバランスを崩しかけていた。
スコアは 4-4、そして 5-5。湊兄さんの左手の精度が、疲労により目に見えて落ち始めていた。
「15-40(フィフティーン・フォーティ)!」
陽太が放った深いリターン。湊兄さんは必死に左腕を伸ばしたが、ボールはラケットのフレームを叩き、無情にもコートの外へと弾け飛んだ。
(兄さんが……押されてる。あの、負け知らずの兄さんが……)
いつも雲の上からすべてを統括するような湊兄さんが、今、目の前で泥臭く、必死に、自分自身の不自由な肉体と格闘している。逆の手を懸命に振り抜こうとする、その必死な、あまりに人間臭い「弱さ」と「執念」。
「みゆ、前だ! 湊さんの返球が甘くなった! 畳み掛けるぞ!」
陽太の叫びで我に返る。湊兄さんの左手から放たれた力ないロブが、ふわりとコート中央に浮いた。高城部長がカバーに走るが、間に合わない。
「……チャンス!」
私は無我夢中で踏み込み、全身の体重を乗せて、高城部長の逆を突くクロスへとボレーを叩き込んだ。
「ゲームセット! ゲームカウント 6-5、河村・水瀬ペア!」
審判役の部員の宣告が響いた瞬間、コートに沈黙が訪れた。湊兄さんが、負けた。たとえ左手というハンデがあったとしても、それはこの部にとって、一つの神話が崩れた瞬間だった。
「……っし! 勝った……勝ったぞ、みゆ!」
陽太がこれ以上ないほどの雄叫びを上げ、私と力強くハイタッチを交わす。 ふと視線を向けると、湊兄さんは膝に手を突き、激しく肩で息をしながら、地面に滴り落ちる自分の汗を見つめていた。その瞳には、敗北への悔しさ以上に、新しい未知の領域に挑む者特有の、ぎらついた野生的な熱が宿っている。
「……一本、やられたな」
湊兄さんが左手でラケットを握り直し、ゆっくりと顔を上げた。その不敵な笑みは、指導者としての「兄」ではなく、一人の「ライバル」としての湊だった。
必死に成長を見せる陽太の背中。そして、完璧な殻を脱ぎ捨てて、もがきながらも初めて「敗北」を舐めた湊兄さんの剥き出しの闘志。 二人の男の子が放つ強烈な磁場に、私の心は火傷をしそうなほど激しく、そして熱くかき乱されていた。
合宿二日目の夜。ロッジの談話室は、昼間の殺伐とした空気とは一変し、隠し事特有の密やかな熱気に包まれていた。一年生女子が車座になり、その中心には色とりどりの画用紙や、坂上先生から「練習に支障のない範囲で」と許可を得て持ち込んだクラッカーが並んでいる。
「いい、みんな。明日の夕食の直後が本番よ」
莉奈が、自作のタイムスケジュールが書かれたノートを指先で叩く。その表情は、コートで見せる真剣そのもののそれだった。
「高城部長が湊先輩を呼び止めて、坂上先生が『総評がある』って言って全員を広間に集める。それが合図。私たちが入り口の両脇にスタンバイして、部長が合図を送ったら一斉にクラッカーを鳴らす。……みゆ、あんたはメインの役目なんだから、しっかりしてよね」
「……え、メイン? 私、クラッカーを鳴らすだけじゃなくて?」
私が戸惑うと、莉奈は呆れたように肩をすくめた。
「当たり前でしょ。最後にケーキを運んできて、プレゼントを渡すのは妹であるあんたの役目よ。高城部長も『そこは水瀬さんに譲るわ』って仰ってたんだから」
高城部長の名前が出た瞬間、私の胸にチリリとした痛みが走った。 昼間、左手一本で不器用にもがき、初めて「負け」を喫した湊兄さんの姿。そして、そんな兄さんの異変を即座に察知し、完璧なフォローでコートを守り抜こうとした高城部長。二人が見せた「戦友」としての絆は、私の中にあった「完璧な兄」という幻想を壊すと同時に、私が決して入り込めない領域の広さを突きつけていた。
「……高城部長、本当に優しいよね。練習中はあんなに厳しいのに」
美咲がクラッカーに名前を書き込みながら、ため息をつく。
「でも、今日の一点……河村くんとみゆが決めた時、湊先輩が少しだけ笑ったの、私は見逃さなかったよ。不慣れな左手で必死に戦う先輩、なんだか……いつもより人間味があって素敵だった」
談話室の隅では、男子たちが「明日の練習、左手でも勝てる気がしねえ……」と零しながらも、女子たちの楽しげな雰囲気に時折視線を送っていた。陽太もその輪の中にいたが、私の視線に気づくと、少し照れくさそうに、けれど昼間の勝利で得た自信を秘めた目で小さく頷いて見せた。
準備を終え、火照った顔を冷やすために一人でバルコニーへ出た。九十九里の夜風は、昼間の熱を奪い去り、少し湿った潮の香りを運んでくる。
「……お疲れ様。明日、楽しみだな」
背後から声をかけられ、振り返ると陽太が立っていた。手には冷えたスポーツドリンクを二本持っている。
「これ、差し入れ。……今日の一点、嬉しかったよ。でもさ、湊さんの左手……。あんなに必死な姿、初めて見た。完璧だと思ってたあの人が、あんなに泥臭く食転がってるのを見てたら……。なんていうか、遠い存在だと思ってたのが、少しだけ近くなった気がしたんだ」
陽太は手すりを強く握りしめ、暗いテニスコートを見つめた。
「俺、もっと強くなりてえ。湊さんに『お前にならみゆを任せられる』って、テニスで認めさせて、堂々とお前の隣に立ちたいんだ。……明日の誕生日会が終わったら、また一段と気合入れるからさ」
陽太の真っ直ぐな言葉は、今の私にはあまりにも眩しすぎた。その優しさに甘えてしまいたいと思う一方で、私の視線の先には、街灯の下で、まだ慣れない左手の感覚を確かめるように一人で素振りを繰り返す兄の、孤独で美しいシルエットがあった。
左手で不器用に向き合うテニス。それは湊兄さんが、坂上先生から与えられた「敗北」という壁に、たった一人で立ち向かっている証拠だった。 いつも私を守り、指導し、導いてくれる「完成された兄」ではなく、一人のプレーヤーとして苦悩し、剥き出しの執念を見せる「水瀬湊」という一人の男の子。
陽太への確かな好意と、兄への名前のつけられない、そして決して踏み越えてはいけない熱。 「正しい家族」という境界線が、足元の砂のように、さらさらと崩れ始めていた。
「……うん。明日、最高の一日にしようね」
私は自分に言い聞かせるように、陽太の目を見て答えた。 翌日の誕生日、そしてその先に待つ三日目の自由時間。 用意した「白い水着」が、この複雑に絡み合った感情にどんな答えを出すのか、まだ誰も知る由はなかった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
3日目が本番です。
ボリューム大幅に増えそう… お楽しみに




