波音と予感
夏休みの折り返し地点。ジリジリとアスファルトを焼く太陽の下、水族館での初々しいデートを終えた私は、陽太との距離が少しずつ、けれど確実に縮まっていることを実感していた。繋いだ手のひらから伝わる、少し汗ばんだ熱。そんな「普通の女の子としての恋」に浮き立っていた私に、部活動における最大の転機が告げられたのは、練習後のミーティングでのことだった。
西日がコートを燃えるようなオレンジ色に染め上げ、長く伸びた影がコートを侵食し始めた頃。男女の全部員が、中央のネット付近に集められた。
「注目! 今年の夏合宿について、決定事項を伝える!」
男子テニス部の部長、大野先輩が力強い声で宣言した。
「今年の中等部テニス部は、男女合同での強化合宿を行うことに決定した! 場所は千葉、九十九里。太平洋を一望できるテニスコート付きのロッジを四日間貸し切るぞ!」
その瞬間、部員たちの間に爆発的な歓声が上がった。隣で美咲や莉奈が「夜の恋バナ、眠れなさそう!」とはしゃぐ中、私の心臓は別の理由で大きく跳ねていた。合宿。それは、四日間という長い時間を、朝から晩まで湊兄さんと同じ敷地内で過ごすことを意味していた。
「スケジュールを詳しく説明するわね」
女子部長の高城先輩が、私たち女子部員だけに聞こえるような、悪戯っぽくも意味深な声で付け加えた。
「それから……合宿三日目の夜。これは完全なサプライズだけど、男子部のエース、水瀬湊くんの十五歳の誕生日会を企画しているわ。湊くん本人には絶対に内緒よ! 女子全員で協力して、彼を驚かせましょう」
「湊先輩の誕生日会……! 絶対に成功させなきゃ」
周囲の女子たちの目が、一瞬にして熱を帯びる。彼女たちにとって、この合宿は「完璧な王子様」である湊兄さんの内側へと踏み込むための、千載一遇のチャンスなのだ。兄が憧れの的であることは誇らしい。けれど、こうして大勢のターゲットにされているのを目の当たりにすると、胸の奥がチリチリと波立った。
ミーティングが解散になった後、陽太が興奮した様子で駆け寄ってきた。
「みゆ! 合同合宿なんて最高だよな。俺、砂浜でのトレーニングとか、湊さんの背中を追いかけるのが今から楽しみでさ」
陽太の瞳は、湊兄さんへの純粋な敬意でキラキラと輝いている。どうやら男子部の方でも、何かを感じ取っているようだった。
「あ、うん。びっくりだよね。男子部も、何かやるの?」
「実はさ、大野部長と話してたんだけど……合宿中に湊さんの誕生日があるだろ? 本人は『練習に集中しろ』って言いそうだから内緒にしてるけど、男子部でもこっそり何かお祝いしようぜって話になってんだ。……でも、一つだけ、心配なことがあってさ」
陽太は少し視線を彷徨わせ、耳たぶを真っ赤にして私を見た。
「……何が?」
「合宿ってことはさ、三日目の自由時間とか……その、みゆの水着姿とか。あと、最終日の花火の時の浴衣とかも見れるのかなって。……いや、その、湊さんの前で鼻血出さないように気をつけねーとな、俺」
「バカ陽太! 何言ってるのよ、もう……」
私は顔が熱くなるのを隠すように、ラケットバッグの紐を強く握りしめた。陽太に見られる自分を想像して胸が騒ぐ。同時に、その光景を「兄」として見守る湊兄さんの視線が、なぜか頭の片隅を離れなかった。
そんな私たちのやり取りを遠くから見ていたのか、大野部長たちと打ち合わせを終えた湊兄さんが、こちらへ悠然と歩いてきた。
「おい、陽太。海があるからって浮かれるなよ。砂浜でのインターバル走もがっつり組み込んでやるからな」
「げっ、マジっすか湊さん! ……でも、望むところです!」
陽太が背筋を伸ばして応える。湊兄さんは「いい返事だ」と、満足げに目を細めた。そして、私の方へ向き直る。その瞳には、先ほどまでのエースの鋭さは消え、穏やかな「兄」の光が宿っていた。
「みゆ。お前もだぞ。しっかり体力つけておけ。……それから、準備は早めにやっとけよ。いつも雫姉さんに言われてから慌てて荷造りするんだからな」
「もう、子供じゃないんだから大丈夫だよ、兄さん」
不貞腐れたような口を利く私を見て、湊兄さんは「ハハッ、そりゃあ助かるよ」と、私の頭をポンと、大きな掌で無造作に叩いた。
女子部員たちが熱を上げる「十五歳の水瀬湊」が、今、私の目の前で「兄」として笑っている。湊兄さんは自分の誕生日がサプライズで狙われていることなんて、微塵も気づいていない様子だった。
この特別感に浸っていたい自分と、それを陽太に見られる気恥ずかしさが、私の中で複雑に絡み合う。
九十九里の砂浜、潮風の匂い、そして自分の中に隠した言葉にできない独占欲。それらが激しく打ち寄せる波のように交錯する予感に、私はただ、期待と不安の入り混じった溜息をつくことしかできなかった。
合宿の発表があった翌日の放課後。女子テニス部の一年生たちは、練習の疲れも忘れて駅前の大型ショッピングモールへと繰り出していた。店内は夏休み真っ只中の熱気に包まれ、色とりどりの水着が並ぶ特設コーナーは、目も眩むような華やかさで溢れている。
「見て見て! このオフショルの水着、可愛くない? みゆ、絶対似合うよ!」
美咲がフリルのついたパステルカラーの水着を掲げてはしゃいでいる。その横で、少し大人びたネイビーのビキニを品定めしていた莉奈が、くすりと笑ってこちらを振り返った。
「美咲、みゆにそんな子供っぽいの勧めてもダメよ。今度の合宿は男子部も一緒なんだから、もっと『狙い』を定めなきゃ」
「狙いって……莉奈、あんた誰か気になる人でもいるの?」
莉奈は慣れた手つきで髪を耳にかけながら、肩をすくめてみせた。
「特定の誰かってわけじゃないけど。でも、夏合宿って特別じゃない? 普段は見られない先輩たちのジャージ以外の姿が見られるのよ。……特に、水瀬先輩とかね。十五歳になるお兄さん、絶対にもう『男』の身体してるわよ」
莉奈が湊兄さんの名前を出した瞬間、周りの女子たちの空気が一変した。
「やっぱり莉奈も狙ってるんだ!」
「狙うっていうか、あんな綺麗な造形の人が水着で歩いてるのよ? 拝まない方が失礼じゃない。みゆ、お兄さんを独占できるなんて、本当羨ましいわ。家ではどんな感じなの? 腹筋とか割れてるの?」
莉奈や美咲の遠慮のない質問に、私は曖昧な苦笑いを返す。湊兄さんは部内の憧れの的だ。けれど、こうして友人たちの口から、一人の魅力的な男の子として品定めされるのを聞くのは、やはり胸の奥がチリチリと焼けるようにざわつく。
「みゆは河村くんがいるから余裕よね」
美咲がニヤニヤしながら私の肩を突つく。
「陽太くん、昨日も顔を真っ赤にして『水着が見れるのかな』なんて言ってたんでしょ? 幼馴染特権、ずるすぎるー!」
昨日の陽太の照れた顔を思い出し、私は耳の裏まで熱くなるのを感じた。
「もう、陽太のバカ。あんなこと言われたら、意識しちゃうじゃない……」
「いいじゃない、可愛いんだから。しっかり捕まえておきなさいよ。……でもね」
莉奈がそう言いながら、私にある一着の水着を差し出した。
それは、清楚な真っ白なワンピースタイプだけれど、背中が大きく開き、ウエストのラインが驚くほど鮮明に出る、今の私には少し背伸びをしたような、危ういデザインだった。
「みゆは肌が白くて綺麗だから、こういう潔い白が映えるわよ。河村くんをドキッとさせるには十分だし……。お兄さんを驚かせるにも、ね」
莉奈が意味深に微笑む。
「……兄さんを、驚かせる?」
「そう。妹だと思って油断してるお兄さんに、『あ、こいつも一人の女なんだ』って分からせるチャンスじゃない。十五歳の誕生日のプレゼントに、少しは動揺させてあげなさいよ。それくらい、妹としての特権でしょ?」
莉奈の言葉は冗談めかしていたけれど、私の心の奥底に眠る、自分でも気づいていない「何か」を鋭く突いた。 陽太への想いは本物だ。水族館で手を繋いだ時の、あの力強い体温を思い出すと、くすぐったい喜びが込み上げてくる。陽太に「可愛い」と思ってもらいたい。その気持ちに嘘はない。
けれど、鏡に映る自分を見つめながら、私は一瞬だけ、別の景色を想像してしまった。 この水着を見て、湊兄さんはどんな顔をするだろう。「生意気だ」といつものように笑われるだろうか。それとも――莉奈の言うように、少しは、一人の女の子として私を意識してくれるのだろうか。
「……これにするわ」
私は自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。
「決まりね! さあ、次はロッジで借りる浴衣に合わせる帯の色よ。みゆ、何色が兄様……あ、間違えた、河村くんの好みかしら?」
莉奈の冷やかしに笑いながらも、私は白い水着を大切に抱えてレジへと並んだ。
ショッピングモールからの帰り道、紙袋の中でカサリと音を立てる白い水着が、まるで自分だけの秘密の共犯者のように思えた。夕食を終え、お風呂に入り、自分の部屋の鍵をそっと閉める。雫お姉ちゃんはリビングで明日の予定を確認しているし、湊兄さんは自室で素振りをしているだろうか。
私は、まだタグのついたままの新しい水着を、ベッドの上に広げた。
蛍光灯の光を反射する潔いまでの白。清楚なワンピース型なのに、手に取ってみると驚くほど生地は薄く、背中から腰にかけての曲線が容赦なく露出するデザイン。莉奈が言った「一人の女だと分からせる」という言葉が、呪文のように頭の中で反芻される。
(……一回だけ。一回だけ、着てみよう)
誰に見せるわけでもないのに、鼓動が耳の奥でうるさく打ち鳴らされる。
私はパジャマを脱ぎ捨て、鏡の前でその「白い特権」に袖を通した。
冷んやりとした生地が肌に吸い付く。
鏡の中に映っていたのは、いつもの「水瀬家の末っ子」ではなく、どこか見知らぬ、危ういバランスで大人になろうとしている一人の少女だった。濡れたように肌に馴染む白が、陽光の下ではどれほど眩しく映るだろう。背中の大きく開いたラインに指を這わせると、自分でも気づかなかった背筋の細さが、ひどく無防備に感じられて肩が震えた。
(……陽太は、どんな顔をするかな)
目を閉じれば、砂浜に立つ陽太の姿が浮かぶ。
「……似合ってるよ、みゆ。すごく、綺麗だ」
きっと彼は、そう言って顔を真っ赤にするだろう。水族館の時みたいに、不器用な手つきで私の肩を抱き寄せてくれるかもしれない。そんな想像をすると、胸の奥がくすぐったい熱で満たされる。陽太の真っ直ぐな瞳に、この姿を一番に焼き付けたい。それは、紛れもない私の本心だった。
けれど――。
思考の端に、どうしても別の影が滑り込んでくる。
もし、九十九里の波打ち際で、この姿のまま湊兄さんと目が合ったら。
『おい、みゆ。そんな恰好して、陽太を困らせるなよ』
いつものように、あきれた顔で笑われるだろうか。それとも。
ふと湊兄さんの笑みが消え、私の肌を射抜くような、あのコートで見せる鋭い「エースの眼」で私を見つめる瞬間。言葉を失い、喉仏が小さく上下する。私を「妹」としてではなく、踏み込んではいけない境界線の向こう側にいる「女性」として、初めて意識する瞬間。
(……だめ。私、何を考えてるの)
鏡の中の自分と目が合う。頬は林檎のように赤く染まり、瞳は熱っぽく潤んでいる。
陽太に恋をしているはずなのに。陽太に愛されたいと願っているはずなのに。
それと同じくらいの激しさで、湊兄さんの世界を揺さぶってみたいと切望している自分がいる。
十五歳の誕生日。彼が少年から大人へと脱皮するその瞬間に、彼の網膜に、消えない傷跡のような私の姿を刻み込みたい。
それはもはや妹の情愛ではなく、もっと暗くて、烈しい、名付けようのない独占欲だった。
「みゆ、まだ起きてるの? そろそろ寝ないと明日辛いわよ」
階下から聞こえた雫お姉ちゃんの穏やかな声に、私は弾かれたように水着を脱いだ。
脱ぎ捨てた白は、床の上で儚い抜け殻のように横たわっている。
私はそれを丁寧に畳み、合宿用のバッグの底、一番奥深くに隠した。
陽太への「光」と、湊兄さんへの「闇」。
その両方を詰め込んだバッグを枕元に置き、私は熱を持った身体をベッドに沈めた。
九十九里の砂浜、潮風の匂い、そして闇の中で火花を散らす手持ち花火。 陽太への純粋な恋心と、湊兄さんを巡る女子たちの思惑、そして自分の中に隠した言葉にできない熱。 それらが混ざり合い、運命を揺り動かす四日間が、すぐそこまで迫っていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
予定よりかなりボリュームが増えていました。
合宿の発表から水着の買い出し。
その後の妄想。
次から夏合宿へ入ります。
四日間貸切の四泊五日の合宿となります。




