水族館の青と記憶
夏休みが始まって一週間。
ジリジリと容赦なくアスファルトを焼き、視界を白く飛ばすような猛暑の中、私は陽太と二人、品川の駅に降り立っていた。改札を抜けた瞬間に押し寄せる、都会特有のむせ返るような人の熱気。遠くのビル群の影で陽炎が揺れ、行き交う人々の喧騒が鼓膜を震わせる。
「……暑いね、陽太。立ってるだけで溶けちゃいそうだよ」
「だな。でも水族館の中に入っちゃえば別世界だし。あそこ、イルカショーの迫力がすごいらしいんだぜ。みゆ、楽しみにしてただろ?」
陽太は不慣れな私服姿で、落ち着かないのか何度もシャツの襟元を整えたり、斜めがけしたバッグのストラップを直したりしながら、少し気恥ずかしそうに笑った。
普段の練習で泥と汗にまみれたユニフォーム姿とは違う、清潔感のある真っ白なTシャツに、形の良いネイビーのハーフパンツ。背伸びしすぎず、けれど一生懸命に選んでくれたことが伝わるその装いは、真っ直ぐで嘘のない彼の性格をそのまま映し出している。
「あ、やっぱりかっこいいな」
心の中でそっと呟き、私は純粋に胸を弾ませる。隣に並ぶ陽太の肩が時折触れるたび、練習中には見せない彼の素顔に触れているような気がして、頬が熱くなる。陽太と一緒にいられるこの時間は、間違いなく今の私にとって、最高のご褒美で、心から待ち望んでいた幸せなひとときだった。
けれど、エントランスの自動ドアを抜け、一歩館内に踏み出した瞬間。
外界の暴力的な騒々しさと熱気を一瞬で遮断した、ひんやりとした薄暗い闇。そして、巨大な水槽の奥から漏れ出す、深く、透き通った青色の光が私を包み込んだ。その途端、幸せな高揚感で満たされていたはずの私の胸に、予期せぬ記憶の断片が、鋭い硝子の粒のように突き刺さった。
(……ここ、前にも来たことがある。たしか、あの時もこんな匂いがした)
鼻腔をくすぐる、微かな消毒液と潮の香りが混ざり合った独特の空気。それは、まだ私が小学校に上がる前、家族五人で遊びに来た時の遠い記憶を呼び覚ます。
ゆらゆらと揺れる巨大な水槽を見上げ、視界いっぱいに広がる青の世界に圧倒されていた私の隣にいたのは、今の陽太ではなく、まだ少年の幼さが残る湊兄さんだった。
「ほら、みゆ、こっち見て。あの平べったい魚、裏側から見ると顔みたいに見えないか?」
陽太がパンフレットを片手に、一生懸命私を楽しませようと次々に水槽を指差してくれる。その弾んだ声が、不意に過去の湊兄さんの、少し生意気で、けれど妹への優しさに満ちた声と重なって聞こえた。
『みゆ、見てみろよ。あのエイ、笑ってるみたいだぞ。お前に似てねーか?』
あの時、湊兄さんは人混みの中で私が迷子にならないよう、私の小さな手をずっと握って、痛いくらいの力で離さないように守ってくれていた。今の陽太と同じように、好奇心に満ちた真っ直ぐな瞳で魚を追いかけながら、時折、私の反応を確かめるように嬉しそうに覗き込んできた、あの瞳。
「みゆ? ……どうかしたか? 魚、あんまり興味なかった?」
陽太が心配そうに顔を近づけてくる。私はハッとして、慌てて首を振った。
「ううん、違うの! ふふ、本当だね。エイの裏側って、不思議だよね。本当に笑ってるみたいで可愛い」
私が精一杯の笑みを返すと、陽太は心底安心したように目を細めた。
「よかった。実はここに来る前、湊さんに宣言しちゃったからさ。みゆをエスコートしてくるって。……でも湊さん、『あいつは魚が好きだからな、しっかり見てやれよ』って、俺よりずっとみゆの好みに詳しくてさ。正直、ちょっと悔しかったんだ。だから、今日は絶対楽しませなきゃって」
陽太が少し照れくさそうに笑いながら話すその言葉。
私のために、わざわざ湊兄さんにまで真っ向から掛け合ってくれた彼の誠実な想いは、間違いなく私の心をじんわりと温めてくれる。彼は私のヒーローで、私の「彼氏」なのだ。
けれど、巨大なトンネル型の水槽の下に差し掛かった時。
陽太が、決意を固めるように小さく息を呑んで、私の手をそっと握った。
日々の激しい練習でタコができ、硬くなった彼の掌。その指先の心地よいザラつきや、肌から伝わってくる力強い熱を感じるたびに、私の脳裏にはどうしても、あの日、私の手を引いていた少年の湊兄さんの掌の感触が、鮮明な質感を伴って蘇ってしまう。
(陽太の手は、あの日繋いだ湊兄さんの手よりは少し大きくて……でも、今の湊兄さんの手よりは、まだ少しだけ、薄くて小さい……)
そんな残酷な比較をしたいわけじゃない。そんなこと、陽太に対して一番失礼なことだと分かっている。
陽太のことが大好きで、今こうして彼とデートしている時間は本当に楽しくて、これ以上の幸せなんてないはずなのに。
陽太から伝わる体温が心地よければよいほど、無意識のうちにその感触の「正解」を、湊兄さんの記憶の中に探してしまう自分が、ひどく怖くなる。
私は、繋いだ陽太の手をぎゅっと、壊さないように力を込めて握り返した。
この温もりを「正解」にしなければならない。湊兄さんの面影を追いかける自分を殺すように、私は陽太の肩にそっと寄り添った。
「――みゆ、ここだ! ここなら最高に見えるぞ!」
スタジアムに滑り込むと、ちょうど開始直前、プールの真ん前にある最前列と二列目の席がぽっかりと空いていた。陽太は迷わず、水面を間近に拝める一列目に陣取り、私はその後ろ、二列目に腰を下ろした。
「陽太、そこ絶対ずぶ濡れになるよ? 二列目でも十分近いってば」
「いいんだよ、これが醍醐味だろ! ほら、来るぞ!」
陽太の興奮した声が響くと同時に、巨大なシャチが水面を蹴った。空中で巨体がひるがえり、着水の瞬間、爆弾が落ちたような轟音と共に「水の壁」が迫ってきた。
「きゃああっ!?」
「うわっ、マジか! すげぇ!!」
逃げる暇もなかった。最前列の陽太は頭からバケツどころか、滝を浴びたような有様で、真っ白なTシャツが肌に透けて張り付くほど全身ずぶ濡れになっている。その後ろにいた私にも容赦なく飛沫は降り注ぎ、肩から胸元、そして紺色のフレアスカートまでがぐっしょりと重くなるほど濡れてしまった。
「……もう、だから言ったのに!」
「あっはは! 悪い悪い、でも最高だったな!」
水滴を拭いながら、陽太が振り返って笑う。前髪がオールバックのように張り付いた彼の顔があまりに無邪気でおかしくて、私も思わず声を上げて笑ってしまった。陽太は席を立ち、自分のタオルを広げて私の頭から肩を優しく包み込んでくれた。その拍子に、濡れた彼の服から伝わる熱い体温と、微かな潮の香りが混ざり合い、私の心臓がトクンと跳ねた。
ショーが終わり、エアコンの効いた館内に戻ると、濡れたスカートが脚にまとわりついて少しだけ寒く感じられた。陽太は「風邪引くなよ」と、自分の着替え用に持ってきていた薄手のパーカーを私の肩にかけてくれた。彼の体温と、陽太の匂いが鼻先をかすめる。
人混みが途切れた、巨大なトンネル水槽の片隅。
青い光が彼の輪郭を縁取り、水面の揺らぎが私たちの足元に複雑な模様を描いている。陽太は立ち止まり、まだ少し湿った私の手を、今度は壊れ物を扱うようにそっと握り直した。
「……みゆ、大好きだよ」
青い光に照らされた陽太の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。
「俺、もっともっと強くなって、湊さんに胸を張って認められるような選手になる。いつか絶対に越えてみせるから。……だから、ずっと俺の隣にいてほしい」
彼のその誠実すぎる言葉に、私は一欠片の嘘もなく答えた。
「……ありがとう、陽太。私も、陽太のこと大好きだよ」
私は、繋いだ陽太の手をぎゅっと握り返した。陽太は私に「一人の女の子」としての居場所をくれる。彼と一緒にいれば、私は水瀬家という檻から自由になれるはずなのだ。
けれど、彼が湊兄さんの名前を出すたび、私の胸の奥に沈んでいた「想い」が静かに巻き上がる。陽太が湊兄さんを越えようと努力すればするほど、私の中の湊兄さんは、さらに巨大で、不可侵な神格のように完成されていく。
(陽太、ごめんね……。あなたを愛しているのは本当なの。でも、私の半分は、もう湊兄さんでできているの……)
分厚いガラスの向こう側、悠然と泳ぐサメの影を見つめながら、私は幻想的な青い世界の中で、どうしても振り払えない沈殿物に胸を締め付けられていた。
陽太との明るい未来を夢見ようとするほど、その土台にある私の記憶は、すべて湊兄さんと過ごした時間で隙間なく埋め尽くされている。陽太という光に包まれながらも、私は湊兄さんという存在が作り出した「家族」という名の、深くて冷たい青い檻の中から、どうしても抜け出せずにいた。
陽太の隣で心からの笑顔を浮かべ、幸せを噛み締めているはずなのに。
私の心の奥底には、一生消えない秘密という呪いが、重い沈殿物のように溜まっていくのを、私は確かな恐怖と共に感じていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
イルカショーは見応えありますけど、座る場所考えちゃいます。
3列目までは高確率で濡れます
後ろの方だと迫力が足りなくてイマイチに感じます。
どこが正解なんでしょうね?




