宣言と夕映え
部活終わりの校門付近には、焼けたアスファルトの匂いと、誰かが使い切った制汗スプレーの甘い香りが熱気に混じって停滞していた。女子部よりも練習が長引いた男子部を待って、私は正門横にある、立派な銀杏の木の下に立っていた。セミの鳴き声が、まるで世界を急かすように激しく降り注ぎ、代わりにどこかの家から蚊取り線香の懐かしい匂いが風に乗って届く。
「おーい、みゆ! 待たせたな」
不意に届いた、低く、けれどよく通る声に顔を上げた。
湊兄さんと陽太が、並んでこちらに向かってくる。
湊兄さんは、あの中学最強のエースとしての猛練習を終えたばかりだというのに、涼しい顔をしてラケットバッグを片肩に引っ掛けていた。夕陽を背負って歩くその姿は、逆光のせいで輪郭が黄金色に縁取られ、神々しいほどの圧倒的な存在感を放っている。
一方の陽太は、対照的にボロボロだった。前髪は汗で額に張り付き、ユニフォームの肩口には土埃が白く浮いている。荒い呼吸のせいで肩が上下に揺れ、手首に巻かれたリストバンドは汗を吸って重そうだ。あの日、湊兄さんの過酷なノックに泥まみれで食らいついていた時と同じ。完璧なエースの隣で、不格好に、けれど誰よりも全力で足掻き、その背中を追い続ける少年の姿。
「……お疲れさま。二人とも、今日は一段と遅かったね」
「悪い悪い。陽太がさ、『あと一本、もう一本サーブ見てください』って食い下がるもんだから。こいつ、マジでしぶといんだよ」
湊兄さんが快活に笑い、陽太の細い首筋に太い腕を回してグイと引き寄せた。陽太は「痛いっすよ、湊さん……」と弱々しく零しながらも、その頬は高揚で赤らんでいる。湊兄さんに認められ、しごかれたことへの誇らしさが、その瞳にはっきりと滲んでいた。
三人で歩き出す。夕闇が急速に街を侵食していく帰り道。住宅路の街灯が一つ、また一つと瞬き、点り始めた。
私の右隣には、湊兄さんの大きな体。そこからは、練習の熱がまだ冷めない、男の子特有の強い体温が伝わってくる。左隣には、陽太の少し荒い呼吸と、必死に私の歩調に合わせようとする健気な気配。
二人の少年の間に挟まれているだけで、自分の肌が内側からじりじりと焼けるような、奇妙な錯覚に陥る。
「……で、お前ら。夏休みはどうすんだ?」
前を向いたまま、湊兄さんが何気なく問いかけた。
「どうするって……何が?」
「陽太だよ。練習以外のこと。みゆ、お前こいつにどっか連れてけって毎日せがんでるんだろ? 陽太も、エース目指すなら練習も大事だが、こいつの機嫌取るのも大事な修行だぞ」
「ちょっと、兄さん! 勝手にわがままみたいに言わないでよ!」
私が慌てて抗議すると、湊兄さんは「あはは、図星だろ」と少年のような顔で笑った。その笑い声は、どこまでも澄み切っていて、私が知ってしまった「神崎」という名前の影など、一欠片も、一瞬の澱みも感じさせない。
(どうしてそんなに、優しく笑えるの、兄さん……)
胸の奥が、氷を飲み込んだように冷たく痛む。兄さんは、自分の「可愛い妹」と「一番弟子」が付き合っていることを、心から祝福している。その一点の曇りもない善意が、今の私にはどんな毒よりも苦しく、身体を内側から蝕んでいく。
その時だった。
ずっと黙って足元を見ていた陽太が、ギュッとラケットバッグの紐を握りしめ、顔を真っ赤にして湊兄さんを見上げた。
「湊さん! 俺……夏休みの最初のオフに、みゆを水族館に連れていきます。二人で、行ってきます」
静かな歩道に、陽太の震える声が響き渡った。
私の心臓が、耳元で鳴っているかと思うほど大きく跳ねる。湊兄さんの前で、わざわざそんな宣言をするなんて。
「ほう。水族館か。いいじゃねーか、夏っぽくて」
湊兄さんはふと歩みを止め、陽太の顔を真っ直ぐに見据えた。
「みゆ、昔から魚の図鑑とか好きだったもんな。……けど、陽太。お前、分かってんだろうな」
湊兄さんの声から、一瞬でおどけたニュアンスが消えた。エースとしての鋭い眼差しが、陽太を射抜く。それは、愛する妹を託す兄としての、静かな、けれど逃げ場のない圧倒的な圧力だった。
「……はい。分かってます」
「みゆは、俺の大事な妹だ。……もし泣かせたり、悲しませたりしてみろ。お前のサーブ、練習でも一生拾ってやらねーからな」
湊兄さんはそう言うと、次の瞬間にはいつものように豪快に笑い、陽太の背中をバチンと、空気が弾けるような音を立てて力任せに叩いた。
「っ……! い、痛てぇ……。湊さん、力強すぎですって。……でも、誓います。絶対、みゆを悲しませたりしません」
陽太は叩かれた衝撃に顔を歪めながらも、湊兄さんの視線を決して逸らさなかった。
その二人の間に流れる、強く、硬い、男同士の信頼の絆。
陽太は湊兄さんに認められることで、私を「守る」資格を得ようとしている。その純粋さが、あまりにも眩しくて。
夕映えに染まる二人のシルエットを見つめながら、私は足元に落ちる自分の長い影を見つめていた。
陽太の誓いも、湊兄さんの優しさも。そのすべてが、私の中に巣食う『水瀬湊』への狂おしい執着を、より深い、底なしの暗闇へと追いやっていく。
陽太の手を握ろうとするたびに、私の指先は、すぐ隣を歩く湊兄さんの、あの逞しい腕の感触や、首筋に浮かぶ血管を思い出して震えてしまう。
「……行こう、みゆ」
陽太が、湊兄さんの視線の前で初めて、私の手をそっと、確認するように握った。
湊兄さんは、それを見ても嫌な顔一つせず、ただ「お幸せにな」とでも言うように、少し先を軽やかな足取りで歩き出した。
オレンジ色の世界が夜に溶けていく中で、私は二人の少年に愛されながら、自分でも気づかないほど深く、深く、取り返しのつかない罪の沼に足を踏み入れていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
ごめなさい。 今回は休憩の手抜きでボリューム少なめです。




