陽太の背中と、家族の夕食
放課後のチャイムが鳴ると同時に、私は吸い寄せられるようにテニスコートへと足を向けた。
コートでは、湊兄さんが陽太にサーブの指導をしていた。夕方の黄金色の光を浴びながらラケットを振る湊兄さんの姿は、まるで映画のワンシーンのように洗練されている。
一方の陽太は、いつもクラスで見せる生意気な態度はどこへやら、湊兄さんの前では借りてきた猫のように大人しかった。
「陽太くん、今のスイングはすごく良かったよ。でも、もう少しだけ左肩を意識してみて」
「はい! ありがとうございます、湊さん!」
湊兄さんが優しく声をかけると、陽太はがむしゃらにボールを追いかける。その真剣な眼差し、額に光る汗。それを見ていると、私の心臓も少しだけ速く動いた。
「お、みゆ。見に来てくれたんだね」
練習が一段落したところで、湊兄さんが気づいて爽やかに手を振ってくれた。
「湊兄さん! かっこよかった!」
「はは、ありがとう。みゆも少し打ってみるかい?」
「うん!」
湊兄さんのリードで、三人でボールを打ち合う。湊兄さんが投げてくれるボールはとても打ちやすくて、私はお姫様になったような気分でラケットを振った。けれど、しばらくして湊兄さんが腕時計を見た。
「あ、ごめん。今日、姉さんに頼まれていた用事があるんだった。先に帰るけど、二人は無理しないように!」
「えー、もう帰っちゃうの?」
「ごめんね、みゆ。陽太くん、みゆのこと、よろしく頼むよ」
「任せてください、湊さん!」
湊兄さんが去り、コートには私と陽太の二人きりになった。
「よっしゃ、みゆ。本気で行くぞ! 湊さんが見てないからって手は抜かねーからな!」
「望むところよ!」
陽太の打球を必死に追いかけたその時だった。
グキッ、と嫌な感触が足首に走り、私はそのまま地面に倒れ込んだ。
「あいたっ……!」
「おい、みゆ! 大丈夫か!?」
陽太がラケットを放り投げて駆け寄ってくる。その顔は、今まで見たこともないほど真っ青に強張っていた。
「ごめん、俺が無理なコースに打ったから……。見せてみろ」
陽太が私の足首に触れる。その手は少し震えていて、でも、驚くほど温かかった。
「……歩けるか?」
「……っ、痛い」
立ち上がろうとしたけれど、あまりの痛みに顔が歪む。すると陽太は、迷うことなく私の前に背中を向けた。
「乗れよ。家まで送ってやる」
「えっ、でも、悪いわよ……。肩貸してくれれば……」
「いいから! ほら、さっさとしろよ」
陽太に急かされ、私はおずおずとその背中にしがみついた。
ぐいっ、と体が持ち上げられる。
陽太の背中は、記憶の中にあるものよりずっと広くて、しっかりしていた。首筋から漂う石鹸と汗が混じった匂い。歩くたびに伝わってくる、彼の肩の筋肉の動き。
(……陽太の心臓の音、聞こえそう)
「……重くない?」
「お前、もっと食えよ。軽すぎて心配になるわ」
ぶっきらぼうな言い方だけど、私を支える腕には力がこもっていて、決して落とさないという意志が伝わってくる。いつもは喧嘩ばかりしているのに、今の陽太は、誰よりも頼もしい男の子に見えた。
家に着くと、玄関で姉さんと湊兄さんが飛んできた。
「みゆ! その足、どうしたの!?」
「すみません、雫さん。俺が無理させちゃって……。本当にすみませんでした」
陽太が真っ直ぐに姉さんの目を見て、深く頭を下げた。姉さんは厳しい表情を崩さなかったけれど、湊兄さんが間に入ってくれた。
「姉さん、陽太くんがずっと背負ってきてくれたんだよ。……陽太くん、本当にありがとう。助かったよ」
「……そう。陽太くん、みゆを助けてくれてありがとう。今日は遅くなったから、食べていってちょうだい。準備するわ」
「えっ、でも……」
「いいから! ほら、陽太くんも座って」
湊兄さんに促され、その夜は四人で食卓を囲んだ。
姉さんは言葉数こそ少なかったけれど、陽太くんの取り皿におかずをたっぷりよそってあげていた。湊兄さんは「これ、姉さんの得意料理なんだよ」と陽太くんに笑いかけ、私はそんな賑やかな光景を、痛む足をさすりながら見つめていた。
陽太くんは少し緊張しながらも、美味しそうに姉さんの料理を食べている。
「……美味しいです」
そう言ってはにかむ陽太の横顔を見て、私の胸はまた、お風呂上がりの火照りのように熱くなった。
姉さんの引いた境界線の内側に、陽太がいる。
それがとても不思議で、でも、どこか誇らしいような。
そんな温かな夜の空気に、私は自分の恋心の正体を見失いそうになっていた。




