欠落のアルバム
陽太と繋いだ手の温もりをセーラー服のポケットに残したまま、私は夕暮れの街を浮き立つような足取りで歩いていた。唇の端を指先でなぞれば、陽太の少しカサついた、でもこの上なく優しくて熱い感触が蘇る。心臓の鼓動がまだ耳の奥でうるさい。
(私、陽太の彼女になったんだ……。今日はなんて、奇跡みたいな日なんだろう)
お父さんとお母さんが帰ってきたら、この幸せな報告はできないけれど、胸に秘めたままお祝いしてもらおう。そして念願のスマートフォンを手に入れたら、一番に陽太へメールを送るんだ。「今日はありがとう。大好きだよ」って。そんな甘い妄想に浸りながら家の鍵を開けると、家の中はひんやりとした静寂に包まれていた。
「ただいまー」
返事はない。お父さんたちとお姉ちゃんはまだ駅へ迎えに行った帰りで、部活に出ている湊兄さんもまだ帰っていないようだった。私は誰もいないリビングのソファに深く腰掛け、大きく息を吐いた。陽太に肩を抱かれた時の熱が、まだ全身に残っている。
(陽太……。あんなに生意気だったのに、いつの間にか背も高くなって、あんなに真剣な顔をして……)
ふと、彼とのこれまでの時間を、物理的な証拠として遡りたくなった。私は吸い寄せられるように廊下の収納棚へ向かい、何冊か重なった分厚い家族アルバムを取り出した。幼い頃の私と陽太、そして湊兄さんが一緒に笑っている写真を見返して、今の幸せを噛みしめたかったのだ。
自室のベッドに座り、ページを捲る。
中学生、小学生、幼稚園……。陽太と喧嘩して泣いている私の横で、湊兄さんが困ったように笑っている。そのページを遡るたびに、湊兄さんの姿はどんどん幼くなっていく。
けれど、ある一点で私は奇妙な感覚に囚われた。
自分の誕生日のページには、産院で私を抱くお母さんと、五歳のお姉ちゃん、そして一歳の湊兄さんが当たり前のように写っている。それはいい。でも、その「前」がないのだ。
私は、自分が生まれる直前の記録を求めて、別のアルバムを開いた。
お母さんが私を身ごもり、臨月でパンパンにお腹を膨ませていた頃の記録。そこには、お腹に手を当てるお母さんと、はしゃぐ五歳のお姉ちゃんの姿はあっても、どこを探しても湊兄さんの姿がない。
お姉ちゃんが生まれた時の記録は、それはもう詳細に残されている。初めて産声を上げた瞬間、お風呂に入っている時、寝返りを打った時……。それなのに、湊兄さんが「赤ちゃんであった頃」の写真が、この家のどのアルバムにも一向に現れないのだ。
二歳年上の兄さんなら、私が生まれる二年前から、この家で赤ちゃんの時期を過ごしているはずなのに。アルバムの中の湊兄さんは、私が生まれたその日から、突如として「一歳の男の子」の姿で、あたかも最初からそこにいたかのように現れる。
「そんなはず、ない。だってお兄ちゃんなのに……」
喉が渇き、呼吸が浅くなる。私は棚の最奥、埃を被った古い茶色の革表紙のアルバムを手に取った。それは家族の公式な記録ではなく、お父さんが個人的に管理していた、古い交友関係のスクラップのようだった。震える指でページを捲ったその時、一枚の集合写真が目に飛び込んできた。
若い頃のお父さんと、臨月でお腹の大きな私のお母さん。そして五歳のお姉ちゃん。その隣に、見知らぬ、けれど上品そうな夫婦が並んで写っている。その夫婦の腕の中には、まだ幼い、けれど湊兄さんの面影を色濃く残した一歳の男の子がいた。
写真の端に刻印された日付は20XX年6月15日。
写真のページに小さなメッセージが記されていた。
『神崎夫妻と湊くん(一歳)。我が家へ遊びに来てくれた休日。』
日付は、私の誕生日である六月二十日のわずか数日前。そして、次のページに、セピア色に褪せた新聞記事と、一通の書類の控えが挟まっていた。
『神崎夫妻、不慮の事故で急逝――残された一歳の長男、湊くんの行方』
『水瀬家、旧知の友人であった神崎家の遺児を、次女の誕生と同時に養子として引き受け……』
頭から冷水を浴びせられたような衝撃だった。
湊。神崎湊。私たちが「兄さん」と呼び、この家の中心として、何より守るべき太陽として育てられてきた人は、私たちと血の繋がりが一点もない、赤の他人だったのだ。
私が産声を上げたその日に、彼は最愛の両親を亡くし、この家に「水瀬湊」として作り直された。
(兄さんは……何も知らないんだ。自分の本当のお父さんもお母さんは、私が生まれる前に亡くなってしまったことも。自分の本当の名前が、この家とは無関係な『神崎』だということも……)
絶望的な秘密の重さに、私は崩れ落ちるように床に膝をついた。さっきまで唇に残っていた陽太の熱なんて、一瞬で吹き飛んでしまった。この家は、最初から嘘で塗り固められていたのだ。
その時だった。階下でガチャン、という玄関の開く音が響き渡った。
「ただいま、みゆ! 待たせちゃったわね、お父さんもお母さんも一緒よ!」
お姉ちゃんの、弾んだ声。私はパニックになり、震える手でアルバムと書類をひとまとめにすると、まだ見ていなかった古いアルバムの山の一番下へ、押し込んだ。
「みゆ? 部屋にいるの?」
お姉ちゃんの足音が階段を上ってくる。私は必死で心臓の鼓動を抑え、鏡も見ずに顔を上げた。ドアが開く。そこには、ブランド物の大きな紙袋を抱えた雫お姉ちゃんと、満面の笑みを浮かべたお父さんとお母さんが立っていた。
「おかえりなさい! お父さん、お母さん! 待ってたよ!」
私は、自分でも驚くほど明るい、偽物の声を出し、懐かしそうに両親へ駆け寄った。お姉ちゃんは一瞬、私の部屋に無造作に積み上げられた、まだ中身を見ていない古いアルバムの山に視線を移した。その氷のように鋭い瞳が、一番下に押し込まれた背表紙の歪みを一瞬だけ捉えたような気がして、背筋が凍りつく。
(写真には触れていないから不自然ではないよね...)
「……みゆ、アルバムなんて見ていたの?」
お姉ちゃんの声が、微かに探るような響きを帯びる。その視線は、まだ私が開いていないはずのアルバムの束を執拗に観察していた。
「うん。今日、陽太と昔の話をしたら懐かしくなっちゃって。お父さんたちの若い頃の写真が見たくて、色々出しちゃった。お母さん、昔からすごく綺麗なんだもん!」
私の必死の演技に、お姉ちゃんは目に見えて安堵の表情を浮かべた。
(……よかった。この子はまだ、あのアルバムには辿り着いていない。まだ秘密の重さは背負わせられないもの)
そう独りごちたような顔に、いつもの慈愛に満ちた聖母のような微笑みが戻る。
「そう、よかったわね。さあ、一階へ行きましょう。お父さんたちが選んでくれたスマートフォン、とっても素敵よ。湊ももうすぐ帰ってくるわ。家族五人で、最高の誕生会をしましょうね」
お母さんが私を優しく抱きしめる。その温もりはいつも通り温かなはずなのに、今の私には、この家全体がいつ崩壊してもおかしくない、硝子の細工で作られた偽物の城のように思えた。
秘密を知ってしまった、私。
秘密を隠し通し、「家族」を維持しようとするお姉ちゃん。
そして、自分が「水瀬家の人間」ではないことを知らずに、これから帰宅して、太陽のように笑いかけるであろう湊兄さん。
私は震える指先を制服のポケットに隠しながら、嘘で塗り固められた「家族の聖域」の主役を演じるために、一階へと階段を下りた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
予想されていた方が大半だと思います。
不完全ながら真相の一部を知ってしまった形になります。
この後は家族の誕生日会へ進みます。




