誕生日前夜の静寂(後編:陽太の部屋)
「……あと、四時間か」
机の上のデジタル時計が、秒を刻む小さな音を立てている。午後八時。日付が変われば、六月二十日。みゆが生まれて、十三年目の朝が来る。
窓の外からは初夏の湿り気を帯びた風が入り込み、カレンダーの「六月二十日」に引いた、自分でも驚くほど筆圧の強いマジックの丸印を静かに揺らしていた。
俺はベッドに背中を預け、天井の木目を見つめながら、自分の右手のひらを握ったり開いたりしてみた。
四月の入部から二ヶ月。湊さんに文字通り「絞り込まれた」おかげで、手のひらにはいくつもの硬いマメができている。ラケットを握るたびに走るその鈍い痛みは、俺がこの二ヶ月間、必死に食らいついてきた証でもあった。
『いいか、陽太。お前が『今のままがいい』なんて逃げてる間に、みゆがどれだけモヤモヤしてるか分かってんのか? 守る守るって言ってるけど、一番大事な時に踏み込まないのは、守ってるんじゃなくて放ったらかしてるだけだぞ』
一週間前、部活の帰りに湊さんから叩きつけられた言葉が、今も耳の奥で熱を持って響いている。あの時の湊さんの目は、いつものような「からかい」じゃなかった。俺の心の弱さを正確に射抜く、鋭くて、それでいて温かい目。
『あいつはもう、お前の後ろをついて回るだけの子供じゃない。お前がちゃんと向き合わないから、あいつは自分に自信が持てないんだ。……来週の誕生日に、ちゃんと言葉にして伝えてやれ。俺が兄貴として言えるのはここまでだ。あとはお前が男を見せろよ』
……湊さんの言う通りだ。
俺は、自分が傷つくのが怖かったんだ。みゆを大切にしているなんて自分に言い訳をして、「幼馴染」という安全な場所に逃げ込んでいただけだ。あいつが俺の顔を伺って、何か言いたげに唇を噛んでいるのを知りながら、俺は「今まで通り」という偽りの平穏を守ることに必死だった。
(……情けねーな、本当に)
俺はむくりと起き上がり、机の引き出しの奥から小さな包みを取り出した。
部活の遠征費を少しずつ切り詰めて、何度も雑貨屋に通ってようやく決めた、ささやかなプレゼント。中身を確認するまでもなく、その重みが俺の決意を後押しする。
この一週間、湊さんから課されたメニューは正直、殺人的だった。練習が終わる頃には足が棒のようになり、言葉を発する気力すら残らない。でも、泥まみれになって必死にボールを追っている間だけは、余計な迷いが消えた。ただ「強くなりたい」という思いだけが、俺の心に一本の軸を作っていくのが分かった。
今日の部活の帰り際、湊さんは部室の前で俺を呼び止めた。
『……明日、分かってんだろうな』
そう一言だけ言って、俺の肩を骨が鳴るくらい強く叩いた。湊さんは、俺が明日、何をしようとしているか全部お見通しなんだ。あれは、「男としてケジメをつけてこい」っていう、湊さんなりの最高の激励だった。
「……明日、学校で会ったら、ちゃんと言う」
自分に言い聞かせるように、暗い部屋の中で呟いた。
みゆが今、俺のことをどう思っているかは分からない。あいつの誕生日に、俺が関係を壊してしまうかもしれないという恐怖は、今でも体の奥で震えている。でも、あいつにこれ以上気を遣わせたくない。あいつが俺の隣で、ただの「幼馴染」としてじゃない、本当の笑顔を見せてくれるなら、俺はどんな結果だって受け入れる。
俺は電気を消し、ベッドに潜り込んだ。
シーツの奥に顔を沈めると、初夏の夜の静けさが部屋を満たしていく。
明日、放課後の屋上で。
十三歳になる彼女に、俺の全部を、飾らない言葉でぶつけよう。
(おめでとう、みゆ。明日、ちゃんと話そう。……俺から、逃げずに)
眠りに落ちる直前、俺は静かに、けれどしっかりと拳を握った。
六月の月明かりが、決意を固めた少年の横顔を、どこか大人びた陰影で静かに照らし出していた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
陽太バージョンの告白前夜です。
存分に悩むがよい少年よ。
1話あたりの文字数が少ないことはご容赦くださいませ。。。




