誕生日前夜の静寂(前編:みゆの部屋)
「……あと、四時間」
学習机の片隅に置いたデジタル時計が、無機質に午後八時を刻む。あと四時間で、日付が変わる。そうすれば、私は十三歳になる。
窓の外からは、初夏の始まりを告げる夜の虫の声が、網戸越しに途切れ途切れに聞こえていた。六月の湿り気を帯びた夜風が、薄いカーテンを静かに揺らしている。
「みゆ、入ってもいいかしら? 少しお話ししましょう」
控えめなノックとともに、雫お姉ちゃんがトレイを持って入ってきた。部屋の中に、カモミールの甘く優しい香りがふわりと広がる。
「ありがとう、お姉ちゃん。……なんだか、目が冴えちゃって。明日の予習も、全然頭に入ってこないの」
私が苦笑いして椅子を回すと、お姉ちゃんはトレイを机に置き、私のベッドの端に腰掛けた。
「そうね。明日は特別な日だもの。……陽太くんとは、今日、学校で何か話せた?」
お姉ちゃんに核心を突かれ、私はカップを両手で包み込んだまま、ゆらゆらと立ち上る湯気を見つめた。
「……ううん。この一週間、陽太は、ずっと部活で兄さんに絞られてたから。帰りも兄さんと一緒に反省会してたみたいだし、ほとんど話せてないの。明日のことについても、特に何も……。平日は朝練もあるし、お互い自分のことで精一杯で」
あの雨上がりの夜、湊兄さんが玄関先で陽太に何を言ったのか、私は結局聞けずじまいだ。湊兄さんはよく「騎士」なんて言葉を使って陽太をからかうけれど、私にとってはそんな格好いい呼び名は必要なかった。ただ、陽太に私を子供扱いしないでほしい。一人の「女の子」として、今の私をちゃんと見てほしい。
同時に、この一週間必死に食らいついていた陽太に、負けていられないという思いもあった。
「ふふ、湊のことだから、きっと不器用な発破をかけたんでしょうね。でも、大丈夫よ、みゆ。陽太くんは、あなたのことを一番大切に思っているわ。それは、湊も私も、ずっと近くで見てきたから分かること」
お姉ちゃんが私の手をそっと握ってくれる。その指先の温かさに、少しだけ強張っていた心が解けていく。
「それから、みゆ。お父さんとお母さんから連絡があったわ。明日、お昼頃にはこっちに着けるんですって。仕事の都合で、そのまま明後日までゆっくりできるみたいよ」
「本当!? やったぁ……!」
「ええ。だから明日の夜は、久しぶりに家族みんなでお祝いしましょうね。プレゼントも用意してくれてるみたいよ。……ずっと欲しがってた、スマートフォン。お父さんたちが帰ってきたら、一緒に設定しましょうね」
ずっと欲しかったスマホ。ついに買ってくれるんだ。嬉しさで胸が躍るけれど、お姉ちゃんは少し真面目な顔をして続けた。
「お父さんたちが帰ってきたら、午後は私、二人を案内して少しお出かけしてくるわね。湊も放課後は部活の遠征準備があるみたいだし……明日の放課後は、家には誰もいなくなるから、ゆっくり羽を伸ばしていいわよ」
お姉ちゃんはいたずらっぽく笑った。それが何を意味するのか、私にもすぐに分かった。家族で祝うのは「夜」。だからこそ、放課後の時間は、私と陽太のためにわざと空けておいてくれるんだ。
「お姉ちゃん……。……うん、ありがとう。私、明日、学校で陽太に会ったら……私から、ちゃんと伝えようと思う」
「みゆ……?」
「陽太が何か言ってくれるのを待ってるだけじゃ、きっと今までと同じになっちゃう。陽太が頑張ってるのを見てたら、私も勇気が出てきたの。……私、陽太の前だといつも意地悪しちゃうから。ちゃんと好きだって、自分から言葉にしたい」
「そう。素敵ね、みゆ。あなたのその真っ直ぐな瞳があれば、きっと届くわ。……さあ、少しだけ休んで。明日は、あなたが主役なんだから」
お姉ちゃんが明かりを消して部屋を出ていった後、私は暗闇の中で一人、ベッドに横たわった。
新しいスマホ、家族との夜。でも、頭の中を占めているのは、明日伝える自分の言葉だった。
陽太にどんな顔をして、どんなタイミングで言おう。想像するだけで心臓が痛いくらいに鳴るけれど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
(……おやすみなさい、陽太。明日は私、もう幼馴染のふりなんてしないから)
まだ見ぬ「明日」への覚悟を、期待と少しの震えを交えながら思い描き、私はゆっくりと瞳を閉じた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
告白前夜のみゆバージョンです。
お姉ちゃん目線ではバレバレな関係の二人です。
みゆから伝える気持ちがある様子を描いています。




