王者のパス(湊視点)
雨上がりのテニスコートには、湿った土と芝が混じり合った独特の匂いが立ち込めていた。
俺は軽く汗を流しながら、隣のコートで必死にボールを追う陽太の動きを視界の端で追っていた。あいつ、さっきから完全に空回りしてるな。
(……ったく、昨日の今日でそんなに気負うなっての)
陽太は昔から真面目が服を着て歩いているような奴だ。昨日、俺が「騎士様」なんて少しからかったのを、あいつなりに重く受け止めてしまったんだろう。一打ごとにチラチラと俺の顔色を伺い、そのたびに肩に力が入りすぎて、ショットがベースラインを大きく越えていく。
「河村! そこ、足が止まってるぞ! 戻りを早くしろ!」
俺がコート全体に響く声で叱咤すると、陽太は「あ、はいっ!」と上ずった返事をして、さらにドタバタと足元を乱した。
他の部員たちの前で、あいつだけを特別扱いするわけにはいかない。むしろ、期待している分だけ俺の声も自然と厳しくなる。周囲の部員たちも、俺が「河村」に寄せる期待の大きさを感じ取っているのか、コートには心地よい緊張感が走っていた。
見かねた俺は、練習終了の笛が鳴るのを待って、自分のラケットをベンチに置いた。
「集合! 片付けだ! ボール拾い、漏れがないように確認しろよ。河村、お前はカゴの整理が終わったらちょっと残れ」
「……はい」
部員たちが「お疲れ様でした!」と一斉に散っていく中、陽太だけはまだ納得がいかない様子で、カゴに残ったボールを押し込んでいた。俺は他の部員たちが更衣室へ向かい、コートの入り口から姿が消えるのを見届けてから、あいつの後ろに歩み寄った。
そして、その首根っこを軽く、猫を運ぶように捕まえる。
「おい、陽太。オーバーワークだ。今日はもう上がり。これ以上やっても、コートに穴を掘るだけだぞ」
二人きりになったのを確認して、俺はいつもの呼び方に戻した。その途端、陽太の肩からスッと力が抜けるのがわかった。
「あ……湊さん。でも、俺……今のままじゃ全然ダメなんです。もっと練習して、湊さんに少しでも追いつかないと」
陽太は肩で息をしながら、悔しそうにラケットを握りしめた。その真っ直ぐすぎる眼差しは、時々眩しくて、少しだけ危うい。俺は苦笑いしながら、あいつの背中をポンと叩いてベンチへと促した。
「焦る気持ちはわかるけどな。陽太、お前はパワーで相手をねじ伏せるタイプじゃないだろ? お前の持ち味は、しなやかなフットワークと、相手の虚を突く配球だ。あんなに力んでちゃ、みゆに見せられるような『格好いい騎士様』にはなれないぞ」
「う……それは……部活中はあんなに厳しいのに、二人になるとすぐそれなんですから」
陽太が耳まで真っ赤にして俯く。そんな姿を見ていると、なんだか可愛げがあって、ついつい意地悪をしたくなるのが俺の悪い癖だ。けれど今は、あいつの心にある「重り」を少しだけ軽くしてやるのが先だろう。
「ははっ、冗談だよ。でもな陽太、お前は今、背も伸びてて体が一番変化している時期だ。無理に重い負荷をかけるより、自分の『軸』をしっかり作ることを考えろ。あいつ……みゆの誕生日は、確か来週だったろ?」
陽太が弾かれたように顔を上げた。
「来週まであと7日ある。技術を明日までに100にするのは無理でも、心構えを整えることはできるだろ。あいつにとって特別な日に、お前がそんな余裕のない顔をしてたら、せっかくのご馳走も台無しだ。みゆが気を遣って楽しめないなんてことになったら、俺が許さないぞ」
俺はあいつの頭を乱暴に、けれど親愛を込めてぐしゃぐしゃにかき回した。
「あと1週間。しっかり体を休めて、自分の等身大の強さを出せるようにしとけ。俺が認めたライバルなんだから、もっと胸を張れよ、陽太」
俺が真っ直ぐにあいつの名前を呼ぶと、陽太は一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに口元を緩めた。
「……はい、湊さん! ありがとうございます。俺、来週までに、必ず……心も体も、自分らしく整えてきます!」
顔を上げた陽太の瞳からようやく迷いが消え、いつもの真っ直ぐな、そして覚悟の決まった光が戻った。その顔を見て、俺も「よしよし」と心の中で頷く。
「その意気だ。さっさと着替えて帰るぞ。今日は姉さんの煮込み料理なんだよな。玄関まであのいい匂いが漂ってそうで、今から楽しみなんだ」
「いいなー、雫さんの料理。俺も腹減ってきました」
「陽太もお前の家でしっかり食って、体作れよ。来週、最高のコンディションでみゆの前に立たなきゃ承知しないからな。じゃあ、先着替えてくるわ!」
俺は陽太に背を向け、更衣室へと歩き出した。あいつなら、きっと大丈夫だ。この1週間で、陽太はまた一つ、男として強くなるだろう。そんな根拠のない、けれど確かな確信が、俺の胸の中にあった。
更衣室を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。雨上がりの湿った風が首筋に当たって、練習で火照った体にはちょうどいい。街灯の下、俺と陽太はいつものように並んで歩き出した。
(……ったく、いつまで黙り込んでるんだ、こいつ)
隣を歩く陽太は、さっき俺がコートで「騎士様」なんて言ったのをまだ気にしてるのか、地面の蟻でも数えてるんじゃないかってくらい俯いている。街灯の下を通るたび、あいつの影がビクビク揺れているのが見ていてイライラした。
「……湊さん」
不意に、陽太が消え入りそうな声を出した。
「さっき言われたこと……俺、ちゃんと考えておきます。自分の軸をしっかりさせること。湊さんに『騎士失格』って言われないように」
「ああ、そうしろ。お前は考えすぎなんだよ。テニスの時もそうだけど、一歩目が遅いんだ。そんなんだから、チャンスを逃すんだぞ」
俺は前を見据えたまま、カバンを肩に担ぎ直した。自分だって恋愛の正解なんて知らない。女子の気持ちなんて、姉さんの機嫌を伺うので精一杯だ。
「……で、技術の話はもういい。来週のみゆの誕生日、期待しているぞ」
「えっ!? な、なんで……」
「あいつ、昨日お前が帰った後、ずっと元気なかったぞ。お前が変に気を使って『幼馴染』のままでいようとするから、あいつが不安になってんだろ」
陽太は露骨に狼狽えて、カバンの紐をギュッと握りしめた。
「それは……俺だって、何かしたいと思ってますけど。でも、今の俺が何か言っても、みゆを困らせるだけじゃないかって……」
「あー、もう、まどろっこしいな!」
俺は足を止め、陽太の肩をガシッと掴んだ。自分でも少し言い過ぎかと思ったが、止まらなかった。
「いいか、陽太。お前が『今のままがいい』なんて逃げてる間に、みゆがどれだけモヤモヤしてるか分かってんのか? 守る守るって言ってるけど、一番大事な時に踏み込まないのは、守ってるんじゃなくて放ったらかしてるだけだぞ。お前、いつまでカッコつけてるつもりだよ」
陽太が息を呑むのが分かった。
「あいつはもう、お前の後ろをついて回るだけの子供じゃない。お前がちゃんと向き合わないから、あいつは自分に自信が持てないんだ。……来週の誕生日に、ちゃんと言葉にして伝えてやれ。俺が兄貴として言えるのはここまでだ。あとはお前が男を見せろよ」
俺は陽太の肩をバン!と叩いて、わざと乱暴に突き放した。
「……俺が認めたライバルが、いつまでもヘタレてるの見てるの、こっちが恥ずかしいんだよ」
陽太は目を見開いて固まっていたが、やがてギュッと拳を握りしめた。街灯の光の下で、あいつの顔が赤くなっているのが見える。
「……わかってますよ、そんなこと。俺だって、今のままでいいなんて思ってないです。湊さんに言われなくても……来週、ちゃんと言いますから。見ててくださいよ」
「おう、その意気だ。期待してやるよ」
俺は鼻で笑って、また歩き出した。
やがていつもの交差点。ここで俺たちは別の方向へ帰る。
「じゃあな、陽太。来週まで、せいぜいイメトレでもしとけよ」
「はいっ、湊さんもお疲れ様でした!」
陽太は勢いよく頭を下げると、さっきよりもずっと速い足取りで自分の家の方へ走っていった。俺はその背中を見送って、小さくため息をついた。
(……ったく、人のこと言える立場じゃないんだけどな、俺も)
角を曲がれば、水瀬家の灯りが見えてくる。
あいつが陽太と付き合うことになったら、それはそれで兄貴としては複雑な気持ちだ。でも、あいつが寂しそうな顔をしてるのを見るよりは、陽太の隣で笑ってるのを見る方が、たぶん……いや、絶対いい。
「ただいま」
玄関を開けると、キッチンのほうから姉さんの明るい声と、みゆの笑い声が聞こえてきた。
来週、あいつらの関係がどうなるかなんて、中三の俺には正直想像もつかない。でも、みゆが「13歳」になるその日が、あいつにとって最高の1日になればいい。それだけを願って、俺は自分の部屋へ向かった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
湊視点の物語を作成してみました。
本人がいないところでないとできない会話ってありますよね。
兄が妹に対する応援。当事者でないからこそズバッと言える部分があります。
次は2エピソード同時に公開する予定です。どちらからでも可能なように調整します。




