鏡の中の相談役
水瀬家の食卓は、雨上がりの静けさを吹き飛ばすような温かな熱気に包まれていた。キッチンからは雫お姉ちゃんが腕によりをかけた煮込み料理の、食欲をそそる深い香りが漂っている。
中央には、陽太が「重いっす」と顔を赤くして運んできた買い物袋の中身が、彩り豊かなご馳走へと姿を変えて並んでいた。
「……陽太。お前、さっきから右肩ばっかり回してるな。箸の持ち方も不自然だぞ。飯が食いづらそうだな」
食事が始まって間もなく、湊お兄ちゃんが自分の茶碗を置いて、陽太をじろりと見た。
「え? あ、いや……別に。なんともないっすよ。テニスの後のいつものやつですから」
陽太は動揺を隠すように、好物のポテトサラダを勢いよく口に運んだ。けれど、一緒に練習している兄さんの目は、そんな見え透いた嘘を逃してくれない。
「嘘つけ。さっきから利き腕をずっと気にしているだろ。帰りに姉さんの荷物を持ってくれたことには感謝するが、自分の限界くらい認識しておけ」
湊兄さんの声は、指導者としての厳しさというよりは、「危なっかしい弟分を見ている兄」のような、少し呆れたような響きがあった。
「……姉さん、こいつさっき帰り道でも相当格好つけてたみたいだよ。自分の限界も見えないくらい、余裕がないらしい」
湊兄さんが茶化すように言うと、雫お姉ちゃんは申し訳なさそうに陽太を見た。
「そうなの? 陽太くん、無理させちゃったわね。ごめんなさい。……でも、本当に助かったわ。次は重いときはすぐ教えてね?」
「い、いや! 雫さん、謝らないでください! 俺が、俺がやりたくてやったことですから!」
陽太は椅子を鳴らす勢いで弁解した。雫お姉ちゃんに心配をかけること自体が、彼にとっては最大の失態なんだろう。
そんな陽太を、湊兄さんはまた真剣な、少しだけ「先輩」らしい顔で見つめた。
「陽太。頑張るのはいいけど、お前は今、背が伸びてる時期だろ。無理に負荷をかけすぎると将来響くぞ。……今は無理する必要ねーよ。まずは体のバランスを整えろ。焦らなくても、お前はもっとデカくなるし、もっと強くなれるんだから」
「……はい。……すみません」
陽太は神妙に頷き、視線を落とした。自分の焦りをすべてお節介な兄貴分に見透かされている。そんな湊兄さんへの尊敬と、少しの悔しさが混ざったような顔をしていた。
けれど、次の瞬間。お兄ちゃんはニヤリと、いつもの意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ま、みゆの前でいい格好したいのは分かるけどな。騎士様も体が資本だぞ? あんまり無茶してぶっ倒れられたら、せっかくの食事が台無しだし、何よりみゆが泣くだろ」
「なっ……!? そ、そういうんじゃなくて! 湊さん、雫さんの前で変なこと言わないでくださいよ!」
陽太は顔を真っ赤にして動揺した。その慌てっぷりは、先ほどまでの神妙な空気を一気に吹き飛ばすほどだった。
「あはは! 陽太、本当に顔真っ赤。兄さんの言う通りだよ。あんまり無理して怪我されたら、私も困るもん」
私がわざと追い打ちをかけるように笑うと、陽太は「お前まで言うなよ!」と情けなく叫んだ。
その様子を見て、湊兄さんも「あっはは!」と声を上げて笑い、雫お姉ちゃんもクスクスと笑っている。
夕食が終わり、夜の冷え込みが増した玄関先、湊兄さんが陽太に話があると連れ出していた。
二人が戻ってきた時、陽太はなにか吹っ切れた顔をしていた。
「……じゃあな、みゆ。また明日」
陽太は少し照れくさそうに、けれど私にだけ聞こえるような声で言った。
「うん、また明日。……おやすみ、陽太」
陽太を見送った後の玄関には、雨上がりの冷たい夜気が少しだけ入り込んでいた。けれど、私の胸の奥には、彼が残していった温かな余韻がまだはっきりと居座っている。
「……みゆ?」
階段を上がろうとした私の背中に、雫お姉ちゃんの柔らかな声が届いた。
「今夜は少しゆっくりお話ししましょうか。温かいハーブティーを淹れてあげるわね」
自室に戻り、鏡の前に座って自分の顔を覗き込む。そこには、さっきまでお兄ちゃんに茶化されていた時の赤みがまだ引かない、熱を帯びた瞳をした私がいた。
「……私、あんなに分かりやすい顔してたのかな」
鏡の中の自分に問いかけていると、控えめなノックの音とともに、お姉ちゃんがトレイを持って入ってきた。
「はい、どうぞ。少しリラックスできるブレンドにしたわよ。飲みやすいように少し甘めにしておいたから」
「ありがとう、お姉ちゃん」
お姉ちゃんは私の隣のベッドの縁に腰を下ろし、湯気の立つカップを差し出した。
しばらく沈黙が流れたけれど、それは気まずいものではなかった。お姉ちゃんは私が話し出すのを、急かすことなく穏やかに待ってくれている。
「……ねえ、お姉ちゃん。私、今日、陽太に意地悪しちゃったの」
私はカップから立ち上る湯気を見つめながら、ポツリポツリと話し始めた。
「陽太が、私のことをずっと『ただの幼馴染』としか見てない気がして、なんだか寂しくなっちゃって。だから、ちょっとだけ困らせてやろうと思って、わざと近づいたりして……。陽太の反応を見て、楽しんでたんだ」
夕暮れ時の、あの駆け引き。陽太の狼狽えた顔や、激しい鼓動、そしてその後の真っ直ぐな言葉が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
「でも、意地悪してたはずなのに、私の方が苦しくなっちゃった。陽太が私をちゃんと一人の女の子として意識してるのが分かって……。あんなに格好よく見えるなんて、思わなかった。大きな買い物袋を黙って持ってくれる背中も、お兄ちゃんに注意されて悔しそうにしてる顔も、全部……」
私は膝を抱え、顔を埋めるようにして言葉を絞り出した。
「私、陽太が好き。……今まで兄さんに憧れてたのとは全然違うの。もっと、自分でもどうしていいか分からないくらい、胸が熱くなるの。陽太の隣にいると、自分が自分じゃなくなるみたいで」
お姉ちゃんは黙って私の話を聞いていたけれど、不意に立ち上がり、鏡の前に座る私の背中にそっと手を置いた。鏡越しに、優しい微笑みを浮かべたお姉ちゃんと目が合う。
「素敵ね、みゆ。誰かをそんなに強く想えるって、本当に素晴らしいことよ。自分の気持ちにそんなに真っ直ぐ向き合えるあなたを、私は誇りに思うわ」
お姉ちゃんはそう言って、私の肩を優しく包み込むように撫でてくれた。
「陽太くんは、湊とはまた違う形で、私たちの家族に新しい風を運んできてくれる……そんな気がするわ。あなたのその真っ直ぐな想いが、きっと彼をより強く、頼もしい男にしてくれるはずよ。男の子って、好きな子のために強くなりたいって思う生き物だから」
お姉ちゃんの言葉は、すとんと私の胸に落ちた。
「……もうすぐ誕生日でしょ? その時、陽太くんに自分の本当の気持ち、伝えてみたらどうかしら」
お姉ちゃんの言葉は、すとんと私の胸に落ちた。
「……うん。頑張ってみる。ちゃんと、向き合ってみるね」
私は鏡の中の自分を見つめ直し、1週間後の自分を想像して、もう一度、期待で胸を高鳴らせていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
賑やかな夕食+お悩み相談の回でした。
お姉ちゃんの年齢何歳くらいに見えてますか?
まだ19歳の大学生なんです。
湊とは4~5歳離れているのですが、もっと上に見えてしまいますね。
というよりも中学生の会話じゃない感が出過ぎてます。
しっかりしている子はこんなものなのかな?




