不器用な騎士(ナイト)の背中
ようやく雨が小降りになり、重く垂れ込めていた雲の切れ間から、燃えるようなオレンジ色の夕陽が差し込んできた。
アスファルトから立ち上る雨上がりの独特な匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。世界がしっとりと濡れ、夕陽を反射してキラキラと輝くその光景は、どこか現実離れして見えた。
「……あ、虹だ」
私が守衛室の軒先から指差すと、隣にいた陽太も足を止めて空を仰いだ。
「本当だ。……なんか、久しぶりに見たな」
そう言う陽太の横顔を、私はこっそりと盗み見た。さっきの雨宿りで見せたあの「耳の赤さ」は少し引いていたけれど、彼はどこか落ち着かない様子で、何度もスポーツバッグの紐を握り直しては、意味もなく視線を泳がせている。
いつもなら、今日の練習の反省やプロテニス界のニュースで、帰りの道中も騒がしいはずだった。けれど、今の二人の間には、気まずいわけではないけれど、何か大切な言葉を探しているような、甘く、くすぐったい沈黙が流れている。
「……ねえ、陽太。さっき言ってたこと、忘れないでね」
私が少しだけ茶化すように、覗き込むようにして言うと、陽太は目に見えて狼狽した。
「わ、分かってるって。何回も言うなよ、恥ずかしいだろ」
陽太はわざと大きな歩幅で歩き出し、私との距離を少しだけ広げた。
私はその背中を追いかけながら、ふと胸の奥に小さな悪戯心が芽生えるのを感じた。
「ねえ、陽太。そんなに離れて歩かなくてもいいじゃない」
私は小走りで追いつくと、彼の二の腕に自分の腕をそっと絡ませた。薄い制服の生地越しに、彼の熱い体温が直に伝わってくる。
「っ!? お、おい、みゆ! 何してんだよ!?」
陽太が飛び上がるように驚き、足を止める。
「何よ、さっきの雨宿りの時はもっと近かったじゃない。……それとも、今の私は、あの時みたいに『女の子』には見えない?」
私はあえて彼をじっと上目遣いで見つめ、少しだけ声を低くして囁いた。湿った空気が二人の間を密やかに埋める。陽太の視線が、私の唇や、雨で少し乱れた襟元へと彷徨うのがわかった。
「……お前、……そういうこと、わざと言ってんだろ」
陽太の声が、目に見えて震えている。彼の腕からは、服越しでもわかるほどドクドクと速い鼓動が、私の腕にまで響いてくるかのようだった。
いつもは生意気な幼馴染が、私の些細な仕草ひとつで壊れそうなほど動揺している。その事実が、私をさらに大胆にさせた。
「どうかな。……陽太が、あんまり『幼馴染』としてしか見てくれないから、ちょっと意地悪したくなっただけかも」
私はさらに顔を近づけ、彼の耳元で吐息を漏らすように小さく笑った。陽太の首筋が真っ赤に染まっていくのが、夕陽の光に照らされて鮮明に見える。
陽太は顔を真っ赤にして、茹で上がったタコのように硬直している。
「……っ、お前、……もう勘弁してくれよ。……マジで、心臓止まるかと思ったわ」
彼が絞り出すような声でそう言った瞬間、私は我慢できなくなって「あはは!」と声を上げて腕を解いた。
「冗談だよ、冗談! 陽太の反応があまりに面白くって」
私はわざとらしく手を叩いて笑いながら、先に立ってスキップをするように歩き出した。
「ほら、早く行かないとお夕飯に遅れちゃうよ!」
「……冗談、かよ。マジで質が悪いんだよ、お前……」
後ろで陽太が盛大にため息をつき、毒づく声が聞こえる。
けれど、先に歩く私の顔も、今はおそらく陽太に負けないくらい真っ赤に染まっていた。
(冗談だなんて、真っ赤な嘘だよ……)
心臓が喉元までせり上がってくるような鼓動を、必死に抑えつける。
彼を翻弄しながら、私自身もまた、彼が向けてくる「男の子の視線」に、足が震えるほどの高鳴りを感じていた。
冗談で塗り潰さないと、自分の想いまで溢れ出してしまいそうで。
水たまりを避けながら歩く二人の影が、オレンジ色の地面に長く伸びて、時折、境界線が溶けるように重なり合っていた。
その影の重なりが、まるで私たちの未来を暗示しているようで、私はもう一度、小さく胸を弾ませた。
住宅街に入ると、夕陽の残照を反射する街灯が、あちこちで予熱を帯びたオレンジ色の光を放ち始めた。雨を吸ったアスファルトが重たく光り、二人の足音だけが静かな通りに響く。
冗談で誤魔化したはずの心臓の鼓動は、まだ不規則に胸の奥を叩き続けていた。
「……あ」
家の手前の角を曲がったところで、馴染み深い、しなやかな人影が見えた。
大きな買い物袋を両手に下げ、ゆっくりとした足取りで歩いているのは、雫お姉ちゃんだ。
「お姉ちゃん!」
私が駆け寄ると、お姉ちゃんは少し驚いたように足を止め、それからいつもの優雅で優しい微笑みを湛えた。
「あら、みゆ。陽太くんも一緒だったのね。おかえりなさい」
「あ、こんにちは、雫さん。……うわ、その荷物、すごく重そうですね。買い物帰りですか?」
陽太が慌ててお姉ちゃんの隣に並び、手元の袋を覗き込んだ。袋の中には瓶入りの調味料や重そうな根菜がぎっしりと詰まっていて、お姉ちゃんの白く細い指先が、ビニールの紐に食い込んで赤くなっているのが見て取れた。
「ええ、今日は湊が好きな献立にしようと思って、つい買いすぎてしまったの。大丈夫よ、ゆっくり歩けば家まで届くわ」
お姉ちゃんは穏やかに微笑んだけれど、その華奢な肩がわずかに沈んでいるのを、陽太は見逃さなかった。
「いやいや、ダメですよ。そんな細い腕で持つもんじゃないです。……半分、俺が持ちます」
陽太はそう言うと、お姉ちゃんの返事を待つこともなく、迷いのない動作で重い方の袋をひょいと受け取った。
「まあ。ありがとう、助かるわ」
「へへ、これくらい余裕っすよ。テニスのトレーニングに比べれば、なんてことないですから」
陽太は少し息を弾ませながら、精一杯「男らしさ」を演じるように胸を張った。
けれど、私の隣からはっきり見えた。スポーツバッグの紐に加えて、買い物袋の重みが加わった陽太の肩が、実は少しだけ震えているのを。湊兄さんのような厚い胸板も、まだ頼りがいのある筋肉も備わっていない、中学生男子の細い背中。
それでも彼は、顔を赤くして、必死に「格好いい男の子」であろうと背伸びをしている。
(……陽太、本当に馬鹿なんだから……)
胸の奥が、熱いものでいっぱいになった。
さっきまで私を相手にドギマギしていた不器用な姿。私を女の子として意識し始めた、あの熱い視線。そして今、私の家族の前で無理をしてまで「騎士」になろうとする、その健気な誠実さ。
そのどれもが、今まで知っていた「幼馴染」という枠を飛び越えて、私の心の真ん中に深く、鋭く突き刺さる。
「陽太くん、もしよかったら、このまま夕食も食べていかない? 湊も、陽太くんが来てくれたらきっと喜ぶわ」
お姉ちゃんの優しい誘いに、陽太は「えっ、いいんすか!?」と、疲れも忘れてパッと目を輝かせた。
「嬉しい……。陽太も一緒なら、今日のご飯もっと美味しくなるね」
私が思わず本音を混ぜてそう言うと、陽太は「……っ、お、おう。そうだな」と、耳まで真っ赤にして視線を泳がせた。そんな彼の反応一つひとつが、愛おしくて堪らない。
お姉ちゃんの横で、陽太の歩幅に合わせてゆっくりと歩く帰り道。
私は、重そうに袋を提げる彼の横顔を、盗み見るのをやめられなかった。
無理をして張っている胸板も、少し赤くなった首筋も、私を気遣ってくれるその不器用な優しさも。
今まで見てきたどんな景色よりも、今の陽太が一番格好よくて、眩しい。
一歩踏み出すたびに、私の世界は陽太という存在で塗り替えられていく。
この胸の高鳴りが、単なる憧れや幼馴染としての情愛ではないことを、私はもう認めざるを得なかった。
雨上がりの夕暮れ、冷たい空気の中で、私の心だけが陽太の熱を求めて、強く、深く、惹きつけられていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
今回は陽太くんの背伸びした行動です。
無理して頑張る子はやっぱり応援したくなりますね。
もう少しギャグ要素も入れていきたいと思っているのですが、
なかなか思いつかないです。




