雨に解ける防壁
中学校生活にも慣れ始めた頃、放課後のテニスコート周辺には、部員以外にも多くの視線が集まるようになっていた。その中心にいるのは、言うまでもなく三年生のエース、湊兄さんだ。
「……ねえ、あの噂、本当かな」
部室の裏側で、上級生たちが声を潜めて話しているのが聞こえてきた。
「去年、湊くんに熱心にアタックしてた先輩、急に部活に来なくなったでしょう? 原因不明っていうのが一番不気味よね。湊くんに近づこうとすると、なんだか『良からぬこと』が起きるっていう不運のジンクス、あながち嘘じゃないのかも」
私はその会話を背中で受け止めながら、表情一つ変えずにラケットのガットを整えていた。お姉ちゃんから聞かされた「排除」の真実。それを知らない彼女たちにとって、それは正体不明の呪いのように語られている。
私の中に築かれた防壁は、そんな外野の声を冷ややかに遮断していた。
部室に入ると、一年生の 松本美咲と田中奈緒が、そわそわした様子で私を待っていた。
「あ、みゆ。ちょっと相談なんだけど……」
美咲が申し訳なさそうに、けれど期待に満ちた目で、一通の可愛らしい封筒を取り出した。
「これ、湊先輩に渡してくれないかな? ……連絡先だけでも、どうしても伝えたくて」
差し出された封筒。私はそれを突き放すのではなく、困ったように眉を下げ、慈しむような微笑みを浮かべて見つめた。
「美咲、気持ちはすごく嬉しいし、兄さんもきっと喜ぶと思う。……でもね、私、大好きな美咲には傷ついてほしくないの」
「え……傷つく?」
拍子抜けしたような奈緒の問いに、私はさらに声を柔らかくして続けた。
「うん。……兄さんって、本当にテニスに真剣でしょう? だからかな、兄さんの邪魔になるようなことがあると、なぜかその人の周りで『原因不明の不運』が起きちゃうことがあるみたいなの。……だからね、もし本当に兄さんに振り向いてほしいなら、こうして手紙を渡すよりも、自分が一生懸命努力している姿を見せるのが、一番の近道だと思うよ」
私はそこで一度言葉を切り、フェンスの向こうで泥だらけになってボールを追う陽太を指差した。
「ほら、陽太を見て。あんなに不格好でも、必死に食らいついているからこそ、兄さんも彼を認めて、直接指導しているでしょう? 兄さんが求めているのは、甘い言葉じゃなくて、一緒に高みを目指せる強い心なんだと思う。……美咲も奈緒も、自分の力で兄さんに認められるようになった方が、きっと素敵だよ。私は、頑張る二人のことを応援したいな」
「……そっか。河村くんみたいに、実力で認められないとダメなんだね」
美咲は、私の「親身なアドバイス」に感銘を受けたように、けれどその奥にある「容易には超えられない壁」に気圧されたように、封筒をそっと鞄の奥へと隠した。
敵対心など微塵も見せず、むしろ友人の成長を願う「良き理解者」の振る舞い。けれど、その実は、陽太という極めて高いハードルを提示することで、彼女たちの恋心を「テニスという名の苦行」へとすり替え、湊兄さんから遠ざける完璧な防壁。
それは、お姉ちゃんから学んだ、水瀬家の人間としての「処世術」だった。
ふと見ると、練習を終えた陽太がフェンスの隙間からこちらをじっと見ていた。
「みゆ……。今、何を話してたんだ? なんか、松本たちがやる気に満ち溢れたような、絶望したような顔してたぞ」
近づいてきた陽太に、私はいつもの明るい幼馴染の顔を向けた。
「なんでもないわよ。陽太の努力がみんなの刺激になってるんだな、って思って。……あんなに泥だらけになって兄さんに食らいついてる陽太を見てたら、私も頑張らなきゃなー、って思っちゃった」
「あ? ……まあ、みゆは筋がいいって湊さんも言ってたけどさ。あんまり根詰めすぎるなよ?」
陽太は「松本と田中が? まあ、俺は自分のことで精一杯だけどさ」と首を傾げながらも、私の言葉に少しだけ照れくさそうに笑った。
「ううん、頑張るわよ。陽太だけ兄さんに認められるなんて、妹として悔しいもん。……陽太、もっと兄さんにしがみついていかなきゃダメだよ? 私も負けないくらい、練習するんだから」
「……へっ、言ってろ。俺はもう、次のステップに進んでんだよ」
陽太は生意気そうに鼻を鳴らすが、その瞳には私と同じ「情熱」が宿っている。
陽太を励ましながら、自分も同じ土俵で高みを目指す姿勢を見せる。
それは友人たちへの牽制であると同時に、陽太と同じ景色を見続けたいという私の切実な願いでもあった。
部活動が終わり、校門へ向かう道すがら、重く垂れ込めていた雲がついに堪えきれなくなったように雨を降らせ始めた。
「わっ、マジかよ! 予報じゃ降らないって言ってたのに!」
「きゃっ……!」
隣を歩いていた陽太が叫ぶと同時に、私の手首を掴んで走り出した。突然の熱い感触に驚きながらも、私は必死に彼の背中を追う。私たちは滑り込むように、校門近くにある古い守衛室の軒下へと飛び込んだ。
一歩遅れて、アスファルトを激しく叩く雨音が壁のように周囲を遮断していく。
「あーあ、最悪。これ、母さんに洗濯物取り込んどけって言われてたのに、完全にアウトだわ……」
陽太は濡れた前髪を無造作にかき上げ、いつもの調子で愚痴をこぼした。制服の肩のあたりが雨で濃い色に変わっている。
「……なぁ、みゆ。さっき部室で言ってたこと、本気か?」
陽太が、少しだけ真面目な顔をして私を覗き込んだ。
「え? ……頑張るって言ったこと?」
「そう。お前、運動神経はいいけど、意外と飽きっぽいだろ。湊さんにしごかれるのはマジできついぞ。俺だって毎日、心臓が口から出そうなんだから」
ニシシ、と茶化すように笑う陽太。その遠慮のない物言いは、いつも通りの「腐れ縁の幼馴染」そのものだった。
けれど、狭い軒下で雨を避けるためにさらに一歩身を寄せたとき、空気がふっと変わった。
避難した場所が思いのほか狭く、陽太の肩と私の肩が、薄い制服の生地越しにぴったりと触れ合ったのだ。陽太の体温が伝わってくる。
「……本気だよ。陽太が泥だらけになって兄さんに食らいついてるのを見てたら、私だけ置いていかれるのが、なんだか急に怖くなっちゃって」
私は膝を抱えるようにして、雨に濡れて黒く光るアスファルトを見つめた。
「……ずっと、陽太の隣にいたいから。だから私も、もっと強くなりたいの」
本音を口にすると、急に雨音が大きくなったような気がして、私は少しだけ陽太の顔を盗み見た。
すると、さっきまで軽口を叩いていた陽太が、まるで金縛りにあったように言葉を失い、私をじっと見つめていた。
「……陽太?」
声をかけると、陽太はハッとしたように視線を泳がせた。
彼の視線は、雨の湿気で少しカールして頬に張り付いた私の髪や、寒さで少し赤くなった耳たぶ、そして、真っ直ぐに彼を見上げる私の瞳へと彷徨う。
陽太の瞳の中に、今まで見たことがないような揺らぎが生まれた。
「……お前、そういうこと、さらっと言うなよ」
陽太の声が、先ほどより少しだけ低く、掠れていた。彼は照れ隠しのように乱暴に顔を背けると、自分のジャージの片袖を大きく広げて、私の頭の上に屋根を作るように掲げた。
「……なんだよ、その顔。俺がどこまで行ったって、戻ってくる場所はお前の隣に決まってんだろ。……だから、そんな不安そうな顔すんな」
陽太はそう言って私の頭をぽんと叩いた。その大きな手のひらは、雨の冷たさとは対照的に驚くほど熱く、ほんの少しだけ震えているようにも感じられた。
「……陽太、耳、赤いよ?」
「うるせー、雨が冷てぇからだよ!」
ぶっきらぼうに言い返す陽太。けれど、広げられたジャージの袖からは、彼のドクドクと速い鼓動が、静かな雨音を突き抜けて伝わってくるかのようだった。
いつもなら「何よそれ」と笑い飛ばせたはずなのに、今は私も言葉が見つからない。
陽太の視線が、時折こっそりと私に向けられては、目が合いそうになると慌てて雨空に逃げていく。そのぎこちない仕草の一つひとつが、私の胸をくすぐったいような、締め付けられるような不思議な感覚で満たしていく。
雨音に包まれた、一辺一メートルほどの小さな世界。
湊兄さんへの憧れや、水瀬家という防壁の向こう側にある複雑な感情も、この瞬間だけは遠い国の出来事のように思えた。
「……早く、止まないかな」
「……そうだな」
陽太が短く応える。けれど、その声には「もう少しこのままでもいい」という、淡い期待が混じっているような気がして、私たちはどちらからともなく黙り込み、重なる肩の温かさを確かめ合いながら、夕闇に溶けていく雨を眺め続けていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
中学1年生の1学期は勉強がまだ簡単な時期なので、特に描いていないです。
2学期になると急に平均点落ちますよね?
そして油断していると一気に補習組に…
部活に熱中している子ほど成績が良かったのは何故なのか疑問に思ったことありませんか?
適度な運動としっかりとした睡眠に食事。
脳が活性化して記憶力が上がるんです。
これって化学的に証明されているみたいです。
ほんと人の体って不思議ですね。
さてさて、今回は突然の雨で雨宿りです。
いつもは無自覚に陽太からの発言が多いですが、今回に限り逆になっています。




