フェンス越しの熱線
中学校生活が始まって一週間。新しい制服も少しずつ体に馴染み始めた頃、1年B組の教室では、放課後のチャイムと同時に独特の熱気が渦巻き始めていた。
「ねえ、水瀬さん。この後、もし時間あったら……」
斜め前の席の男子が、顔を真っ赤にしながら私の机に歩み寄ってきた。その後ろでは、数人の男子が固唾を呑んでこちらを伺っている。 入学以来、私は自覚のないままクラスの注目の的になっていた。雫お姉ちゃんに「可憐に育ったわね」と笑われる今の私は、男子たちにとって、どうにかして接点を持ちたい「憧れの存在」だったらしい。
「あ、ごめんなさい。今日はこの後、部活の……」
私が断りの言葉を口にしようとした、その瞬間だった。 教室の空気を切り裂くような音が響いた。
ガララッ!!
廊下側の窓が、外側から乱暴に、しかし迷いなく開け放たれる。 「みゆ! 行くぞ! 準備遅いと大野部長に絞められるぞ!」
窓から身を乗り出し、土足に近い勢いで声をかけてきたのは、隣のA組の河村陽太だった。 陽太の登場に、私に声をかけようとしていた男子がビクッと肩を震わせる。教室中の男子たちの視線が、一斉に陽太へと向けられた。それは、明らかに「またあいつか」という拒絶と、敵意に近い嫉妬が混ざり合ったものだった。
「……あ、河村くん。また来たの?」
私の隣で帰り支度をしていた美咲が、呆れたように声を上げる。
「おう、松本。お前もみゆを独占してないで、早く行くぞ。今日は坂上先生も来るって噂だ」
「ちょっと、さっきの授業中も廊下で叫んでたでしょ! 本当に河村くんは、みゆと同じクラスになれなかったのがそんなに寂しいわけ?」
美咲の意地悪な問いかけに、陽太は少しも怯むことなく、むしろ当然といった顔で胸を張った。
「当たり前だろ! みゆが可愛いからって、変な虫がつかないように俺がしっかり見てなきゃいけないんだよ」
そのあまりにもストレートな、それでいて「幼馴染」という特権を振りかざした発言に、教室の温度が数度下がった気がした。私の前の男子は、握りしめた拳を震わせながら、逃げるように自分の席へ戻っていった。
「も、もう……陽太、バカなこと言わないで」
私は顔が火照るのを感じながら、急いでバッグに教科書を詰め込んだ。 陽太のこういう「無自覚な独占欲」は、昔から変わらない。けれど、中学生になって、彼の肩幅が広くなり、声が少し低くなった今、その言葉は以前よりもずっと重く、熱を持って私の心に響いてしまう。
「あーあ、可哀想に。クラスの男子全員を敵に回しちゃったね、河村くんは」
美咲がくすくすと笑いながら立ち上がる。
「敵? 何のことだよ。それより早く行こうぜ、湊さんに『一年生が遅い』なんて思われたくないだろ」
陽太は私の手を引くような勢いで、窓から廊下へと促した。 私は一度だけ教室を振り返った。そこには、私たち二人の親密な空気に入る隙を見つけられず、唇を噛み締めるクラスメイトたちの姿があった。
中学校の放課後、テニスコートを包み込むのは、焼けたゴムの匂いと、絶え間なく響く乾いた打球音だ。 コート脇のベンチには、今年から男女両テニス部の顧問を受け持つ坂上先生が腰を下ろし、鋭い眼差しで部員たちの動きを追っている。坂上先生は元国体選手という経歴を持つ厳格な指導者だが、生徒の主体性を重んじ、普段のメニューは部長たちに一任していた。
男子テニス部の部長・大野健斗先輩が「整列!」と声をかけると、コートの空気は一瞬で張り詰める。 部員たちの視線が集中するその先に立っているのは、三年生のエース、湊兄さんだった。最高学年になり、一年前よりも背が伸びた兄さんの纏うオーラは、以前にも増して頼もしく研ぎ澄まされている。
「今日から一年生振り回しを始める。基本、俺の球についてこられるところまででいい。脱落しても落ち込むな、まずは体力作りからだ。残りは大野部長のコートで基本練習に戻れ」
湊兄さんの声は、厳しさの中にも部員を気遣う余裕があった。新入生たちは期待と緊張を胸に次々とコートへ入る。けれど、湊兄さんが「いくぞ!」と放った球は、一年生たちの想像を遥かに超える「本物」だった。
湊兄さんの打球は正確で、なにより重い。最初は数人いた一年生も、左右に激しく振られる球に足がもつれ、ラケットに当てることすらできずに次々と脱落していく。
そんな中、最後までコートに残ったのは、陽太と、経験者の佐藤健二くん、俊足の田中瑛太くんの三人だった。
「はぁ、はぁ……っ!」
湊兄さんのラケットから放たれる球が、コートの左右へと散らされる。
「ほら、足が止まってるぞ! 田中、もっと踏み込め!」
湊兄さんの檄が飛ぶ。けれど、俊足が自慢だった田中くんが最初に限界を迎えた。「……すみません、もう、足が……」と肩で息をしながら、彼は力尽きたようにコートを外れた。
残ったのは陽太と佐藤くんだ。佐藤くんは経験者らしい無駄のない動きで粘っていたけれど、最後は湊兄さんが放った鋭いドロップショットに一歩も動けず、悔しそうにラケットを地面に置いた。
「……河村。お前はどうする。さすがに、もう限界だろ」
湊兄さんが少しだけ口元を緩め、ただ一人残った陽太に問いかけた。
陽太の白いユニフォームは、すでに膝も肘も土埃で茶色く汚れ、額からは絶え間なく汗が滴り落ちていた。他の二人のようにスマートな動きじゃない。転び、泥にまみれ、なりふり構わずボールを追いかける泥臭い姿。
「……終わって、ねえ。まだ、動けます……!」
陽太の声は掠れていたけれど、その瞳だけは異様なほど燃えていた。
湊兄さんは「へぇ、言うようになったな」と一瞬だけ笑うと、さらに厳しいコースへ球を打ち込んだ。陽太は肺が焼けるような呼吸を繰り返しながらも、泥だらけの靴で地面を蹴り、ボールの落下地点へと飛び込んでいく。
「……っし!」
陽太が湊兄さんの鋭いショットを、ようやく一本、ラケットの芯で捉えた。鈍い音を立てて返ったボールが、ネットを越えて湊兄さんの足元へ落ちる。
「……一本。取ったぞ……!」
陽太はラケットを杖代わりにして、膝をついたまま湊兄さんを見上げた。
湊兄さんはその球を拾い上げると、豪快に笑って陽太の元へ歩み寄った。
「合格だ、河村。今日の練習メニューを最後まで完遂したのは、お前だけだ。明日からも俺が直々についてやるから、覚悟しとけよ」
湊兄さんが泥だらけの陽太の手をガシッと掴んで引き立たせる。その姿は、厳しい先輩というより、頑張った弟を褒める兄貴そのものだった。その瞬間、陽太の顔に浮かんだ、誇らしげで少年のような純粋な笑顔。
フェンス越しにタオルを握りしめて見守っていた私は、自分の心臓が大きく高鳴るのを感じていた。
エースとして君臨する湊兄さんと、その背中を泥まみれで追いかける陽太。二人の間に流れる、言葉を超えた熱い絆。私はその光景を、眩しくて、そして少しだけ胸が苦しくなるような想いで見つめ続けていた。
男子コートの張り詰めた空気とは対照的に、女子テニス部は賑やかな活気に満ちていた。
「さあ、一年生! ボール拾いの合間に素振り100回! 湊くんに負けないくらい、私たちも気合入れていくわよ!」 部長の高城紗良先輩の声が響く。彼女は湊兄さんと同じ三年生で、女子部を地区大会へと導く実力派だ。
私の周りには、同じ一年生の部員が五人。
「やっぱり、みゆのフォームって綺麗だよね。湊先輩が教えてるの?」
そう言って笑いかけてくるのは、お喋り好きな松本美咲。
「でもさ、隣の男子コート凄くない? あの河村くん、湊先輩の『三年のノック』に最後まで残ったんだよ。一年生であのメニューについていけるなんて、信じられない……」
真面目な田中奈緒が、驚きを隠せない様子でフェンス越しを指差した。
「……うん。陽太、昔から負けず嫌いだから」
私はラケットを握り直しながら、短く答える。 三年生の湊兄さんは、部員全員にとって手の届かない存在だ。そんな兄に、幼馴染である陽太が食らいついている。その事実に、私は誇らしさを感じると同時に、二人の世界に置いていかれるような、小さな焦燥感を覚えていた。
女子部の練習は、高城先輩による基礎の球出しが続いた。
「水瀬さん、今のショット、腰の回転が凄くいいわ! さすが湊くんの妹ね」
高城先輩に褒められるたび、私は「湊の妹」として期待に応えられた安堵感に包まれる。けれど、その直後にチラリと男子コートへ目を向けると、そこには三年生としての威厳を纏い、冷徹に部を統率する兄と、その足元で泥にまみれ、なりふり構わずもがく陽太の姿があった。
完璧な兄の姿に憧れる心と、不格好でも懸命な陽太から目が離せない心。 二つの感情が、私の胸の中で複雑に混ざり合っていた。
休憩時間になり、私たちはベンチで水筒の水を飲んだ。
ふと見ると、男子コートでも練習が一段落したようで、陽太が地面に大の字になって寝転んでいた。湊兄さんがその横に立ち、笑いながら陽太にスポーツ飲料を手渡している。
その時だった。
大の字になっていた陽太が、ふいと顔をこちらに向けた。
何重ものフェンスと、立ち働く部員たちの隙間を縫って、陽太の視線が真っ直ぐに私を射抜いた。
陽太は顔の汚れをユニフォームの袖で乱暴に拭うと、私に向かって小さく、けれど力強くガッツポーズを作ってみせた。
『見てたか?』
声には出さないけれど、彼の唇がそう動いたのがはっきりと見えた。
「……バカ陽太。見すぎだってば」
私は小さく呟いて、顔が熱くなるのを隠すように慌ててタオルで顔を覆った。
「あー! みゆってば、今河村くんと合図したでしょ! 幼馴染特権、ずるいー!」
「違うってば、もう、美咲!」
友達の冷やかしに抗議しながらも、私の心は春の空のように高く舞い上がっていた。
湊兄さんという存在を誇りに思いながらも、泥だらけの合図を送り合える陽太との時間が、私にとって何よりも特別なものになりつつあった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
本格的な部活練習開始の様子を描いてます。
男子テニス部は1年生8名、2年生7名、3年生6名の21名
女子テニス部は1年生5名、2年生4名、3年生5名の14名
になっています。結構な部員数ですね。
まだ名前の決まっていないメンバーに出番があるかは未定です。
正直使い分けできる自信がありません。。。




