騒がしい教室の視線
校門の入り口で湊兄さんの背中を見送ると、私の世界からはふっと色彩が抜けたような、寂しい感覚が残る。中学二年生の湊兄さんが向かう校舎は、小学生の私たちが通う校舎とは少しだけ離れている。そのわずかな距離が、今の私にはとても遠いものに感じられた。
「……はぁ」
「おいみゆ、いつまでボーッとしてんだよ。鼻の下伸びてるぞ」
余韻に浸る間もなく、真横から無遠慮な声が降ってきた。陽太だ。彼はラケットバッグの紐を指一本で引っ掛けながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「伸びてないわよ! 湊兄さんがカッコよすぎるのが悪いの」
「はいはい、ブラコン乙。……さっさと教室行くぞ。予鈴鳴っても置いていくからな」
陽太は呆れたように肩をすくめて先に歩き出す。六年生の教室に入ると、そこには既に騒がしい朝の風景が広がっていた。私と陽太が並んで教室に入った瞬間、教壇の近くにいたクラスメイトの男子たちが、冷やかすような口笛を吹いた。
「お、また朝から夫婦漫才か? 陽太とみゆ、ほんと仲良いよな」
「バッ……! 誰がこんなガサツなのと!」
「そうだぞ、俺に失礼だろ。みゆみたいな『お兄ちゃん命』な奴、俺のほうが願い下げだっつーの」
陽太が鼻で笑いながら自分の席に座ると、すぐに数人の女子が彼を囲んだ。
以前までは泥だらけで走り回るだけの「ただの男子」だった陽太だけど、六年生になってから、少しずつ様子が変わってきた気がする。
背も伸びてきたし、日焼けした横顔が以前より精悍に見える。何より、スポーツ万能で誰にでも裏表なく接する彼は、いつの間にかクラスの女子から「カッコいい男子」として意識される存在になっていた。
「ねえ陽太、次の休み時間パス回ししようよ。陽太がいると勝てるからさ」
「陽太、昨日言ってたテニスの動画、URL送ってよ。弟が見たいんだって」
陽太は「おう、いいぜ」と無造作に応えながら、楽しそうに笑っている。女子たちと盛り上がっている彼の姿を見つめていると、私の胸の奥に、得体の知れないモヤモヤとした何かが広がった。
湊兄さんが女子に囲まれている時は、ただ「自慢のお兄ちゃんだから当然」という誇らしさと、強烈な独占欲を感じる。けれど、陽太が他の女子と楽しそうにしているのを見るのは、それとは違う、胸がザラつくような、落ち着かない気分になるのだ。
「……なによ。朝からデレデレしちゃって」
私は自分の席に座り、わざと大きな音を立てて教科書を取り出した。
すると、女子との会話を切り上げた陽太が、ひょいと私の席を覗き込んできた。
「みゆ、何突っ立ってんだよ。早く準備しろよ、そこのネボスケ」
「……うるさい。ネボスケって言うな!」
陽太が振り向きざまにニッと笑って私をからかう。その無邪気な笑顔が、私の抗議を一瞬でかき消してしまう。
クラスメイトの冷やかし、陽太の少しだけ大人びた横顔、そして彼を囲む女子たちの視線。
湊兄さんを想う時の、息が止まるような陶酔とは違う。
キリキリとした焦燥感と、小さな独占欲。
一二歳の少女の心の中で、二つの「特別な感情」が静かに、けれど確実に騒ぎ始めていた。




