並んだ視線、桜の門出
小学校の卒業式から、中学校の入学式までの二週間。それは私の人生の中で、もっとも「家族」が眩しく、温かく感じられた黄金色の時間だった。
朝、キッチンから聞こえてくるトントントンという軽快なまな板の音で目が覚める。
一階へ降りると、そこには夢にまで見た光景があった。仕事のスーツを脱ぎ、ラフなカーディガンを羽織ったお父さんが新聞を広げ、エプロン姿のお母さんが楽しげにオムレツを焼いている。
「あ、みゆ。おはよう。よく眠れた?」
お母さんの柔らかな声。いつもは仕事先に届く手紙や、家の固定電話越しにしか聞けないその声が、今はすぐ隣にある。私は吸い込まれるようにダイニングテーブルの椅子に座った。
「おはよう、お父さん。……お母さんのオムレツ、いい匂い」
「ははは、母さんの料理は世界一だからな。これでお父さんも、また次の出張まで頑張れるよ」
お父さんが優しく私の頭を撫でる。その大きな手のひらの温かさに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
そこへ、朝のランニングから戻った湊兄さんが入ってくる。
「父さん、母さん、おはよう。……みゆ、まだ寝ぼけてるのか? 鼻の下にちょっと、パジャマの繊維がついてるぞ」
「あ、もう! 兄さん!」
笑い声がリビングに満ちる。湊兄さんは私の向かいに座り、お母さんが淹れたコーヒーを美味しそうに啜った。湊兄さんと雫お姉ちゃんが時折スマートフォンの画面をチェックして、部活や大学の連絡を確認している姿は、少しだけ大人びて見えて羨ましい。
「みゆ、そんなにジッと見なくても、中学に入って最初の誕生日には、お父さんたちがちゃんとスマートフォンを買ってあげるからね」
「本当!? 約束だよ、お父さん」
「ああ、約束だ。みゆももう中学生なんだからな」
お父さんの快諾に、私は思わず椅子から立ち上がりそうになるほど喜んだ。
少し遅れて、お姉ちゃんも階段を下りてくる。
「おはよう、お父さん、お母さん。……ふふ、朝から本当に賑やかね。こうして家族五人で揃うと、やっぱり一番落ち着くわ」
お姉ちゃんはそう言って、私の隣に座って優しく微笑んだ。お姉ちゃんも、湊兄さんも、そして両親も。みんながこの時間を慈しみ、楽しんでいる。
五人で囲む朝食。
お父さんが湊兄さんにテニスの調子を尋ね、お母さんが私の新しい制服のサイズを心配し、お姉ちゃんが時折、大学の講義の話を付け加える。
「みゆ。中学校に入っても、困ったことがあればいつでも湊を頼るんだぞ。……あ、陽太くんもいるし、寂しくはないか」
お父さんの言葉に、湊兄さんも「ああ、陽太なら僕がしっかり鍛えてるから、みゆのことも守ってくれるさ」と茶目っ気たっぷりに笑う。
「もう、二人とも陽太に期待しすぎだよ!」
顔を赤らめる私を見て、家族全員が笑う。
これだ。これが私の欲しかった「普通」の、けれど「完璧」な家族なんだ。
私は、自分が世界で一番幸せな女の子だと確信していた。
お父さんとお母さんがいて、憧れのお兄ちゃんがいて、優しいお姉ちゃんがいる。
水瀬家という名の温かな光に守られたこの箱庭で、私は一生、この愛に包まれて生きていくのだと信じて疑わなかった。
「みゆ、制服姿、見せてくれる?」
お母さんに促され、私は入学式のために新調されたセーラー服に着替えた。
鏡の中に映る自分は、少しだけ背が伸び、少女から大人へと一歩踏み出したように見えた。
「素敵よ、みゆ。こんなに可愛いとクラスの人気者間違いなしね」
「そんなことないってばー」
お母さんの言葉に、私は否定しつつも心は弾んでいた。
窓の外には、満開の桜が風に揺れている。
私の未来は、この春の光と同じように、どこまでも明るく、澄み渡っているように思えた。
桜並木の坂道を、家族五人で歩く。
父と母が前を歩き、その後ろを大学生の雫お姉ちゃんと、テニス部のユニフォームをバッグに忍ばせた湊兄さん。そして、新しいセーラー服の裾を揺らしながら私が歩く。時折、近所の人たちに「まあ、水瀬さんのところは美男美女揃いね」と声をかけられるたび、私は誇らしさで胸がいっぱいになった。
「あ、いたいた! みゆー!」
校門の少し手前、大きな桜の木の下で、誰よりも早く私を見つけたのは陽太だった。
「あ……」
彼を一目見て、私は思わず足を止めた。
春休み中、湊兄さんのもとで特訓に明け暮れていたという陽太。新品のパリッとした詰襟に身を包んだその姿は、たった二週間前、ランドセルを背負って笑っていた彼とは、まるで別人のような「男子」の気配を纏っていた。
「よお、みゆ。……うわ、今日も水瀬フルメンバーかよ。毎回圧倒さられるぜ」
陽太は照れくさそうに頭を掻きながら、私の隣に自然に並んだ。
その瞬間、私は息が止まりそうになった。
「陽太……背、伸びた?」
「まあな。春休み中、毎日湊さんのメニューで走り込んで、牛乳も一升瓶で飲んでたからな。ほら、もう並んだだろ?」
陽太が茶目っ気たっぷりに顔を近づけてくる。
卒業式の時は、まだ私の方がわずかに高かった。けれど今は、真っ直ぐ隣を見ると陽太の瞳がある。近すぎて、彼の制服から香る新しい布地の匂いや、運動の後に残る清々しい熱まで伝わってくるようだった。
「みゆ、顔赤いぞ? もしかして、もう中学生の勉強にビビってんのか?」
「……違うわよ、バカ陽太!」
私は慌てて視線を逸らした。けれど、水平になった視線の先で彼と目が合うたび、心臓が不規則なリズムを刻む。湊兄さんを仰ぎ見る時の「憧れ」とは違う、もっと近くて、熱を帯びた、言葉にならない感情。
体育館で行われた入学式。
壇上に立つのは、生徒会長の佐々木梓さんだ。凛とした声で「文武両道の伝統」を語る彼女の姿は、この学校の秩序そのものに見えた。
その後に行われた部活動紹介では、湊兄さんがステージに立った。
ラケット一本で会場の空気を支配する兄の姿に、新入生からは地鳴りのような歓声が上がる。隣に座る陽太が、膝の上で拳を強く握りしめ、食い入るように湊兄さんを見つめていた。
式の後、校門の桜の下で、両親が「最後の家族写真」を撮ってくれた。
「はい、チーズ!」
お父さんの声に合わせ、私たちは肩を並べる。
お父さんとお母さんに挟まれて笑う私。その少し後ろで、優しく見守る雫お姉ちゃん。そして、私のすぐ右側には、家族のような顔をして当たり前に立っている陽太。
「じゃあな、みゆ。放課後、テニスコートで待ってるからな!」
陽太が大きく手を振って、男子の集団の中へと駆けていく。
明日には、お父さんとお母さんはまた遠い場所へ行ってしまう。湊兄さんとお姉ちゃん、そして私の三人だけの生活に戻る。
けれど、私の胸には、これまでにない確かな高揚感があった。
家族という「聖域」を守りながら、この同じ目線で笑ってくれる陽太と一緒に、新しい季節を走り抜けるんだ。
満開の桜が、私たちの門出を祝うように風に舞っていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
中学生編開始です。
エピソード数も17まで増えました。
ここから徐々に1章あたりのエピソード数も増えていきます。
5章は中学1年の1学期の時期になる見込みです。
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