冬の旋風
「みゆ、ぼーっとしてる暇ないって! 湊さんの試合、もう始まっちゃうよ!」
陽太に手首を強く引かれ、私は弾かれたように走り出した。二月の突き刺すような北風が、校庭の凍土が削れた砂埃を白く巻き上げる。私立 星和学院中等部のテニスコートが近づくにつれ、地響きのような地鳴りと、凍った空気を切り裂くような鋭い打球音が、私の鼓膜を激しく叩き始めた。
今日は湊兄さんにとって、冬の都大会進出をかけた重要な選抜試合。小学生の私と陽太にとって、中等部の校舎はどこか大人びた、背伸びをしないと届かない未知の聖域のように思えた。吐き出す息は真っ白で、コートを囲む金網のフェンスは、触れるだけで指先が凍りつきそうなほど冷たい。
「うわ……すごい人……。これ、本当に中学校の試合なの?」
フェンスに張り付いた瞬間、私はその光景に圧倒された。観覧スペースだけではない。コートの外周を三重、四重に埋め尽くしているのは、厚手のコートやマフラーに身を包んだ、驚くほどの数の女子生徒たちだ。彼女たちの視線は、ただ一点――コートの中央で、冬の低い陽光を弾き飛ばしながらラケットを構える湊兄さんに釘付けになっていた。
だが、今日の試合はいつもと様子が違った。
「湊さんが……押されてる……?」
陽太が呻くように呟いた。スコアボードの数字はゲームカウント 3-5。相手は他校の体格の良いシード選手で、湊兄さんは執拗にバックハンド側を狙われ、コートの隅から隅へと走り回されている。 第9ゲーム。カウントは 15-40(フィフティーン・フォーティ)。 相手に「マッチポイント」が握られていた。あと一ポイント失えば、湊兄さんの敗北が決まる絶体絶命の窮地。
極寒の中だというのに、湊兄さんの額には滝のような汗が流れ、その端正な顔は苦痛に歪んでいた。一歩踏み出すたびに砂埃が舞い、いつもなら完璧に整えられている髪が、今はなりふり構わず振り乱されている。
「頑張れ、湊兄さん……っ!」
私の震える声は、周囲の悲鳴に近い声援にかき消された。相手の放った鋭いスマッシュが、無慈悲にコートの角を突く。――その刹那だった。
湊兄さんの動きが、不自然なほどに止まった。うなだれているのかと思ったその時、彼はゆっくりと顔を上げた。
(……あ)
フェンス越しに、湊兄さんの瞳がこちらを向いたような気がした。いや、正確には私たちの向こう側にある「何か」を見つめたような、不気味に燃え上がるような視線。
そこからの湊兄さんは、まるで別人のようだった。
「……30-40(サーティ・フォーティ)!」
湊兄さんは人間業とは思えない角度でストロークを返し、一本目のマッチポイントを凌ぐ。続くポイントでも、相手の渾身の力で放ったショットを、さらに鋭い速度で打ち返した。
「……40-40(フォーティ・フォーティ)、デュース!」
一球ごとに、彼の身体から「熱」が発散され、凍てつく周囲の空気を歪めていくようだった。極限まで追い詰められているはずなのに、足運びから一切の迷いが消えている。
「……湊さんの目、見たかよ。今、笑わなかったか?」
陽太が震える声で私の腕を掴んだ。
確かにそうだった。湊兄さんは、この絶望的な逆境を心底楽しんでいるかのように、あるいは何か「目に見えない力」に操られているかのように、神がかり的なプレーを連発し始めたのだ。 デュースを制してゲームカウント 4-5。さらに第10ゲーム、第11ゲームと、一ポイントも与えない「ラブゲーム」を連発して一気に逆転。 そして最終第12ゲーム、40-0(フォーティ・ラブ)。
最後は、相手が反応すらできないほどの強烈なサービスエースで試合を締めくくった。
「ゲームセット! ゲームカウント 7-5、水瀬湊!」
審判の声が響いた瞬間、コート周辺は爆発的な、耳を聾するほどの歓声に包まれた。試合終了を告げる合図とともに、コートを囲んでいた静寂は、一気に熱を帯びた喧騒へと変わった。
「水瀬先輩! お疲れ様です!」
「これ、差し入れです! 飲んでください!」
コートのゲートが開いた瞬間、まるで堤防が決壊したかのように女子生徒たちが押し寄せた。さっきまで戦鬼のような形相でボールを追っていた湊兄さんは、ラケットをバッグにしまうと、すぐにいつもの穏やかな、非の打ち所がない笑顔を取り戻していた。
「ありがとう。でも、こんなに寒い中、待たせてしまってごめん。みんなも風邪を引かないように、早く温まって」
兄の爽やかな声が響くたびに、周囲からはため息混じりの歓声が上がる。湊兄さんは一人ひとりと丁寧に目を合わせ、謙虚に、けれど確実に相手を虜にする言葉を返していく。
(……すごいな、本当にお兄ちゃんじゃないみたい)
私はフェンスの陰から、その光景をどこか遠い世界のことのように眺めていた。家では私に「みゆ、アイス食べる?」なんて聞いてくる普通のお兄ちゃんなのに、星和学院では何百人という視線を独占する「王子様」だ。
「なあ、みゆ。これ、毎日なんだろうな」
隣に立っていた陽太が、少し複雑そうな顔で呟いた。
「湊さんってさ、あんなにモテるのに、なんで彼女とかいないんだろうな?」
陽太の言葉は、私の胸の奥に冷たい小さな石を落とした。
「……水瀬先輩に、彼女?」
近くにいた中等部の女子生徒に尋ねると、彼女の顔から一瞬にして表情が消えた。 「……水瀬先輩にはね、触れちゃいけないの。それがこの学校の暗黙のルールなんだから」
「あの人に告白したり、無理に距離を詰めようとした子は、みんな『いなくなる』のよ。あなたも気をつけたほうがいいわよ」
「いなくなる」って、どういうこと? 彼女たちの言葉は、凍てつく二月の風の中でも、さらに芯まで冷え込むほどに不気味だった。
取り残された私と陽太は、呆然と湊兄さんの背中を見つめた。 何百人ものファンに囲まれて笑う兄の姿が、一瞬だけ、誰の侵入も許さない高い硝子の壁に閉じ込められているように見えた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
第4章に入りました。
この章で小学生編は終了の予定です。
兄の性格が優しいものを設定してますが、
エースなのに頼りない性格に見せていますが、
みゆと陽太がまだ小学生なのであえて優しく接しているという構図です。
2人が中学生に上がるに合わせて厳しいところも織り込んでいくので
逞しい姿までは今しばらくお待ちください。
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