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神様の身代わり ―光の兄と、罪の妹―  作者: FERILU
第1章 朝の風景

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窓越しのご挨拶

六月の柔らかな朝日が、水瀬みなせ家の庭に咲き誇る紫陽花を淡く照らしていた。


水瀬みゆ、十二歳。小学六年生の彼女にとって、一日の始まりはアラームの音ではなく、数メートル先にある「隣の家」から響く騒がしい音と決まっていた。


パシャッ、と自分の部屋の窓を勢いよく開ける。湿り気を帯びた初夏の風が頬を撫でるのと同時に、正面にある河村家の二階、見慣れたカーテンが乱暴に開くのが見えた。


「おーい、そこのネボスケ! いつまで寝てんだよ、学校遅れんぞ!」


窓枠に身を乗り出し、遠慮のない声を張り上げてきたのは、幼馴染の「河村かわむら 陽太ようた」だ。みゆと同じ十二歳。日に焼けた肌に、寝癖で跳ねた短い黒髪。少年らしい幼さを残しながらも、最近少しだけ声が低くなり始めた、自称「テニス部のエース(予定)」である。


「……うるさいわね! 誰がネボスケよ。私はもう三十分前には起きて、単語帳めくってたんだから!」


みゆは負けじと言い返す。実際は五分前まで夢の中にいたが、この少年を前にして正直に認めるほど、彼女のプライドは安くない。


「嘘つけ! ほら、目ヤニ付いてんぞ」


「付いてないわよ! 陽太こそ、そのひどい寝癖を鏡で見てきなさいよ。……だいたい、あんたは朝から声が大きすぎるの。近所迷惑だって、姉さんに怒られても知らないんだから」


「姉さん」という名前を出した途端、陽太の顔がわずかに強張った。水瀬家の長女・雫は、陽太にとっても「逆らってはいけない絶対権力者」であることを、本能的に理解しているらしい。


「ちっ、朝から雫さんの名前出すんじゃねーよ。……ほら、さっさと準備しろ。置いていくからな!」


そう言って、陽太は照れ隠しのように乱暴に窓を閉めた。


「なによ、勝手なんだから……」


みゆは膨れっ面をしながらも、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。

河村陽太。小学校低学年の頃から、泥だらけになって一緒に駆け回ってきたお隣さん。喧嘩ばかりしているけれど、重い荷物を持ってくれたり、暗い道では必ず前を歩いてくれたりする。彼に抱くこの不思議な高鳴りが、世間でいう「初恋」というものなのか、十二歳のみゆにはまだ確信が持てなかった。


けれど、そんな甘酸っぱい迷いを一瞬で塗り替えてしまうほど、特別な声が背後から届く。


「おはよう、みゆ。朝から元気だね」


振り返ると、部屋のドアの隙間から、穏やかな微笑みを湛えた兄・「水瀬みなせ みなと」が立っていた。中学二年生、十四歳。


みゆより二歳年上の彼は、その年齢にしては驚くほど落ち着いた雰囲気を纏っている。整った顔立ちに、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳。誰に対しても分け隔てなく接する彼は、学校でも「理想の先輩」として有名だった。


「湊兄さん……! おはよう!」


みゆの表情が一瞬で華やぐ。陽太に見せていた生意気な態度はどこへやら、彼女は弾かれたように兄の元へ駆け寄った。


「陽太くんとまた喧嘩かい? 隣まで声が聞こえていたよ」

「あいつが先にひどいこと言うから……。湊兄さん、陽太を甘やかしすぎだよ。テニスの練習だって、あんな生意気な子、放っておけばいいのに」


みゆは湊のシャツの裾をぎゅっと握った。湊は困ったように眉を下げながらも、その大きな手でみゆの頭を優しく撫でる。


「陽太くんはいい子だよ。みゆのことが心配で、毎朝窓を開けてるんだから。……さあ、朝食ができているよ。姉さんが待ってる」


「姉さん」という言葉に、再びみゆの背筋が伸びる。


一階のリビングに向かうと、そこには既に完璧な朝食が並んでいた。

テーブルの端で、厳しい表情で新聞に目を通しているのが、長女の「水瀬みなせ しずく」、二十歳だ。都内の名門大学に通う彼女は、水瀬家の実質的な司令塔だった。


「五分遅いわよ、みゆ。準備に手間取っているようでは、自覚が足りないんじゃないかしら」


「ごめんなさい、姉さん……」


雫は眼鏡をクイと押し上げ、チラリと湊を見た。その視線には、妹に向ける厳しさとは全く質の異なる、狂おしいほどの執着と慈愛が混ざり合っている。


「湊、昨夜はよく眠れた? 枕の高さが合っていないようだったら、すぐに新しいものを手配するけれど」

「大丈夫だよ、姉さん。いつもありがとう」


湊が微笑むと、雫の強張っていた表情がわずかに和らぐ。

雫の湊に対する「過保護」は、家族の間では日常の光景だった。彼の食事の栄養バランス、着る服の素材、交友関係のすべてを雫が管理している。湊が中学二年生になった今でも、雫は彼を片時も離したくないと言わんばかりの献身を見せていた。


みゆは、そんな姉の姿をどこか羨ましく、そして不思議に思っていた。

家族なんだから、大切にするのは当たり前。でも、姉さんの愛は、どこか切実で、何かに怯えているようにも見える。


「……みゆ、何ぼーっとしてるの。早く食べなさい」

「あ、はい!」


トーストを口に運びながら、みゆは窓の外を見る。

隣の家からは、陽太がバタバタと階段を駆け下りる音が聞こえてくる。


「……ったく、遅いんだよ。ネボスケのくせに足だけは速いんだから」


玄関を出ると、家の前でラケットバッグを肩にかけた陽太が、退屈そうに地面の石を蹴っていた。みゆの姿を認めると、彼はニッと八重歯を見せて不敵に笑う。


「うるさいわね。陽太こそ、またその靴、踵踏んでる。姉さんに見つかったら、身だしなみの講義を一時間は受けることになるわよ」

「げっ、勘弁してくれよ……。雫さんの説教は、母ちゃんの雷より効くんだから」


陽太は慌てて靴を履き直し、二人は並んで学校への道を歩き出した。

通学路の脇に流れる小さな川のせせらぎと、登校する小学生たちの賑やかな声。陽太が昨日のテニス部での失敗談を身振り手振りで話すのを、みゆは「ふふっ」と笑いながら聞いていた。


ふとした拍子に、二人の手が触れそうになる。陽太は気まずそうにパッと手を引っ込めたが、その耳の端が少しだけ赤くなっているのを、みゆは見逃さなかった。

(陽太って、意外と……)

言い合いをしている時とは違う、等身大の男の子としての陽太。その横顔を見つめるたび、みゆの胸の奥がチリりと熱くなった。


しかし、その平穏な空気は、角を曲がった先で待っていた光景によって一変する。


「あ、湊先輩だ!」

「湊先輩、おはようございます!」


前方を歩いていた女子中学生たちが、一斉に黄色い声を上げた。視線の先にいるのは、一足先に家を出たはずの兄・湊だ。彼は足を止め、後輩たちに丁寧な挨拶を返している。その立ち姿は、まるでそこだけスポットライトが当たっているかのように洗練されていた。


「……湊兄さん、やっぱり人気者だね」

「ああ。湊さんは特別だからな。テニスだって勉強だって、俺たちの何倍も先を走ってる」


陽太の声には、純粋な憧れが混ざり合っていた。

みゆは、女子たちに囲まれる湊をじっと見つめる。その瞬間、陽太と歩いていた時の「等身大の自分」は消え去り、胸の中を黒い波のような独占欲が支配した。お兄ちゃんの隣は、私だけの場所なのに。


そんなみゆの視線に気づいたのか、湊がこちらを振り返った。女子たちの輪から抜け出し、彼はみゆと陽太の元へ歩み寄ってくる。


「二人とも、一緒だったんだね。陽太くん、今日の放課後、例のサーブの練習に付き合うよ」

「本当っすか! ありがとうございます、湊さん!」


陽太がパッと顔を輝かせる。湊はそんな弟分を微笑ましく見つめ、次にみゆの髪をそっと撫でた。


「みゆ。……忘れ物はないかい? 姉さんが心配していたよ」

「うん、大丈夫。……ねえ、湊兄さん。今日の夜、算数教えてくれる?」

「もちろん。約束だよ」


湊の指先が髪に触れる。その感触だけで、みゆの心は満たされ、陽太への淡いときめきさえも霧のように消えていく。湊に向ける感情は、陽太へのそれとは全く別物だ。重く、深く、そしてどこか逃れられない宿命のような情愛。


「さあ、行こうか。……あ、そうだ。姉さんから伝言だよ」

湊がふと思い出したように言った。

「『陽太くんをあまり家の中に入れないように』って。特にお父さんの書斎の近くにはね」


「えっ、なんで? 陽太なら昔からよく遊んでるじゃない」

みゆが首を傾げると、湊は少しだけ目を伏せ、困ったように笑った。

「わからないけれど……姉さんなりの『ルール』なんだろうね」


その言葉の裏にある「雫の鉄の掟」を、当時の二人は知る由もなかった。

雫が陽太を遠ざけるのは、お隣さんである彼を嫌っているからではない。彼という「外の光」が、水瀬家の箱庭に差し込むことで、隠し続けている影を暴いてしまうことを、彼女は何よりも恐れていたのだ。


「なんだよ、雫さん相変わらず厳しいな。まあいいや、庭で素振り教えてもらうから!」


陽太は気にしていない風に笑い、学校の校門を指差した。

湊は女子たちの視線を背に、優雅に歩き出す。陽太はその背中を追って、眩しい日差しの中へ走り出す。


二人の男の子の後ろ姿を見つめながら、みゆは自分の胸に手を当てた。

湊兄さんといる時の、息が止まりそうなほどの幸福感。

そして、陽太といる時の、心臓がトクトクと騒ぎ出すような不思議な高鳴り。


(私、本当は……)


答えの出ない問いを抱えたまま、みゆは二人を追って歩き出す。

この日の放課後、テニスコートで泥だらけになってボールを追う陽太の姿が、みゆの心をさらに激しく揺さぶることになるとは、まだ知らずに。

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