いつかの未来に希望を抱いて
この日、アウローラは週に一度の『婚約者との時間』でフランツ・アクトンが暮らすアクトン男爵家に行く予定があった。燦々と肌を焼くような日光が降り注ぐ、真夏の出来事である。
王都で待ち合わせ、二人きりでデートをする予定なのだと話し、御者も使用人も置いてひとりで屋敷を出たアウローラは屋敷から少し歩いたところでさり気なく周囲を見渡した。それからロレーヌ伯爵家の者の姿や気配がないことを確認して、安堵したように小さく息を吐く。
────本当はフランツとのデートの約束など、存在しない。
少し考えれば分かるはずだ。
あのフランツが、どんな理由があろうと大嫌いな婚約者とデートをするわけがないと。けれどロレーヌ伯爵家の者たちはアウローラに興味がないので、こっそり屋敷を抜け出すにはちょうどいい。フランツとて事前に連絡も入れていないが、今日のことを忘れているだろうし、後になって思い出しても特に何か思うでもなく、またすぐに忘れてしまうだろう。
「ローラ」
派手な髪色であるため、目立たないよう帽子を目深にかぶって歩いていたアウローラは、不意に聞こえてきた自分の名に反応し、パッと背後を振り返った。
豪奢な馬車の前で佇むのは、今日このあたりで待ち合わせていたフェリクス・ロンバルティ。相手こそ違えど、誰かと待ち合わせをしていたのは嘘ではない。
「フェリクス。待たせてしまったかしら?」
「いいや、俺も今到着したばかりだ。──お手をどうぞ、婚約者殿?」
「あら……」
馬車に乗ろうとしたアウローラに手を差し出しつつ、不敵に笑うフェリクス。
その言葉を受け、書面上では私の婚約者は他にいるのだけど、と意地悪く微笑んでみれば、彼はやれやれと肩を竦めた。
フェリクス曰く、週に一度しかない逢瀬にもかかわらず他の女に夢中になっている男など、偽物の婚約者なのだそう。片時もアウローラのことを忘れない自分の方がまだ、アウローラの婚約者に相応しい……と。
「それに……ローラ、君が今から向かう場所とその目的を忘れたか?」
「とても大事な日だもの、忘れるはずがないわ」
ゆっくりと走り出した馬車が向かう先は、普段のフェリクスが暮らすロンバルティ辺境伯邸。今日はそこで、フェリクスの両親である、前ロンバルティ辺境伯夫妻と顔合わせをするのだ。互いに社交界で見かけたことはあれど、きちんと挨拶をするのは初めてになると思う。
アウローラは婚約者や家族への復讐のため、フェリクスに協力を仰いだ。その対価が彼との結婚である。だからこの計画を成功させるため、フェリクスの両親からも結婚の許可をもらっておきたい。
貴族令嬢がひとりで人通りの多い王都へ出るのに、顔を隠してまでお忍びの装いではなくドレスを着ているのにはそんな目的があった。
「この国の辺境伯は公爵相当だけれど、対して私の身分は伯爵令嬢。……反対されなければいいのだけど」
「そこは心配無用だ。両親は俺が『婚約者ができた』と報告しただけで喜んでいたからな。相手の身分は伝えていないのにもかかわらず、だ。それにもし顔合わせで反対されたとしても現当主が俺である以上、俺の決定は覆らない」
なるほど、たしかにフェリクスは女性嫌いの『冷酷無慈悲な辺境伯』だ。それが彼の本質でないことをアウローラは知っているが、貴族社会において一度付いた評判は中々覆らない。
このままだと息子が結婚しないのでは、と前ロンバルティ辺境伯夫妻は悩んでいたのだろうか。
アウローラたちが待ち合わせていた場所からロンバルティ辺境伯邸まで、馬車ならばそう遠くはない。フェリクスの両親に想いを馳せていれば次第に見慣れた屋敷の屋根が見え、間もなくして敷地内に入った。
「……私はあなたの協力が得られるのならば何でも良いけれど、義両親との関係が悪いのは結婚後が少しだけ憂鬱になるわね」
「それは大変だ。君に離縁を申し渡されるわけにはいかない」
──きっと本気でそう思っているわけではないのだろう。自戒を含んではいるものの、いつものように不敵に笑っているから。
やがて屋敷の前でゆっくりと馬車が止まった。窓からはエントランスの前に立っている、フェリクスの両親の姿。
珍しいことに、緊張で少しだけ心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「さあ行こう、ローラ」
フェリクスの声に頷き、エスコートをされて地面に降り立ったアウローラは、そのまま玄関扉へと続く階段を上る。
「父上、母上、ただいま帰りました。こちらは俺の未来の妻である、アウローラ・ロレーヌ伯爵令嬢です」
「こうしてご挨拶をするのははじめてになります。ロレーヌ伯爵が長女、アウローラと申します。以後お見知りおきください」
そう言って貴族令嬢らしく優雅に微笑み、ゆったりとした動作で丁寧に頭を下げた。それから間を空けず、『顔をあげてくれ』と心地よく上品な声が響いた。
薔薇そのものと言えるような、美しく咲き誇り、その姿を目に入れたすべての人を魅了する笑顔。けれども少しでも触れたら大きな傷を残してしまいそうな棘がある。前ロンバルティ辺境伯と、息子であるフェリクスはとても良く似た顔立ちをしていた。
隣で優しく微笑む前ロンバルティ辺境伯夫人も、どことなくフェリクスと似た雰囲気がある。
一見歓迎されているようだ。しかしその目はどちらも、人を見定める立場にある上位者のものだった。
「私はフェリクスの父だ。普段はロンバルティ辺境伯領で静かに暮らしているからな──そう身構える必要はないよ」
「あらまあ、それは旦那様が怖い目をされているからでしょう。一生独身を貫くかと思っていたフェリクスが『未来の妻』を連れてきたのよ? 絶対に逃がさないよう、優しくして差し上げませんと」
ふふっ、と無害そうに笑った彼女を見て、アウローラは本能的に思う。
────この場において、フェリクスの母は一番の強者だ。
「お二人とも、一旦場所を移しましょう。色々と話すべきことがありますから」
応接室に移動したアウローラは、ひとまず出されたお茶に口を付けながら、何から話すべきかと思案する。
フェリクスとアウローラの関係は普通ではない。フェリクスの両親もそれは分かっているので、きっと聞きたいことが多いはずだ。それでも何も言わずにアウローラが話し出すのを待っていてくれるあたりに、多少なりともアウローラを尊重してくれるつもりであることが窺える。
「……前ロンバルティ辺境伯夫妻」
「ああ、そう堅苦しく呼ぶ必要はない。義理の両親になるのだから」
「ではお義父様、お義母様と呼ばせていただきます。お二人にはまず、お伝えしておくべきことがあります。私はフェリクスの『未来の妻』としてご挨拶に伺いましたが、書面上での婚約者は他にいます」
アウローラはフェリクスの『未来の妻』であるけれど、『婚約者』ではない。
これだけ聞くと、やっていること自体は浮気。非常に不本意であるがフランツと同じだな、と思う。
フランツの存在を知っている義両親は特に驚いた様子もなく、無言で続きを促した。フェリクスもアウローラのペースで話させてくれるらしい。
「婚約者はフランツ・アクトン男爵令息です。ですが彼とは──私たちの婚儀の日に、婚約破棄をする予定です。同時に私の家族も断罪します」
「家族も……?」
「ええ。ふふ、ロレーヌ伯爵家は家族仲が良いと思われているでしょう? けれどその実態は真逆……いえ、私を家族とは思っていないので、あながち間違いではないのかもしれませんが。私は幼い頃からずっと、ずっと家族に虐待されております」
ついでに言えば、ロレーヌ伯爵家の使用人たちもだ。
家では虐待、婚約者には浮気をされ、婚約者の家の者からは邪険に扱われる。そのくせ外ではいい顔をしようとするので、フェリクスと出会うまでのアウローラは本当に孤独だった。
「そのような話は聞いたことないわ……」
「お義母様、それにお義父様も。自分に見えているものがすべてではないのです。特にこの貴族社会、自家の評判はとても大切ではありませんか」
そしてアウローラの家族は、自分たちの行いが褒められたことではないと分かっていながら、それでも躊躇なくアウローラを苦しめてくるのだ。
「不幸自慢をしたいわけではありません。ただ事実として、私が今まで何度も家族に殺されかけたということを、覚えておいていただけると幸いですわ」
「……フェリクス」
「嘆かわしいことに、アウローラの言葉はすべて真実です。俺は彼女が家族や婚約者の件で荒れているところに遭遇し、彼女に心底惚れたので、協力すると約束しました。彼女が握っている、『断罪のための証拠』も見ています」
出会って早々に暗い話をしてしまって申し訳ない。
アウローラとフェリクスの言葉に義両親は目を見開いて絶句している。この愛で満ちているであろうロンバルティ辺境伯家には、少々刺激が強すぎたかもしれない。
「──フェリクス・ロンバルティは私の復讐計画に協力する。アウローラ・ロレーヌは断罪後、私に惚れたらしいフェリクスと結婚する。これが私たちの間で交わした取引になります」
だから申し訳ないが、アウローラがフェリクスに相応しくないと言われようとも、ロンバルティ辺境伯家に嫁がない選択肢はないのだ。
眉を下げ、最後にそのようなことを口にする。
義両親は唖然としていたものの、さすがは先代の辺境伯夫妻と言うべきか、それともフェリクスの両親だからか。
アウローラの言葉をゆっくりと呑み込むように、何度か小さく頷いた後、気遣わしげに苦笑した。
「状況は理解した。元よりフェリクスが選んだ相手だ、反対するつもりは一切なかった」
「ええ……けれど、妻は戦線には出ないとはいえ、危険な辺境の地で生涯夫や兵士たちを支える必要があります。だからそのことで忠告と、過酷な環境に耐えられるかだけ確認したかったの」
なるほど、それで最初の挨拶の折、アウローラに見定めるような視線を送ってきたのだろう。
視線の意味は正しく理解できていたものの、その理由が分かっていなかった自分に反省だ。辺境伯夫人には、身分以上に求められるものがあるのだと、たったこれだけの会話で理解できた。
「ロンバルティ辺境伯領は危険な地であるけれど、だからこそ仲間への愛と結束力が強いと聞いています。温かい食事と身内に敵のいない生活──それらが確約された未来なら、過酷な地でも喜んで受け入れましょう」
「……父上に母上、分かったでしょう? 彼女の強さは見ていて苦しい。強くならざるを得なかったのだと、分かってしまいますから」
──アウローラはこれまで自分を蔑ろにしてきた者たちへの復讐を誓っている。
そのためならば契約による結婚だって厭わない。今のアウローラに必要なのは、自身の明るい未来よりも彼らへの最大限の復讐。この目的を果たすにあたって、ロンバルティ辺境伯家の協力はこの上ないほどの強みなのだ。
それだけでも充分なのに、ロンバルティ辺境伯家にはこのような温かい仲間や家族がいる。心配したり、一緒に苦しんでくれる人がいる。
それが一体、どれほど幸せなことなのか。アウローラはとても良く理解できるから、光に満ちているであろう未来を想像して、心からの笑みを浮かべた。
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