7
ビオラは、学校生活に少しずつ慣れてきていた。
授業の流れ、昼休みの空気、教室の雑音。
最初は異国の儀式のように感じていたものが、今では“日常”として肌に馴染み始めている。
状況把握と適応力の高さは、彼女の特性でもある。
水曜日の図書室では、悠真との会話が自然に続くようになった。
沙織とも、以前よりも深く話せるようになった。
そのたびに、紫音としての記憶と感情が、静かに彼女の中で根を張っていく。
そして今―― ビオラは、この世界そのものについても、少しずつ理解を深めていた。
ここは、アールバイト王国が存在する“あちらの世界”とは、まるで違う。
人々は魔法を使わない。
それどころか、魔法という概念すら、物語や娯楽の中にしか存在していないようだった。
当初、ビオラは「ニホン」という国が、魔法の使用を制限している特殊な国家なのか、
あるいは魔力を持たない人種の集まりなのかと考えていた。
だが、情報を集めるうちに、どうもそうではないらしいと気づく。
この世界には――そもそも、魔法が“存在していない”。
そう考え始めると、空気の感触の違いが気になり始めた。
呼吸のたびに感じる“魔素”の流れが、ほとんどない。
魔法を行使するには、空気中に一定量の魔素が必要となる。
それは、術者の魔力と共鳴し、術式を構築するための“素材”のようなもの。
だが、この世界の魔素は――あまりにも希薄だった。
魔素が足りない。 術式を組もうとしても、素材が集まらない。
まるで、絵の具がないまま絵を描こうとしているような感覚。
……魔法が、使えないわけではありませんが、自由にとはいきませんわね」
その事実に気づいたとき、ビオラは静かに息を吐いた。
不便さよりも、寂しさが胸をよぎった。
あっという間に三週間が過ぎた土曜日。
明日は、オーディション二次審査の当日。
この日、午前中から、ビオラは紫音の部屋で一人、動画で学んできたダンスを実践していた。
表現力審査は、やはり“ダンス”で挑むと決めていた。
鏡の前で、音楽に合わせて身体を動かす。 その動きは、もはや素人の域を超えていた。
身体強化魔法は、この世界では効果が激減している。
それでも、わずかに残る魔素を織り交ぜ、彼女は自分に合った動きへと昇華させていた。
ステップのキレ。 ターンの滑らかさ。 指先まで意識の通ったライン。
重心の移動、呼吸のタイミング、視線の方向―― すべてが、音楽と一体になっていた。
家に帰るとすぐに動画を見て、情報を吸収していた。 その能力が、今まさに発揮されている。
そのとき、急にインターフォンが鳴った。
玄関で美咲が対応する。
「いらっしゃい、沙織ちゃん。紫音、部屋にいるわよ」
「ありがとうございます。お邪魔します!」
何度も遊びに来て、勝手知ったる家。 沙織は靴を脱ぎ、迷うことなく紫音の部屋へ向かう。
扉を開けた、その瞬間。
「……えっ!?」
そこには、キレキレのダンスを踊る紫音の姿があった。
髪が揺れ、足元が滑るように動き、手の先まで美しく伸びている。
一歩踏み出すごとに、空気が震え、旋回するたびに光が軌跡を描く。
指先が語り、足元が叫び、瞳が物語る。
ビオラの瞳は真剣で、身体は音楽と完全に融合していた。
それは、まるでステージの上にいるようだった。
沙織は、言葉を失った。
紫音って、こんなに踊れる子だったっけ……?
親友の知らなかった一面に、心が揺れていた。
ただ立ち尽くし、目を離せずにいた。
鏡の前でターンを決めた瞬間、ビオラの視線が沙織と交差した。
その流し目は、まるで舞台の女王のように妖艶で、艶やかだった。
沙織の心臓が、ひとつ跳ねた。
な、なに今の……紫音、めっちゃ色っぽい……!
ビオラは音楽を止め、優雅に髪を払って振り向いた。
「ごきげんよう、沙織。何か御用ですか?」
「御用って……相変わらず面白いなあ。 暇だったから来てみたんだよ。どっか遊びに行かない?」
「よろしくてよ」
その一言に、沙織は思わず笑った。
駅前のショッピングモール。 人混みの中を歩きながら、二人は並んで話す。
「やっぱり、オーディション受けるんだね」
「ええ。頑張りますわ」
「まっ……まぶしい……!紫音、めっちゃ輝いてるね」
「えっ、光魔法は使っておりませんが」
「えっ、光ることできるの?」
「ええ、まあ。必要があれば」
沙織は吹き出しながら、肩をすくめた。
「ほんと、紫音ってば、どんどん面白くなってるよね」
「それは褒め言葉として受け取っておきますわ」
二人の笑い声が、モールの喧騒に溶けていく。
その光の中で、ビオラは、確かに輝いていた。
ショッピングモールの中央に設置された大型ディスプレイ。
そこに映っていたのは、一人の女性。 ステージの上で、情熱的に歌を熱唱している。
ビオラは、足を止めた。
その姿に、何か既視感を覚えた。
胸の奥が、微かにざわめく。
「……あっ、天音リアちゃんだ。相変わらず、かわいいねえ」
「天音リア様とおっしゃるのね。この方も、アイドルなのかしら?」
「様って……うーん、アイドルというより“歌姫”かな。
リアちゃん、めっちゃ歌うまいよ。表現力がすごいの」
ビオラは、画面の中の彼女をじっと見つめた。
その歌声は、映像越しでも空気を震わせるほどだった。
「歌姫……聖女……リア、リアナ……」
小さく呟きながら、何かを思い出そうとしていた。
沙織が、ふと横目でビオラを見た。
「えっ、もしかして紫音、この子をライバル視してるの?」
ビオラは、ゆっくりと頷いた。
「ライバル?……ええ、そうね。ライバルね」
その言葉には、静かな闘志が込められていた。
目の奥に、確かな炎が灯っている。
沙織は思わず笑ってしまう。
「すごい闘争心……!でも、なんかカッコいいかも」
ビオラは微笑みながら、再びディスプレイに目を向けた。
「あっ、しろまるショップだよ!」
沙織が指さした先には、白くてまるい巨大なネコが、入り口で両手を広げてお出迎えしていた。
ふわふわの輪郭に、つぶらな瞳。 その存在は、まるで“癒しの精霊”のようだった。
「まあ……本当ですわ!」
ビオラの声が、ひときわ高くなる。
さっきまでの冷静な令嬢モードはどこへやら、瞳がきらきらと輝いていた。
沙織は思わず笑う。
「紫音、あいかわらず好きだよね、しろまる」
ビオラは、少し照れくさそうにする。
……最初は子供騙しと思いましたが、紫音の部屋が、しろまるだらけですもの。
ぬいぐるみ、クッション、ポスター、マグカップ
…… 毎日目にしているうちに、なんだか……とても愛おしくなってきてしまいましたわ。
「ふふ、入る?」
「ぜひ!じつは今も、しろまるのタオルハンカチを持ってきておりますの」
そう言って、ビオラはバッグの中から、そっと黄色いタオルを取り出す。
端には、ちょこんと座ったしろまるの刺繍。 その姿は、どこか誇らしげだった。
「……かわいい」
沙織は、思わず声を漏らした。
「でしょう? しろまるは、癒しと秩序の象徴ですわ」
「秩序?」
「ええ。あの丸みと均整の取れたフォルム。 あれは、世界の調和を体現しているのです」
「……紫音、ほんとに面白いよ」
二人は笑いながら、しろまるショップの中へと足を踏み入れた。
そこには、ぬいぐるみたちが整然と並び、まるで“しろまる王国”のような空間が広がっていた。
お昼になり、二人はショッピングモールのフードコートへと向かった。
「……ここは、“ガクショク”よりもさらにすごいところですわ。
まるで食の万国博覧会。何でもありますのね……!」
ビオラは目を輝かせながら、店の並ぶ光景を見渡していた。
ラーメン、オムライス、タピオカ、韓国チキン、クレープ、カレー、うどん、ハンバーガー……
そのすべてが、彼女にとっては“未知の祝祭”だった。
「はいはい、落ち着いて。 とりあえず、どこに座るか決めよっか」
沙織は呆れたように笑いながら、空席を探してきょろきょろと辺りを見回す。
そのとき――
「おーい、沙織、紫音!」
聞き慣れた声が響いた。 振り向くと、颯太が手を振っていた。
その隣には、悠真がいて、控えめに小さく手を挙げている。
「二人も遊びに来たのか?」
「偶然ね」
沙織が笑いながら応じると、ビオラも一歩前に出て、優雅に一礼した。
「ごきげんよう、朝比奈様。それに冬木様も」
「おっ、おう……相変わらずだな、紫音」
颯太が少し照れたように頭をかく。
「せっかくだし、一緒に食おうぜ」
「いいわよ。ねっ紫音?んじゃ私たちが先に買ってきていい?」
沙織がいうと、悠真が頷いた。
「もちろん。お先にどうぞ」
「では、ありがたく」
ビオラは軽くスカートの裾を摘み、優雅に一礼してから沙織と列へと向かった。
「それぞれ好きなものを買おう」ということになり、ビオラは一人、フードコートの店を見て回っていた。
……もう、一人で何でも買えるのですわ。
その事実に、ビオラは内心、少し得意げだった。
財布の扱いも、注文の仕方も、もう完璧。
“現代日本の食文化”という戦場において、彼女はすでに一人前の戦士だった。
しかし――
悩ましい問題が、ひとつ。
「ハンバーガー」か「オムライス」か。 どちらを選ぶべきか、判断がつかない。
……どちらも不可思議な言葉ですわ…… “ハンバーガー”は、パンに肉を挟んだもの。
“オムライス”は、卵と米の融合体……どちらも、魅力的すぎますわ……!
ビオラは真剣に悩んだ。 まるで国家の命運を左右する選択のように。
最終的に、彼女は――
「……オムライスを、ひとつくださいませ」
そう告げて、無事に会計を済ませた。 そして、手渡された謎の物体。
「……これを渡されたのですけど、何かしら?」
丸くて、赤くて、手のひらサイズ。
まるで魔導具のような形状。
ビオラは訝しげにそれを見つめながら、席に戻った。
入れ替わりで、颯太と悠真が買い出しに向かう。
沙織は、不思議そうな様子のビオラを吹き出した。
「それ、ブザーだよ。料理ができたら鳴るの。鳴ったら、それと引き換えに料理を受け取るのよ」
「……何と、画期的な……!」
ビオラは目を見開いた。
まるで、魔法の合図器……! この国の技術、侮れませんわね……!
ブザーを両手で大切そうに持ちながら、ビオラは静かに頷いた。
ブザーが震え、赤く点滅した。 ビオラはそれを手に、カウンターへ向かう。
「オムライス、お待たせしました」と渡された皿には、黄金色の卵がふんわりとライスを包み込んでいた。
席に戻ると、みなもすでに料理を手にしていた。沙織はとんこつラーメン、
悠真はスパイスの香るカレー、颯太はチーズがとろけるバーガーを持っている。
「お、オムライスか。いいね」 颯太が軽く声をかける。
ビオラは、初めての出会いに緊張しつつ、スプーンを手に取る。
卵の柔らかさ、ライスの温もり―― ひと口、口に運んだ瞬間。
紫音の記憶が、弾けた。
幼い頃、お母さんが作ってくれたオムライス。
ケチャップで描かれた、歪なネコの顔。
ピアノの発表会の前、高校受験の前、 大事な本番の前には、必ずこの料理が食卓に並んでいた。
温かくて、甘くて、少し酸っぱくて―― その味が、心を包み込んだ。
……とても良い思い出ですわね。
それに、美味しい。 けれど、あら……そうすると……
ビオラの瞳がふと揺れる。
悠真が、静かに声をかける。
「……花城さん?」
「よく考えたら、今日のお夕食もオムライスと思いますわ」
悠真が目を丸くする。 沙織と颯太が、同時に吹き出した。
「紫音って、そんなにオムライス好きなんだ。一日に二食も食べるなんて!」
「紫音、体張ってるなあ。おもしれー!」
「あははは!」
……わたくしも、今、初めて知りましたのよ。
でも――この味は、紫音の心の奥にある、重要な記憶ですわ。
笑い声が弾ける中、ビオラは微笑みながらスプーンをもう一度口に運ぶ。
その味は、紫音の“過去”とビオラの“今”をつなぐ、優しい橋だった。




