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帰る準備を終えたビオラは、鞄を肩にかけ、教室を出た。
そして図書室へと向かう。
……図書室。知の聖域。楽しみですわね。
放課後の廊下は、部活動へ向かう生徒たちの足音と笑い声で満ちている。
けれど、図書室の扉をくぐれば、そこは別世界――静寂と紙の匂いが支配する。
本棚の間を抜けていくと、窓際の席に見たことのある後ろ姿があった。
……あれは、たしか冬木様ね。
彼は文庫本を開き、静かにページをめくっている。
その横顔は穏やかで、どこか物語の登場人物のようだった。
「冬木様、ごきげんよう」
「……あ、花城さん」
顔を上げた悠真が、少しだけ微笑む。
その笑みに、ビオラ――いや、紫音の心がふわりと浮き立つ。
……これは?
胸の奥が、少しだけ熱を帯びる。
くすぐったいような感覚。
紫音の感情が、少しずつ、わたくしの中に溶け込んでくる。
……これは、紫音の記憶?
あれは、入学から少し落ち着いた五月の連休明け。
いまだ沙織以外とはうまく話せずにいた。
沙織が美化委員になってからは、毎週水曜日の放課後がぽっかり空いた。
すぐ帰ると、お母さんが心配する。 だから、紫音は図書室に通うようになった。
誰にも言えなかったけれど―― 紫音は、ホラー小説が好きだった。
家族にも、そして沙織にも、言えなかった秘密。
その日も、静かにページをめくっていた。
読んでいたのは、『きみが夜に溶けるまで』。
作家名は、かたり。
恐怖と謎、そして切ない恋が交錯する物語。
「それ読んでるんだ。面白いよね」
不意にかけられた声に、紫音はびくりと肩を揺らした。
振り返ると、そこにいたのが――冬木悠真だった。
固まったままの紫音の様子を見て、悠真はすぐに謝る。
「いきなり話しかけて、ごめん。邪魔したね」
そう言って立ち去ろうとする彼に、紫音は思わず声をかけた。
「……あの、わたし、この人の本が好きなんです」
「かたり、作品数はまだ少ないけど、印象深いものが多いよね」
その一言に、紫音の心の扉が、少しだけ開いた。
ホラーとしての緊張感だけでなく、悲しい恋の物語としての深み。
巧妙に仕掛けられた伏線と、終盤のどんでん返し。
気づけば、紫音は悠真に夢中で語っていた。
我に返って、顔を赤らめる。
「ご、ごめんなさい……つい、しゃべりすぎて」
けれど、悠真は何とも思ってないように、優しく言った。
「なんで?興味深い意見だったよ。僕としてはね……」
それから、二人は毎週水曜日の放課後、図書室で少しずつ話すようになった。
――
ビオラは心に広がっていく甘酸っぱい記憶に、にやけそうになるが、鉄の表情筋を作動させて耐える。
……そういうことですのね。
事態を飲み込んで、したり顔のビオラに、悠真が問いかける。
「病院でも、何か本を読んでた?」
「残念ながら。でも、ここの図書室は宝の山ですわね。
受け継がれてきた知の宝庫を自由に堪能できるなんて、幸せですわ」
「……花城さん、面白い考え方だね」
「わたくし、以前と変わりましたか?」
悠真は少し考えてから、静かに言った。
「うーん。どんな花城さんでも、花城さんだよ。
あっそうそう、先週、花城さんが好きそうな本を見つけたんだ……」
その言葉に、胸がふわりと揺れた。
……どんなわたくしでも、わたくし。
それは紫音の感情? それとも――ビオラ自身のもの?
境界が、少しずつ溶けていく。 静かに、優しく。
気づけば、最終下校のチャイムが鳴っていた。
図書委員が閉室の声をかけ始める中、図書室の扉が静かに開く。
「やっぱりここにいた」
沙織の声だった。
制服の袖を少しまくり、息を弾ませながら立っている。
「せっかくだし、一緒に帰ろ?」
「ええ」
ビオラが立ち上がると、悠真が本を閉じて微笑んだ。
「それじゃあね、花城さん」
「ごきげんよう、冬木様」
そのやりとりに、沙織はニヤニヤと目を細める。
「ふふ、なんかいい雰囲気じゃん」
図書室を後にし、二人で並んで歩く帰り道。
夕焼けが校舎の窓に反射して、道を金色に染めていた。
「よかったね、紫音。今日も悠真と話せて」
「ええ」
ビオラは、正直にうなずいた。
「……へっ?」
沙織が思わず足を止める。
ビオラは、まっすぐ沙織を見つめて言った。
「だって、紫音は冬木様が好きなのでしょう?」
「おっ、おう……積極的だね、ちょっとおかしな表現、気になるけど」
沙織は少し赤面しながら、気を取り直して笑う。
「まあ、お二人はお似合いだよ。応援するよ」
「ありがとうございます」
夕暮れの風が、制服の裾を揺らす。
二人の影が、並んで長く伸びていた。
沙織と歩道橋を越えた交差点で別れ、ビオラは一人、住宅街を歩いた。
夕暮れの空は淡い桃色に染まり、街灯がぽつぽつと灯り始めている。
地図は見なかった。
角を曲がるたびに、記憶が正しさを証明してくれる。
見慣れない街並みも、今では少しずつ馴染んできた。
そして、家の前にたどり着いた瞬間―― ビオラは、ほんの少しだけ胸を張った。
……ふふん。地図なしで帰れましたわ。
小さな勝利を噛み締めながら、ビオラは玄関の扉に手をかける。
見知らぬ土地で、自分の足と記憶だけで帰ってこられたことが、誇らしかった。
扉を開けた、その瞬間。
「おかえり!」
リビングから、美咲の大きな声が届く。
ビオラは、思わず立ち止まった。
胸の奥が、静かに、じんわりと温かくなる。
“おかえり”――家族から、そう言われたのは初めてですわ。
ローゼンブルク家では、執事とメイド長が優しく迎えてくれた。
けれど、それは“仕える者”としての礼節。 “家族”としての温もりとは、まるで違う。
その温かさに、思わず口が動いた。
「ただいま!」
――大声。はしたない。言葉遣いが汚い。
今にもマナーの教師からの叱責が飛んできそうだった。
けれど、ビオラは自然とそう口にしていた。
その声には、誇らしさと、嬉しさと、少しの照れが混ざっていた。
リビングに入ると、美咲がソファから顔を上げた。
「学校どうだった?」
「充実しておりましたわ」
「それは良かったわね」
美咲は、ほっとしたように微笑む。
そして、思い出したように声の調子を変えた。
「そうそう、オーディションの件ね。
連絡して、無事に保護者が了承してるって説明したから、二次審査に進めることになったわ。
友達の推薦だけじゃ、やっぱり不審がられるしね。 でも、しっかりした事務所のようで安心したわ。
内容も説明受けたから、これメモ。渡しておくね」
そう言って、美咲は一枚のメモを手渡してくれた。
ビオラはそれを受け取り、丁寧に目を通す。
二次審査内容
・表現力審査:自分の得意な表現方法でパフォーマンスを行うこと。
・面接:アイドルを志望する理由、自己紹介、将来のビジョンなど。
「紫音はピアノ、頑張ってきたんだから、それで挑戦したら?
聞いたら、楽器は審査会場に一通りあるって」
……ピアノで良いのかしら? それなら、ピアニストを目指した方が自然ではなくて?
ビオラは眉をひそめ、メモを見つめたまま考える。
……アイドルとは――何かしら。もっと分析が必要ですわね。
この国の“文化的現象”を理解せずして、表現などできるはずがありませんわ。
「お母様、今人気のアイドルって、どんな方達かしら?」
「おっ、さっそく情報収集ね。えっとねえ……今人気なのは――」
美咲はスマホを取り出し、画面を操作する。
やがて、画面をビオラに向けた。
そこには、今をときめくアイドルたちの姿が並んでいた。
きらびやかな衣装、揃ったダンス、輝く笑顔。
そして、画面の向こうから伝わってくる観客の熱狂。
ビオラは、じっと画面を見つめた。
そして、一覧にある動画を一つずつ、順に再生し始める。
音楽だけではない。 表情、動き、言葉、間の取り方、視線の運び方
―― そのすべてが“表現”として成立している。
なるほど……これが“アイドル”。
存在そのものが、舞台であり、物語なのですわね。
集中して動画を見つめるビオラ。
美咲はそっと微笑んだ。
「コーヒーでも淹れるわね」
「お母様、これは……戦場ですわね」
「えっ、戦場?」
「いえ、なんでもありませんわ」
ビオラはスマホを手に取り、再び画面に目を戻し、思考に沈む。
……この感じだと、やはりダンスが重要ですわね。
身体性、リズム、空間の使い方――この世界の流行を学ばなければ。
ビオラの知性が静かに戦略の熱を帯び始めていた。




