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昼休み。
沙織に連れられて、ビオラは「ガクショク」へと足を踏み入れた。
美味しそうな料理の匂いが立ち込め、ざわめきと笑い声が混ざり合う空間。
列に並ぶ生徒たちの手には、小さな紙片――食券。
沙織が言う。
「紫音、ここでまず食券を買うよ。んーそうだ今日はカレーにしよ。
人気のメニューだよ。紫音もどう?」
「ええ、それにしますわ」
よく分からないまま、うなずくビオラ。
自分の番が来た。
券売機の前に立つ。
色とりどりのボタンが並び、上には「カレー(並)」「カレー(大盛)」などと書かれている。
……ここからお金と交換で、“ショッケン”というものが出てくるのですね。
まるで魔道具のようですわ。
財布を開く。 朝、美咲から渡された硬貨と紙幣が並んでいる。
……お金でやり取りするのは、初めての経験ですわ。
いつもは出入りの業者が家に来て、支払いは後払い。 しかも、執事がすべてを取り仕切っていたので、ビオラが直接触れることなどなかった――
沙織に教えられながら、硬貨を入れ、ボタンを押す。
「カレー(並)」の食券が、カタンと音を立てて出てきた。
……成功ですわ。
沙織が笑う。
「はい、じゃあこれ持って並ぼう。すぐ出てくるよ」
列に並びながら、ビオラは胸の高鳴りを感じていた。
この「ガクショク」という場所――とても楽しい雰囲気ですわ。
やがて、トレイの上に湯気を立てるカレーが乗せられる。
カレーの強烈な香りに、ビオラは鼻をひくひくさせる。
これは……なんでしょう。 香辛料の香り、刺激的ですわ。
けれど、沙織が迷いなく進むので、ビオラもその後を追う。
「あっ、悠真じゃん」
沙織の声に顔を上げると、そこには静かに佇む冬木悠真の姿があった。
「ここ空いてる?」
「うん」
「じゃあ紫音、ここ座ろう」
「ええ」
悠真の向かいに、沙織と並んで腰を下ろす。
悠真が、正面に座った紫音に声をかける。
「花城さん、身体はもう平気?」
「ええ、おかげさまで」
「よかった」
沙織が、にやりと笑って茶化す。
「なんかいい感じじゃん」
そのとき、後ろから声がかかった。
「おっ、悠真に沙織と紫音、みっけ。ここいいか?」
「うん」
悠真が答えると、隣に颯太が座る。
沙織と向かい合うようにして、トレイを置いた。
「颯太、またカツ丼?」
「おうっ。これじゃないと部活で腹減るんだよ」
「カツドン」
……とても美味しそうですわ。 明日はあれにしてみましょうか。
冬木様は何を召し上がっているのかしら?
「悠真、もっと腹に溜まるもの食えよ」
「ぼくはこれでいいんだよ」
「うん、天ぷらそばもおいしいもんね」
沙織が悠真をフォローする。
「なんだよ沙織、悠真と俺の扱い違いすぎない?」
「がさつな颯太と違って、悠真は紳士だから」
「なんだよそれ」
「テンプラソバ」
……それも侮りがたし。明日の昼食の選択が難しいですわね。
ビオラは未知の食に心を奪われつつあった。
「紫音、さあ食べよっか」
「ええ」
ビオラは凛とした姿勢で、ゆっくりと手を合わせる。
感謝を心に込めて、静かに口をひらいた。
「いただきます」
ふわっと風がかすかに吹く。
その所作に、沙織と颯太が思わず見惚れる。
「なっ、何か……紫音、神々しい……」
沙織がぽつりと呟くと、颯太も思わず頷いた。
「おっ、おう……」
悠真は特段気にしていないように、静かに言う。
「そうか? 花城さんは、いつも丁寧に言ってるだろ」
「皆さんお召し上がりになりませんの?」
「おう食べようぜ。いただきます」
その後、和やかな食事が進む。
笑い声が混ざり合い、学食の空気は温かく、穏やかだった。
五限目は体育。
女性陣はドッジボールだった。
「めんどくさいね」と沙織がぼやく。
けれど、ビオラの瞳は輝いていた。
……実技訓練――重要ですわ。 公爵令嬢ともあろうもの、有事に備え、身体の鍛錬は常に欠かせません。
ここは「ニホン」の軍事力を測る意味でも、しっかりと取り組まねば。
沙織が首を傾げる。
「紫音、体育嫌いじゃなかった?」
「いえ、楽しみですわ」
二チームに分かれて対戦が始まる。
沙織にルールを教えてもらったビオラは、すぐに理解した。
……なるほど、これは魔弾の命中と回避訓練と同じですわね。
避けるか、障壁で防ぎ、反撃する。
魔法を使うと怪我しますから、この「ボール」というもので擬似訓練するわけですのね。
思考していると、声が飛んできた。
「危ない!」
沙織が叫ぶ。
紫音に向かって、ボールが飛んでくる。
ふん。
ビオラは軽く身をひねり、簡単にキャッチする。
そして、そのまま流れるように、すぐさま投げ返す。
「きゃー!」どかっ!
猛スピードのボールが敵チームの胸元に命中。 見事、ポイント。
ふふん。
魔弾のコントロール力は、アールバイト魔法騎士団長のお墨付きですもの。
周囲がざわめく中、ビオラは涼しい顔で立ち位置に戻った。
その姿は凛々しい。
沙織はぽかんと口を開けていた。
「……紫音、なんかカッコいい」
六限目は音楽。
芸術系は選択科目ということで、沙織は美術へ。
音楽室には、移動してきた生徒たちのざわめきが広がっていた。
美咲の話では、紫音は幼い頃からピアノを習っていたという。
偶然ながら、ビオラもピアノを嗜んでいる――というか、ほぼプロ級。
国外の来賓の前で演奏したこともあり、アールバイト王国楽団との共演経験もある。
今日の授業は合唱。
ピアノ伴奏が必要となり、教室に微妙な沈黙が走る。
そのとき、玲奈がにやにやしながら言った。
「花城さん、ピアノ得意じゃなかったっけ?やれば?」
引っ込み思案だった紫音なら、困って黙り込むはず。 けれど――
ビオラは目を輝かせ、玲奈を見つめる。
……この方、見る目がありますわね。
「ぜひ、やらせていただきますわ。よろしいでしょうか、先生?」
「えっ、ええ……」
圧の強さに、先生は少し引き気味。
楽譜が手渡され、ビオラはすっとピアノの前に座る。
「すみません。少し練習、よろしいでしょうか?」
「もちろんよ」
姿勢を正し、指先に意識を集中させる。
空気が、静かに張り詰める。
そして――弾く。
強烈な、力強い音。
旋律は空間を支配し、教室の空気が一変する。
「えっ、やばくない?」
「こんなの伴奏じゃねえ……」
誰も歌い出せないまま、ビオラは最後まで弾き切った。
玉のような汗が額に浮かび、呼吸は静かに整っている。
先生が駆け寄る。
「花城さん、あなたなら世界が狙えるわ!ぜひコンクールに出ましょう!」
興奮する先生。 得意げなビオラ。
そして――いらつく玲奈。
「……なんなのよ、これ」
教室の空気は、静かにざわめき始めていた。
放課後。
沙織は「ビカイインカイ」の集まりがあるとかで、先に教室を出ていった。
「明日は一緒に帰ろうね」
そう言い残して、軽やかに手を振る。
予定のないビオラは、ゆっくりと机を片付けながら、今日一日を振り返っていた。
……「コウコウ」――楽しいですわね。
自由に学べる。 それが、何よりの驚きだった。
アールバイト王国では、何をするにも礼節と秩序が重んじられた。
学問の機会は限られ、数学を好んでも深く学ぶことは許されなかった。
深く学ぶのはそれを使う必要のある技術者のみ。
そもそもビオラは淑女教育が最優先された。
また地理情報は軍事機密で学べる者はごくわずか。
文学も、その身分に合わせて選ばれた書籍のみ、
……平民が楽しんで読んでいた冒険物語、読んでみたかったですわ。
語学は楽しむものではなく、必要とされる道具。
実技訓練は、身を護り、敵を殺すためのもの――殺伐とした日々。
それに比べて、ここでは多くの分野を、自由に学ぶことができる。
なんと、自由に出入りできる図書室まであるという。
……なんて贅沢な……そうですわ、この後、さっそく寄ってみましょう。
満足げに思い起こしていると、背後から声がかかった。
「花城さーん。今日はお疲れー。
そういえば朝聞き逃したんだけど、オーディションってどうなったの?」
玲奈だった。
その笑みは、どこか探るようで、どこか試すようだった。
「ええ、無事に書類審査を通りましたわ」
「へっ?」
「せっかくですので、このまま二次審査を受けようと思いますわ」
「あっ、そう……」
玲奈の表情が、わずかに引きつる。
ビオラは気づいている。
玲奈が、嫌がらせのつもりでオーディションに応募したことを。
……こんな程度の策略、社交界に比べたらおままごとですわ。
少しだけ――返しておきましょうか。
不機嫌そうに帰ろうとする玲奈を、ビオラは呼び止める。
ビオラは、玲奈に向かって一歩踏み出す。
その足取りは静かで、しかし確かな重みを持っていた。
「神崎様、本当にありがとうございます。
あなたが応募くださったおかげで、貴重な経験ができますわ」
その言葉は、丁寧で礼節に満ちていた。
けれど――その表情は、まるで氷で彫られた彫像のよう。
口元には、わずかに笑み。
しかしその笑みは、温もりを拒む冷たい曲線。
瞳は微笑んでいない。むしろ、静かに相手を見透かしている。
頬の筋肉は一切緩まず、眉間には影すらない。
完璧な礼儀の仮面の下に、冷ややかな意志が宿っていた。
玲奈はその微笑に、思わず肩をすくめる。
「なっ、なによ……ちょっ、怖いわね。じゃあね」
足早に去っていく玲奈の背を見送りながら、ビオラは微笑みを崩さない。
それは、勝者の余裕でも、挑発でもない。 ただ、礼儀の名を借りた“静かな圧”だった。
この「コウコウ」―― とっても面白いですわね。




