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ホームルームが終わり、一限目が始まる。

教室には、静けさと微かな筆記音が漂っていた。

黒板には、連立不等式。数学の時間らしい。


ビオラは頭の中に疑問がいっぱいだった。

ここは訓練施設なのよね。 なぜ教授の最中に寝ている方がいるのかしら。

隣の席では、頬杖をついた男子がうつらうつらしている。

教師はそれを見ても、特に注意する様子はない。

……不思議ですわ。 この方々は将来、技術者になるわけではないのでしょうか?


黒板に書かれた不等式を見つめながら、ふと記憶がよみがえる。

15歳のとき、初めて任された橋の工事のプロジェクト。

資金計算、日毎の労働力の確保、現場監督の派遣日数、材料の消費と調達。

予定通りには進まない。 その場合、どこまでがデッドラインか。 どこまでならやれるか。

計算式を駆使して、多様な数値を日々叩き出していた。


……あの頃のわたくし、よくやったと思いますわ。

連立不等式―― 複数の条件を同時に満たす解を求める。

それは、柔軟な思考を育てる訓練でもある。


数学的思考とは、物事をいかに合理的に進めるかに必須の能力。

ただし、現実の世界の解は一つとは限らない。

連立不等式の解は、特定の数を示すものではなく、条件を満たす範囲――可能性の領域を見出すこと。

それはまるで、世の中の真理。

……わたくしは数学を通じて、一つの正解に縛られず、複数の道を見出す力を育みました。

その感動がまた味わえるとは。


教室の窓から差し込む光が、黒板の数式を淡く照らしていた。

その中で、ビオラは静かにペンを走らせる。


二限目は地理だった。

教壇では教師が、日本の気候帯や資源分布について語っている。

スクリーンには、人口推移や産業構造のグラフが映し出されていた。


ビオラは驚愕していた。

……地理とは、国家機密ではありませんの?

それを、こんなにも惜しげもなく伝えるなんて――


資源の所在、人口の集中、経済の強みと弱点。

それらは、国力の根幹をなす情報。

戦略の要であり、外交の武器でもある。


ここに他国のスパイがいたら、どうするつもりなのかしら。

この教室は、情報の宝庫ですわ。


それにしても――

その宝庫の中で、机に突っ伏して眠っている者がいる。


……理解不能ですわ。

このような貴重な知識を前にして、眠ることができるなんて。

将来、国政を担う方々ではないのでしょうか?


教師は淡々と授業を進めている。

生徒たちは、ノートを取る者もいれば、こそこそとスマートフォンをいじる者もいる。


……この「コウコウ」とやら―― 訓練施設というより、自由すぎる情報開示の場ですわね。

けれど、だからこそ、わたくしは、しっかりとこの国のことを学びますわ。


ビオラはペンを走らせながら、スクリーンの地図に目を向けた。

その瞳には、好奇心に満ちていた。


三限目は英語だった。

ビオラはふむふむとうなずく。

……外国語を学ぶのは、良いことですわ。

他国と円滑に交流するにも、情報を得るにも、その国の言葉を知っていることは大きな武器ですわ。


かくいうビオラも、淑女教育の一環として、

アールバイト王国と隣接する周辺六か国の言語をすべて習得していた。

外交文書の読解、舞踏会での会話による情報収集――語学はすべての礎である。


この「エイゴ」という言語、どこか馴染みがあることにビオラは気づく。

……アールバイト王国の東に位置するブリンズ公国の言葉に似ていますわね。

発音も文法も、そこまで複雑ではなさそう。習得を目指しましょう。


教師が発音練習を促し、生徒たちがそれに続く。

ビオラも静かに口を動かしてみる。


そのとき――教室が突然、歌い出した。

……歌?

驚愕するビオラ。

先ほどまで机に突っ伏して眠っていた隣の男性までもが、急に起き上がり、リズムに乗って歌い始めた。


……なぜ歌うのですか? これは語学ではなく、音楽の時間なのかしら?

しかも、皆が楽しそうに手拍子まで始めている。

教室はまるで祝祭のような空気に包まれていた。


……やはり、スパイ候補かもしれませんわね。

吟遊詩人に化けて潜入する訓練を受けているのかしら。

この国の教育、奥が深すぎますわ。


そのとき、ふと気づく。

……そういえば―― わたくし、何も不思議に思わず「ニホン」語を使っていますわ。

今気づきましたが、授業でも問題なく文字も文法も、理解できています。


黒板の文字も、教師の言葉も、沙織の話す内容も。 すべてが自然に頭に入ってくる。

……なぜ気づかなかったのかしら?よほど無意識ということですわね。

やはりこの身体は紫音のもので、そこにわたくしが入り込んだ?

精神体のみが、こちらの世界に転移したということ……?


教室の歌声が、窓の外へと軽やかに流れていく。

配られた歌詞カードには、英語と日本語訳が並んでいた。

ビオラはそれを見つめながら、自分の“存在”について、深く考え始めていた。


四限目は古文だった。

開いた教科書のページは、「平家物語 木曽の最後」。

教室に朗読の声が響く中、ビオラは静かに涙を流していた。


……なんと、気高く、潔いお方。 義仲様と巴御前様の悲恋なのね。

また、巴御前様、実にあっぱれな武の方ですわ。

甲冑をまとい、敵をなぎ倒す、その姿。胸が熱くなる。

いざとなれば、公爵家の者として、わたくしも領民を率いて戦場に立つ覚悟はございます。

見習いたいものですわね。


古典とは、時間を超えて語りかけてくるもの。

そこに宿る精神は、時代が変わってもなお、心を打つ。

……学ぶことは、実に多いですわ。

わたくしの場合は……時間どころか、世界すら超えてしまいましたけれど。


ふと隣を見ると、予想通り男性が、またも机に突っ伏して眠っていた。

……この方、すべての授業で眠っておられますわね。

いえ、英語の時間だけは起きておられましたか。

歌だけは、しっかり歌っておられましたものね。


ビオラはそっとため息をつく。 その横顔に、少しだけ呆れ、少しだけ微笑む。

……この「コウコウ」とやら、やはり奥が深いですわ。


充実した午前の授業が終わり、昼休みのチャイムが鳴った。

沙織がすぐに声をかけてくる。

「紫音、学食いくでしょ?」

「はい、もちろんですわ」


ビオラは少し得意げだった。

朝、美咲から「昼食は学食で買える」と教わり、必要なお金も預かっている。

「ガクショク」――それは、この施設内にある食堂のこと。

そこで昼食を買って食べるのだとか。

わたくし、街の食堂というところも行ったことがございませんでした。

とても楽しみですわ。


沙織が急かすように言う。

「さあ、行くわよ!」

「ああ、お待ちになって」

ビオラはスカートの裾を軽く押さえながら、沙織の後を追った。


初めての“学食”という舞台へ、胸を高鳴らせながら。

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