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月曜日の朝。 ビオラはスマホを片手に、静かに通学路を歩いていた。

今日から高校に復帰する。 美咲は心配して付き添うと言っていたが、ビオラは丁重に断った。

13歳でデビュタントを済ませた公爵令嬢としては、16歳にもなった娘が親に付き添われるなど――

……さすがに恥ずかしゅうございますわ。


ただ、通学路が分からないという問題があった。

従者でもいればよかったが、花城家には使用人が一切いない。

プリンなる高尚な甘味を惜しげもなく毎朝食卓に出してくるあたり、平民にしては裕福に見える。

しかし、自分のことは自分でする主義の家らしく、贅沢に流されず慎ましい暮らしを保っているようだった。


……裕福となっても、平民としての節度を忘れぬとは、感心いたしますわ。

やはり贅沢に慣れすぎるのは身を滅ぼすもと。精進いたしましょう。


途中、歩道橋が見えてくる。 あれは、紫音が事故に遭った場所だった。

……あれは確か「ホドウキョウ」。 ここから紫音は落ちたのね。

よく大怪我をしませんでしたわね……粗忽者だけれど、運は良い方?


橋の階段を前に、ビオラは一瞬だけ足を止める。

……少し緊張いたしますわね。


とはいえ、足取りは乱れず、何事もなく通過した。

高校までは徒歩で20分ほど。 迷うことなく校舎が見えてくる。


そのとき、背後から女性の声がかかった。

「おはよう。美咲。身体は大丈夫?」

ビオラは振り返る。

声の主は、見覚えのない若い女性だった。

誰なのかは分からない。 だが、挨拶は大事。

ビオラは優雅な微笑みを浮かべて、丁寧に返す。

「おはようございます」


女性は目を見開き、戸惑ったように立ち止まった。

「えっ……」

その反応に、ビオラは静かに首を傾けた。


「ああ、そうだったわね。記憶消失って本当だったんだ。

私の名前は沙織。もー、親友の名前、忘れないでよね」

沙織は笑いながら、少し肩をすくめるようにして言った。


ビオラは一礼し、丁寧に感謝を述べる。

「沙織様、色々とありがとうございました」

沙織は一瞬きょとんとした後、くすっと笑って首を振った。

「沙織様って。なんか後ろから見てたら歩き姿も綺麗だったし、本当に別人みたいね。

まあいいわ。教室も忘れてるんでしょ。同じクラスでよかったわ」

「よろしくお願いいたしますわ」

「ああ、このノリ続くのね。それより、病院に運ばれて、あれから連絡もないし心配したよ。

っていうか、チャモ確認してる?」


沙織は軽くビオラの腕を引き、スマートフォンを取り上げる。

操作に慣れた手つきで、紫音のChattomoの履歴をスクロールしていく。


沙織は紫音の小学校からの親友だった。

紫音が事故に遭ったのは、沙織との下校時。

話しながら歩いていた最中、突然姿が消え、振り返ると歩道橋の下に倒れていたという。

沙織はすぐに救急車を呼び、付き添ってくれた。

美咲にもすぐ連絡してくれたおかげで、二人は病院で落ち合い状況説明ができ、混乱は最小限に抑えられた。

……まさに、できる方ですわ。 紫音がこの方を親友と呼んでいたのも、納得ですわね。


Chattomo、通称チャモは、スマートフォンを使って会話したり、文章を送ったりできる通信手段。

画面には、沙織との過去のやり取りが並んでいた。

……こんなもので遠くの人と自由に情報交換ができるなんて、革命的ですわ。

やはり「ニホン」は、あなどれない大国ですわね。


沙織は画面を見ながら、少し苛立ったようにぼやいた。

「ああもう、全然既読がつかないと思ったら、何も見てないじゃん。もー」

校門をくぐりながら、沙織の親しみと頼もしさが、ビオラの心に沁みた。

校舎に入る前、沙織はスマートフォンをビオラに返す。

「これからはすぐに確認してね」

「善処いたしますわ」


二人は校舎の中へと歩き出す。

ビオラは一歩遅れて、沙織の背を見つめながらついていく。

……親友というのは、こうして自然に手を差し伸べてくださるものなのですわね。

紫音の記憶はなくとも、わたくしは――この方の好意に応えたいと思いますわ。


教室までの道は、沙織の案内に任せて進んでいく。

その背中に、少しだけ安心の色が灯っていた。


教室は一年二組。

沙織の背を追って、ビオラは校舎の廊下を進んでいく。

「コウコウ」とは、三年間の修行期間があるという。

……中々丁寧に訓練してくださるのね。

それともここは、国の中枢を担うエリートの集団なのかしら。

たしか近衛騎士団の養成所も三年だったかと記憶しておりますわ。


気持ちを切り替えて、沙織の後ろに続いて教室に入る。

その瞬間、教室の空気が変わった。


紫音に注目が集まる。

無理もない。入学して二月も経たぬうちに事故に遭い、入院していたのだ。


ビオラは気合いを入れる。

これまでの淑女教育の真髄を見せるのは、まさにこの瞬間。


視線が集まるのを感じながら、静かに息を整える。


右足を半歩引き、左足に重心を乗せる。

両手はスカートの両端に添え、指先まで神経を通わせるようにして、ゆるやかに広げる。

背筋はまっすぐに、顎はほんのわずかに引いて。

そして、上体を優雅に傾ける。

そこに静かな微笑みを添えて。

何千回と鍛錬を重ねて研ぎ澄まされたカーテシー。


それは“敬意”と“品位”を込めた、ローゼンブルク公爵令嬢の真骨頂。

かつて社交界で“氷の薔薇”と呼ばれた、神々しいまでの佇まいであった。


スカートの裾がふわりと揺れ、光を受けて柔らかく波打つ。

一瞬、薔薇の香りが漂ったような錯覚すら生まれる。


そして、静かに言葉を紡ぐ。

「皆様、ごきげんよう。またお会いできて光栄ですわ」


教室の空気がざわめく。

「へっ……」

「ええっ……」


誰もが言葉を失い、ただその姿に目を奪われていた。

――わたくし史上、もっとも優雅なカーテシーであったと、後に振り返ってビオラは思う。


ざわめきが続く中、教室の奥から声がかかった。

「紫音、無事に退院おめでとう。映画のワンシーンみたいだね。何か元ネタがあるの?」

沙織がこっそり耳打ちしてくれる。

声の主は、朝比奈颯太。サッカー部に所属しているという。

この方と、あと冬木悠真という方が、紫音がよく話していた男性だそう。


……あらあら、紫音も隅におけませんわね。


颯太が明るく、そして軽やかに話しかけたことで、張り詰めていた教室の空気がふっと緩んだ。

沙織が颯太に向き直って挨拶する。

「もう、紫音がこんな冗談をするなんてね。颯太も乗らないでよ。おはよう」

「おはよう、沙織」

二人が話し始めると、教室のざわめきが少しずつ収まっていく。

……何かよく分かりませんけれど、受け入れられたようですわね。


沙織が手で招く。

「紫音、席はこっちだよ」

案内されるままに席につく。


そのとき、一人の女性が近づいてきた。

「花城さん、大丈夫?心配したよー。歩道橋から落ちるなんてさー」

「ご心配ありがとうございますわ。この通り、わたくしどこも怪我はございません」

女性は一瞬きょとんとした後、首を傾げる。

「へっ? 花城さんってこんな感じだったけ?

まあ、いいや。それより例のオーディション、どうだった?結果来た?」


……ああ、この方が応募なされたのですね。

ビオラはじっとその女性を見つめる。

視線を受けて、彼女はわずかにたじろぐ。

「なっ、何よ?」

そのとき、沙織が声をかける。

「やめなよ、玲奈。紫音が困ってるでしょ。ホームルーム始まるわよ」

玲奈は席へと戻っていく。


沙織がそっと耳打ちしてくれる。

「彼女は神崎玲奈。美容の知識が豊富で、このクラスの女子のリーダーだよ」

視線の先には、華やかに着飾った女子がいた。

たしかに、他の方々と比べて装いは目を引く。 けれど――

……もう少し色遣いにテーマを持たせた方がよろしいかと。

重ねるだけではなく、引き算も大事ですわよ。


自然と、かつて“社交界の華”と呼ばれた頃の思考が顔を出す。

色彩の調和、素材の選定、立ち姿の余白―― それらを瞬時に見極める癖は、身体に染みついていた。


それよりも―― お声がけいただいた瞬間、胸の奥が少しだけざわめいた。

……あの感情は、緊張。 紫音は、あの方を苦手としていたのかしら。


扉が開き、教師が入ってくる。

教室の空気は、ざわめきを残しながらも、静かにホームルームへと向かっていく。


その中で、ビオラは席に腰を下ろしながら、ふと考える。

……この未知なる「コウコウ」とやら―― どのような修練の場なのかしら。

わたくし、少しだけ……ワクワクしておりますの。

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