23
「行ってまいりますわ!」
澄み渡る朝の空気に、ビオラの快活な声が溶けていく。
今日はどんなドラマが待ち受けているかしら――。
期待に胸を膨らませ、彼女は羽が生えたような軽い足取りで家を出た。
通学路の途中で、親友の沙織と合流する。
しかし、いつもと違って沙織の表情には、どこかモヤモヤとした影が差していた。
「沙織、ごきげんよう」
「あ、うん。おはよう、紫音。
……あのさ、やっぱり気になって夜も眠れなかったんだけど」
沙織はこらえきれず、昨日ビオラが口にした「突拍子もない予言」について食い下がった。
「カツ丼が平和を脅かすって、一体どういうことなの?」
その真意を知りたくてたまらない沙織に対し、
ビオラは人差し指をそっと唇に当て、ミステリアスな微笑を浮かべる。
「沙織、そのお話は放課後までお待ちになって」
「えー、気になる! ……もう!」
結局、謎を抱えたままの沙織も最後はいつもの調子に戻り、二人は軽やかに校門をくぐった。
教室に入ると、そこにはいつもの光景が広がっていた。
悠真が席で静かに本を読んでいる。
沙織が悠真近づき挨拶する。
そのあとに続くビオラ。
「ごきげんよう、悠真様」
「おはよう、紫音」
さらりと下の名前で呼び合う二人の間には、朝の陽光のような甘い空気が流れていた。
少しだけ気圧された沙織はそれを見届けると、そっと胸に手を当てて深呼吸をする。
「……朝からごちそうさま」
今日もいつも通りの学校生活が幕を開けた。
昼休み。
活気に溢れる学食で、ビオラは足を止めていた。
視線の先にあるのは、ショーケースの中の「カツ丼」。
それはまるで見つめてはいけない禁断の果実、あるいは世界の均衡を崩す魔導書を見るような、
悲痛な眼差しだった。
「おっ、今日はカツ丼にするかい?」
厨房を取り仕切るベテラン女性が気を利かせて、ビオラに声をかける。
しかし、ビオラは力なく首を振った。
「……今は、無理なのです」
その寂しげな横顔を見て、女性は戦慄した。
……まさか、お金がないの? それともお家で何か……!?
勝手にビオラを悲劇のヒロイン化する女性を余所に、沙織がビオラの背中を叩く。
「ほら、早く選んで食べようよ!」
結局、ビオラが券売機で買ったのは「きつねうどん」だった。
やっぱり……!
確信した女性は、せめてもの情けにと、ビオラのどんぶりに「かまぼこ」を二個、そっと忍ばせた。
「あ、紫音、かまぼこ二個入ってるよ。ラッキーだね!」
席についた沙織が無邪気に笑う。
ビオラも「本当ですわね」と釣られて微笑む。
六限目、数学。
黒板に並ぶ代数の数式が、ビオラの脳内で怪しく形を変えていく。
x+ay=カツ丼
……この x がカツで、y が卵とじだとしたら……。そして係数の a は割下の濃さ……
ビオラのノートは、数式ではなく「カツ」という文字で埋め尽くされていった。
たまたま隣の席で居眠りから覚めた男子生徒が、そのノートを覗き込んでギョッとする。
数学の授業中に、これほどまでに執念深く「カツ」の文字を書き連ねる女子生徒を彼は見たことがなかった。
「カツ」しか見ていなかった男子生徒は、それを「勝」と勘違いする。
……花城は勝利への執念はすごいや。
やはり、俺に花城のような境地には至れないな
そして男子生徒はまた眠りについた。
放課後。
ようやく訪れた「約束の時間」に、沙織はビオラを引っ張るように連れ立って駅の方へと向かった。
歩道橋を渡り、賑やかな商店街の喧騒を抜けていく二人。
「さて、どうしよっか?」
「たしかこのあたりに、かわいらしいカフェができたらしいですわ」
ビオラが沙織にスマホの画面を見せる。
そこには、アンティーク調の落ち着いた内装が魅力的なカフェの情報が映っていた。
「へえ、たしかにいい感じだね。えっと地図だとこっちだね。
……それにしても、紫音どうやって知ったの? こういうの疎いかと思ってた」
ビオラはアイビスに心の中で感謝しながら、沙織に説明する。
「Ice Dollのメンバーに、カフェの事情に大変お詳しい方がいらっしゃるのですわ」
「そっかあ、もうそんな情報交換までしてるんだ。紫音も立派な業界人だねえ」
たどり着いたカフェは、小さな公園の緑に溶け込むように佇む、まるで森の中の隠れ家のような場所だ。
「いいじゃん」
沙織の高評価に、ビオラの心の中のアイビスがドヤ顔している気がした。
「はい、入りましょう」
木漏れ日が揺れるテラス席を横目に店内へ入った。
二人は紅茶とケーキのセットを注文する。
店員が去り、カップから湯気が立ち上り始めた頃、沙織がついに身を乗り出しました。
「ねえ、紫音。そろそろ教えてよ……『カツ丼の謎』」
「分かりましたわ」
ビオラは、居住まいを正して語り始めた。
Ice Dollにはカツ丼をこよなく愛するメンバーがいること。
彼女が朝・昼・晩と揚げ物を摂取し続けた結果、衣装担当の「美の番人」の逆鱗に触れてしまったこと。
そして今、彼女はライブ当日まで徹底的な食事制限という名の「呪縛」をかけられ、魂が抜け殻のようになっていること……。
「……あはは! なにそれ、面白すぎる!」
沙織はこらえきれず、ケーキを食べる手を止めて爆笑する。
「やっぱ、アイドルも普通の女の子なんだねえ。
でも朝からカツ丼はさすがにやりすぎだよ!
なるほど、彼女の『体型維持の平和』が脅かされてたってことだったんだね」
ひとしきり笑ったあと、沙織はふと笑顔をビオラに向けました。
「ええ。けれども昨日の『指導』とそのあとのメンバーの団結のおかげで、これまでにないほど士気は高まっていますわ。
……例え、その原動力が『カツ丼への執着』であったとしても」
ビオラが優雅にスコーンを口に運んだ、その時だった。
カフェの大きな窓の外、のどかな公園のジョギングコースを、駆けてくる「何か」が視界に入った。
「……っ!? ね、ねえ紫音、あれ何だろ!?」
沙織が目を丸くして窓の外を指さす。
そこには、足首に重りをつけ、半泣きで疾走するサングラスをかけた少女姿があった。
その後ろからは、ロードバイクに跨った女性が、涼しい顔でベルを鳴らしながら追いかけていく。
「紅葉! 脚が止まってるわよ! その脂肪、全部この公園の土に置いていきなさい!」
「鬼ぃー! 先生は鬼ですぅー!!」
二人の絶叫がガラス越しに微かに漏れ聞こえてくる。
ビオラは一瞬でそれがアウラとミーナであることに気づいた。
しかし、ここでIce Dollのメンバーの正体を明かしてはいけない。
たとえ親友の沙織であってもだ。
ビオラはぴくりとも眉を動かさず、静かに紅茶を啜った。
「……あら。随分と熱心にトレーニングされている方がいらっしゃるのですわね」
「すごいスパルタな訓練だね。……もしかして、格闘技の減量かなにかかなあ?」
……あながち間違いではありませんわね、カツ丼という強敵との戦いですから
沙織の推測を聞き、ビオラは内心でつぶやく。
「そうかもしれませんわね。
己の限界に挑む姿というのは、どのような形であれ……胸を打つものですわ」
「いや、胸を打つっていうか、追いかけてる人めちゃくちゃ怖くない!?
あの女の子、無事に生きて帰れるのかな……」
アウラがカフェから漂う焼き菓子の甘い香りに一瞬鼻をピクつかせたが、
ミーナの「加速なさい!」という号令とともに、再び悲鳴を上げながら並木道の向こうへと消えていった。
「さあ、沙織。
わたくしたちは、この素晴らしいティータイムを存分に楽しみましょう。
……これこそが、守られるべき『平和』というものですわ」
「紫音、たまに言うことが達観しすぎてて怖いよ……」
沙織は苦笑しながら、自分のガトーショコラを一口。
沙織は窓の外の地獄絵図を「格闘家の修行」と信じ込んだままだ。
窓の向こうを横切った喧騒はすっかり遠ざかり、店内には再び穏やかなピアノ曲が流れる。
二人は、時折笑い声を交えながら、取り留めない話を続けていた。
沙織はフォークを置き、ふう、と小さく息をつく。
「……なんかさ、紫音がアイドルになってから、私の知らない世界がどんどん増えてる気がするよ」
少しだけ寂しげに笑う親友を見て、ビオラは紅茶を置いた。
「沙織?」
「あ、ごめん! 変な意味じゃないんだよ。
紫音が頑張ってるのは嬉しいし、今日の話を聞いて、アイドルって本当に大変なんだなって分かったし。
……ただ、こうしてゆっくりお茶する時間も、これからもっと減っちゃうのかなって思ったらさ」
沙織は窓の外の公園を見つめた。
放課後、当たり前のように連れ立って歩き、他愛もない話で笑い合う。
そんな日常が、少しずつ形を変えていくことへの予感を彼女は感じ取っていた。
ビオラはテーブル越しに、沙織の手に自分の手をそっと重ねた。
「沙織。わたくしがどこへ行こうと、何をしていようと、あなたはわたくしの大事な親友ですわ」
真っ直ぐな言葉に、沙織が顔を上げる。
「ゆっくりと語り合うことができなくとも、わたくしの心にはいつもあなたとの時間が糧として残っています。
あなたは、わたくしの拙い話に笑ってくださる。
その時間が、わたくしには何よりも貴重なのです」
ビオラは優雅に、しかし確かな体温を伝えるように、沙織の手を握りしめた。
「だから、不安にならないで。
……わたくしたちの絆は、カツ丼の誘惑よりも、ずっと強固なものですわ」
「……紫音」
沙織の瞳に潤んだ光が戻る。
そして、耐えきれなくなったように吹き出した。
「もう! 感動してたのに、またカツ丼混ぜるんだから。
……でも、ありがと。紫音がどれだけ有名になっても、私が一番のファンで、一番の親友だからね」
「ええ。約束ですわ」
二人は微笑み合い、冷めかけた紅茶を飲み干した。
たとえ住む世界が少しずつ変わり始めても、この放課後の温もりだけは変わらない。
「あ、そうだ紫音!ライブが終わったら、そのメンバーの人は『カツ丼』を解禁できるんだよね?」
「そう聞いておりますわ」
「んじゃ、その人をリスペクトして、わたしたちもカツ丼食べようよ。
颯太と悠真も誘ってさ」
思わぬ提案に、ビオラは少しだけ目を丸くしたが、すぐに慈しむような微笑を浮かべた。
「ふふ、それは楽しみですわね」
夕暮れ時のカフェで、二人の笑い声が静かに重なった。
窓の外では、夕闇が静かに街を包み込もうとしていた。
次の日の放課後。
昨日のオフ、沙織と過ごした穏やかな時間は、ビオラにとって何よりの活力となっていた。
「さあ、今日も頑張りますわ!」
校門前に迎えに来ていた圭一の車に、ビオラは気合を入れ直して乗り込む。
「ごきげんよう、マネージャー」
「ビオラ、おはようございます」
挨拶を交わし、後部座席に座る。
その瞬間に感じたのは、重苦しく、それでいてヒリヒリとした「野生の気配」だった。
ゆっくりと横に目を向けたビオラは、思わず息を呑む。
そこにいたのは、「変わり果てた」アウラの姿だった。
「……あ。ビオラ、おはよう……」
アウラが、地獄の底から響くような幽霊の声で挨拶を寄こす。
その頬は削げ、瞳には異様なまでの鋭さと、深い飢餓感が宿っていた。
かつてのほんわかした面影はどこへやら、今の彼女は獲物を狙う飢えた狼そのものである。
「アウラ、昨日は……お疲れ様でした。その随分と雰囲気が……」
「……やっぱり昨日、公園の近くのカフェに見えたのはビオラ……だったんだね。
あのあと、ミーナさんに『まだ余力があるわね』って、公園をさらに五周させられて……」
アウラは力なく笑うが、その鼻腔がぴくぴくと小刻みに震えた。
「今ならわかるよ……。そこの角にある定食屋、あそこはラードを混ぜて揚げてる……。
その隣の蕎麦屋のカツ丼は、出汁をたっぷり含ませて衣をふやかしてるタイプだね……。
……フフ、音と匂いだけで……どこの店か、全部当てられる自信があるよ……」
「アウラさん、それはもはや特技を通り越して、呪術の域ですわ……」
ビオラは戦慄した。
空腹という名の修行は、アウラに恐るべき「嗅覚の覚醒」をもたらしていたのだ。
「……お腹、空いたなぁ。ビオラ、お願い。
今の私の前で『サクサク』とか『ジューシー』なんて言葉は、決して口にしないでね……?
暴走しちゃうかもしれないから……」
「……心得ました」
虚空を見つめるアウラの瞳に、一瞬だけ赤い光が宿ったのをビオラは見逃さなかった。
関わらないようにしようと圭一が静かに車を出す。
事務所へと向かいながら、ビオラは、今日から始まるレッスンが昨日までとは別の意味で
「命がけ」になることを予感し、そっと窓の外を見つめた。
Ice Dollのメンバーがダンスルームでストレッチをしていると、ミーナが、颯爽と現れた。
「みんな揃ったわね。さあ、ライブまでに残された時間は限られているわ!
追い込みを始めるわよ!
今日はフォーメーション移動を重点的に。
脂肪と一緒に甘えも全部燃やし尽くしなさい!」
ミーナの怒号に近い檄が飛ぶ。
「ひいいっ!」とアウラが情けない悲鳴を上げるが、
曲のイントロが始まった瞬間、その場にいた全員が息を呑んだ。
踊り出したアウラの動きが、これまでとは別人のように軽やかだったのだ。
徹底した食事制限と、あの地獄のランニング。
一切の無駄を削ぎ落とされた彼女の体は、羽が生えたように宙を舞い、指先一つひとつのキレが恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
「いいじゃん、アウラ。すごく動けてる!」
ルナがステップを踏みながら素直に感嘆の声を漏らし、アクアも隣で深く頷いた。
「私が自ら指導したのだから当たり前よ!」
腕を組み、満足げに「どやっ」と胸を張るミーナ。
その視線が、ふと隣で焦りを見せるアイビスに向けられた。
「あれ、わたし……アウラに負けてる……?」
愕然とするアイビスに、ミーナが冷ややかな追い打ちをかける。
「そういえばアイビス。
あなたの最近の食生活データを見たら、少し『再教育』が必要な数値が出ていたような気がするわね……」
「大丈夫です! ちゃんと動けます!!」
背筋に冷たいものが走ったアイビスのキレが、恐怖によって跳ね上がった。
「……わたくしも負けてられませんわ!」
ビオラの凛とした声がスタジオの空気を切り裂く。
高貴な意志を宿した瞳が鏡越しにメンバーを捉え、彼女の動きにさらなる気品と鋭さが加わる。
「いいね。私だって魅せてやるよ」
ネージュが不敵に微笑み、ビオラの熱量に合わせるようにダンスのピッチを上げる。
その中心で、ルナとアクアが冷静沈着にリズムを刻み、全体のバランスを完璧に制御していく。
空腹で目が据わり、執念だけで踊るアウラ。
そして、ミーナの指導に震えながら食らいつくアイビス。
――カツ丼への執着。 ――「再教育」への恐怖。 ――そして、最高のステージを届けたいというアイドルとしての矜持。
バラバラな動機はやがて一つに溶け合い、6人の放つエネルギーは巨大な熱量となって「Ice Doll」を強固に束ねていった。
「まだよ! 呼吸を合わせなさい! 限界の先を見せるのよ!」
ミーナの檄が飛ぶ中、全員がヘトヘトになり、床に倒れ込むその瞬間まで、
スタジオの熱気が冷めることはなかった。




