21
翌朝、目が覚めると部屋には明るい光が差し込んでいた。
よほど疲れていたのだろう、アラームが鳴るまで一度も目を覚ますことはなかった。
学校に行く準備を整え、階段を降りていく。
「紫音、おはよう。昨日はお疲れ様。
もう少し寝かせてあげようかと思っていたけど、ちゃんと起きてこられたわね」
母の美咲がキッチンから元気よく声をかける。
父の剛志と兄の陽翔は、すでに仕事に出かけた後のようだ。
美咲と二人で朝食をとり、笑顔で見送られて家を出た。
空気の冷たい清々しい朝だが、昨日の濃密な練習と光一との会話を思い返すと、
どうしても意識が内側に向き、少しぼんやりとしてしまう。
大きな交差点に差し掛かった時、背後から鋭い声が飛んできた。
「紫音、おはよう! またぼーっと歩いてる。
気をつけてよ、あんな事故はもう二度とごめんだからね!」
親友の沙織だ。
かつてこの体の持ち主である紫音が事故に遭ったことを、彼女は今でも深く心配しているのだ。
……事故をしたのは紫音様であって、わたくしではありませんけれど。
……心配をかけるのはよくありませんわね。
ビオラは心の中で一応反省し、沙織と連れ立って学校へ向かった。
教室に入ると、にぎやかな声が迎えてくれる。
「おはよう、二人とも!」
クラスのムードメーカー、颯太が声をかけてくる。
「おはよう」「おはようございますわ」
その後ろでは、悠真がこちらを見て静かに微笑んでいた。
「悠真、おはよう!」
沙織が挨拶する。
「おはよう、沙織」
そして、悠真はどこか戸惑いがち、それでいて少し照れたようにビオラを見て言った。
「おっ、おはよう……紫音」
「おはようございますわ、悠真様」
「へっ?」
沙織の動きがピタリと止まる。
隣にいた颯太にいたっては、今にも目玉が零れ落ちそうになっている。
「えええっ!? お前ら、いつの間にそんな……えええっ!?」
静寂を切り裂くような颯太の叫び声が教室に響き渡る。
「い、いや、そういうのではないよ! 違うんだ!」
悠真が顔を林檎のように真っ赤にして必死に手を振る。
「ふうん……紫音、やるわねぇ」
沙織が、ニヤニヤとした笑みを浮かべながらビオラの耳元で囁きました。
「ええ、青春ですわね」
しみじみと、どこか遠い目をして答えるビオラ。
その余りに客観的な物言いに、沙織は呆気に取られて目が点になる。
「いやいや、当事者が言うセリフじゃないでしょ、それ……」
タイミングよく朝の予鈴が鳴り響く。
ビオラは「さて」と背筋を正し、一瞬で気持ちを切り替える。
かつて帝王学を学んだビオラにとって、授業は、新たな世界を知るための貴重な探求の時間だ。
最後の授業の終了を告げるチャイムが教室に鳴り響くと、
それまでの緊張感が一気に解け、あちこちで椅子の引く音や話し声が上がり始めた。
……ふう。先程の世界史。ローマ帝国の滅亡とヨーロッパ世界の形成、中々学びごたえがありましたわ。
わたくしのいた世界ともどこか通じる気配がありましたが、
この日本から見た『ヨーロッパ』の歴史というのは、随分と新鮮で興味深いものですわね。
聞いていて飽きませんわ。それにしても……
ビオラは、ふと隣の席に視線を向けた。
「ふごっ。……世界の、平和が……」
机に突っ伏していた男子生徒が勢いよく顔を上げた。
机にはうっすらと涎の跡がついている。
「お前、寝すぎだって。さっさと部活行くぞ」
「待てよ、今いいところだったんだから……。ちょっと、置いてくなよ!」
慌てて鞄を掴んで教室を飛び出していく彼らの背中を、ビオラは呆れ半分、感心半分で見送った。
……相変わらず、あの方は全ての授業で寝ておられましたわね。
期末テスト、本当に大丈夫なのでしょうか? そう、テストですわ……
カレンダーを思い浮かべる。
来週には、学生としての本分である期末テストが控えている。
そして、それを乗り越えた直後が、待ちに待った『Ice Doll』のお披露目ライブなのだ。
普通ならば悲鳴を上げたくなるような過密スケジュールだが、ビオラの瞳には不敵な光が宿っていた。
……何事にも全力を尽くす、わたくしのモットーですわ。
公爵令嬢、そして皇太子妃候補として培った集中力や忍耐力、甘く見てもらっては困ります。
最高の成績を収め、そして最高に気高いステージをお見せしましょう。
ビオラが教科書を鞄に収め、凛とした動作で立ち上がると、沙織がひょいと顔を覗かせた。
「紫音、今日もレッスン? なんだか気合入ってるね」
「ええ。ですが、明日はオフをいただいておりますわ。
予定通り、放課後はお茶をいたしましょう」
「うん、楽しみにしてるね。
あ、ほら、マネージャーさんが来たんじゃない?」
沙織が窓から校門の方を指さす。
そこには、いつもの送迎車と、律儀に待機する圭一の姿があった。
「では、行ってまいりますわ」
優雅に会釈をするビオラ。
その所作一つで、放課後の教室が一瞬にして王宮の回廊に変わったかのような錯覚を周囲に与える。
「じゃ、また明日ね!」
沙織に見送られ、ビオラは足早に校門へと向かった。
ビオラが車の後部座席に乗り込むと、運転席の圭一がミラー越しに話し出す。
「おはようございます、ビオラさん。
本日は急遽『衣装合わせ』のスケジュールが組まれました。
セツナさんがすでに到着していて、かなり『温まって』いるようです」
「ごきげんよう、マネージャー。
とうとう、セツナ様にお会いできますのね。楽しみですわ」
圭一は、嵐の前の静けさを楽しむようなビオラの余裕に苦笑しつつ、車を走らせた。
次に停車した場所で、アウラが元気よく乗り込んでくる。
「おはよう、ビオラ!」
「ごきげんよう、アウラ」
アウラは最初こそニコニコしていたが、圭一からこれからセツナに会うと聞かされた途端、
目に見えて顔色を変え、ガタガタと震えだした。
最後の合流地点で、アイビスが乗り込んでくる。
「アウラ、ビオラ、おはよう。あれ、アウラどうしたの?
借りてきた猫みたいに丸まっちゃって」
不思議そうにアウラを見ていたアイビスだったが、
今日の予定が「セツナとの対面」だと聞き、すべてを察してニヤリと口角を上げた。
「ああ、なるほどね。……アウラ、覚悟はできてる?
セッちゃんはね、単に衣装を作るんじゃないの。
その人にはこれしかないってものを形にするのよ。
それはそれは鬼気迫るもんなんだから。
だから、出会ったときに中途半端な気持ちで立ってると、魂が抜かれちゃうかもね」
「ひ、ひええええっ!」
アウラが短い悲鳴を上げ、座席の隅に縮こまる。
「アイビス、お戯れが過ぎますわ」
ビオラがクスクスと笑いながらたしなめる。
「大丈夫ですわ、アウラ。魂は抜かれませんわ。……たぶん」
「へっ? ええっ? やっぱり抜かれるの!? ひええええっ!」
一度は安堵しかけたアウラだったが、ビオラの不敵な付け足しに再びパニックに陥った。
「ちょっと、ビオラの方がひどいじゃん」
アイビスは声を上げて笑いながら、ビオラの肩を軽く叩く。
ビオラは楽しげな色を瞳に宿しながらも、ふと窓の外へと視線を移し、遠い目をした。
……ふふ。かつての王宮の御用仕立屋も、ミリ単位の狂いも許さない冷徹なプロフェッショナルでしたわね。
セツナ様という方は、どのような職人なのでしょうか。楽しみですわ。
圭一は賑やかな後部座席のやり取りに溜息をつきながら、目的地である事務所へとアクセルを踏み込んだ。
事務所につくと、今まで一度も踏み入れたことのなかった、レッスン室の奥に案内された。
衣装合わせのための、広いフィッティングルームだ。
扉の向こうからは、すでに賑やかな声が聞こえる。
「失礼します」
圭一が丁寧にノックをすると、バリトンボイスの声で応答があった。
圭一は扉を開けて、ビオラたちを中へ促し、自身は執務室の方へ戻っていった。
部屋の中は、色とりどりの高級生地や緻密なデザイン画、そして数体のマネキンで溢れかえっている。
そこには先行していたルナ、アクア、ネージュの姿もあった。
「もう、ネージュ、何度言ったら分かるの? 朝のケアは絶対サボっちゃダメ。
肌のコンディションは、衣装の『映え』を左右する一番の土台なのよ」
「ええー、でも眠いしさ。それに一応やってるよ」
「全然足りないわ。若さにかまけて手を抜くと、後で取り返しのつかないことになるわよ」
「へーい」
バリトンボイスの説教に、ネージュが生返事で応える。
ルナとアクアが苦笑しながらそのやり取りを見守っていた。
「来たわね」
ネージュ越しに扉を見たセツナが、ゆっくりとビオラたちに視線を移す。
部屋の中央、仮縫いの布が散乱するトルソーの隣に立つその姿は、圧倒的な存在感を放っていた。
逞しい肩幅、厚い胸板、鍛え上げられた二の腕。
一見すれば格闘家と見紛うほどの屈強な男性の体躯。
しかし、その身には繊細なレースをあしらったジレを纏い、髪は美しくセットされ、顔は最高水準のメイク術によってフランス人形のように完璧に整えられている。
この人物こそが、Ice Dollの美学を形にする天才デザイナー、セツナであった。
「セッちゃん、おはよ!」
アイビスが明るく声をかけるが、セツナの鋭い眼光がそれを一瞬で遮る。
「……アイビス、あなた少しウエストが緩んだんじゃない?
もうすぐライブって自覚があるのかしら。後でたっぷり、最近の食生活の聞き取りね」
「ひっ、お、お手柔らかに……」
流石のアイビスも、その威圧感に一歩後ずさる。
その背後で、アウラはもはや石像のように固まっていた。
セツナは、ゆっくりと新メンバーの二人へと歩み寄る。
その歩調は驚くほど軽やかで、優雅だ。
セツナがじっとアウラを見つめる。下から上まで、まるで精密なスキャナーのようだ。
「あなたがアウラね。……野性味の中に潜む、壊れそうな純真。悪くないわ。
私の衣装で、新たな世界に連れていって、あ・げ・る」
「ひっ、あ、あ、よろしくお願いしますっ……!」
アウラが直立不動で叫ぶ。
そして、セツナの視線がビオラに移動する。
セツナの瞳が、獲物を定める鷹のように細められる。
ビオラは逃げることも、動じることもなく、ただ静かに背筋を伸ばしてその視線を受け止めた。
……ふふ。かつての王宮の御用仕立屋も、とんでもない「目」を持っていましたわ。
この方からも、同じ『職人の魂』を感じますわね。
「ふーん……あなたがビオラね」
セツナはビオラの周囲を、円を描くようにゆっくりと歩きながら観察し始めた。
舐めるような視線が、首筋から指先の角度、立ち振る舞いの癖までを精査していく。
ビオラは完璧な淑女の佇まいでそれを受け流し、静かに口を開いた。
「お初にお目にかかります、セツナ先生。
わたくしの身も心も、今日はあなたに預けるつもりで参りましたわ。
最高の『鎧』を仕立てていただけますかしら?」
ビオラのその言葉に、セツナは足を止めた。
逞しい腕を組み、ふっと赤い唇を歪めて不敵に微笑む。
「……いいわ。その『格』、本物ね。
私の頭の中にあったデザインが、あなたを実際に観察したら粉々に砕け散ったわ。
今すぐ、描き直すわ!」
セツナがバッと近くのテーブルにあったデザイン画を投げ捨て、新しい画用紙を掴んだ。
部屋の温度がさらに数度上がったかのような、凄まじい熱気が立ち上る。
その鬼気迫る様子に、メンバーたちは圧倒され、呆然と立ち尽くしていた。
だがセツナは、手元の紙から目を離さぬまま、鋭い指示を飛ばす。
「何してるのよ! アウラとビオラは、あちらの部屋に行って採寸を始めなさい。
他のメンバーはそっちの部屋に準備してあるから移動して衣装の仮合わせね。
早く動く!」
「は、はいっ!」
ルナが反射的に返事をする。
その声を合図に、どこからともなく6名の女性アシスタントたちが現れ、
流れるような動作でメンバーそれぞれを案内し始めた。
「こっちよ、アウラ、ビオラ。しっかり測らせてね」
「はい、よろしくお願いします……!」
震えるアウラを連れ、ビオラは案内された採寸用の小部屋へと消えていった。
静まり返ったフィッティングルーム。
一人残ったセツナは、猛烈な勢いでペンを走らせる。
だが、その手が不意に止まった。
「……それにしても、あのビオラって子。不思議な存在ね」
セツナは誰もいない空間に向かって、ぽつりと呟いた。
「私の目をもってしても、体格そのものは普通の、どこにでもいる少女にしか見えないわ。
なのに、あの子が発するオーラはなんなの?
経験を積んだ熟練の表現者?
とにかく、体と心が決定的に『ちぐはぐ』なのよね」
セツナの瞳が、鏡に映る自分の姿を見るように鋭く光る。
「……面白いわ。その歪みを、この私が最高の美しさに昇華してあげる。
期待してなさい、光一。とんでもない化け物を連れてきたわね」
セツナの口角が吊り上がり、再び紙の上に激しい音が響き始めた。




