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鏡を見た瞬間、ビオラは言葉を失った。

映っているのは、見知らぬ少女の顔。

――この顔は、誰なのです


そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。

一人の女性が駆け寄り、ベッドに身を乗り出すようにしてビオラを抱きしめる。

「紫音! 良かった……目が覚めたのね!」

状況がまるで把握できない。

けれど、長年の淑女教育が、取り乱さない心を呼び起こす。


ビオラは、微笑みを浮かべ、静かに口を開いた。

「どなた様か存じ上げませんが――この度は、お助けいただきありがとうございます」


女性は、目を見開き、言葉を詰まらせた。

「紫音……どうしたの? その口調は何なの?」

女性は慌ててナースコールを押す。

「どうされました?」

「娘が目を覚ましたのですが……どうも様子が……」

「先生を呼んで、すぐ参ります。どうか落ち着いてくださいね」

部屋の空気が、静かに揺れる。


ビオラは、鏡の中の“紫音”を見つめながら、心の中で呟いた。

――これは、夢?


かけつけた医師が診察する。

いくつかビオラに質問するが、どれも要領を得ない。

白衣の男性が、穏やかな声で告げる。

「どうも、軽い記憶喪失のようですね。 階段から落ちた際のショックが原因かもしれません。

ただ、精密検査では脳に異常は見られませんでしたから

――お母さん、どうかご安心ください」


「……ありがとうございます」

医師と女性のやり取りを、ビオラはぼんやりと見つめていた。

言葉は理解できる。だが、意味が追いつかない。

「紫音、体調は大丈夫?」

「シオン……?」

女性が、そっと手を握る。

「あなたの名前は、花城紫音。私の大事な娘よ」

ビオラは、静かに瞬きをした。

“紫音”――それが、この身体の名なのか。


医師が、優しく言葉を添える。

「お母さん、落ち着いてください。 記憶は、少しずつ戻ってくると思います。

慌てず、いろいろお話ししてあげてください。

――それでは、これで」


「分かりました。 大事なく助かっただけでも……感謝ですものね。

ありがとうございました」

医師と、それに付き従った白衣の女性が静かに部屋を後にする。


残された女性――“母”だという人が、ビオラの方へ振り向いた。

その瞳には、安堵と戸惑いが混ざっていた。

「紫音。お腹、すかない? あなたの好きなメロンがあるわよ」


ビオラは、微笑んだ。 完璧な、感情を見せない微笑みで。

――好きなもの? それは、誰の記憶かしら。


病室で、二、三日が過ぎた。

ビオラは、少しずつ自らの置かれた立場を理解し始めていた。


母と称する女性に微笑みを向けながらも、

ビオラの心の内では別の思考が巡っていた。


……これまでの情報を整理いたしましょう。

ここは……アールバイト王国ではない。

「ニホン」と呼ばれる、別の国。その首都「トウキョウ」。

王がいない? それは、どういうことかしら。

統治者なき国など、秩序はどう保たれているのでしょう?


診察に来た白衣の男性、「イシャ」は、明日には退院できると言っていた。

紫音にとっては喜ばしいことでしょうけれど、わたくしにとっては……不安の方が勝るわ。

この身体で、外に出る? 何が待っているのかしら。


この数日で、ビオラは、いくつかのことを理解した。


……紫音は十六歳。わたくしより二つほど年若い。

「コウコウセイ」だと教えられましたわ。「コウコウ」?……職業訓練機関のようなものかしら。

事故の原因は「ホドウキョウ」なる場所での転倒。

階段から落ちて、意識不明に。

……紫音は、少々粗忽者のようですわね。


母親という方の名は美咲様。

父親は剛志様とおっしゃるようですわ。

剛志様は国外におられるようですが、今回の事故を受けられて、急ぎ帰国する手筈とのこと。

美咲様は、わたくしが目覚めてからも、ずっと付き添っておられました。

……領地の経営は、大丈夫なのかしら。

領主である父親が外務で不在となれば、なおのこと。

これが、お母様だったならば―― わたくしの命より、領地の方が大事とおっしゃったでしょうに。


……それにしても、紫音には侍女がおりませんわ。

数日間、美咲様の所作を観察させていただいておりましたが

…… そうですわね、やはり紫音は平民の娘ですか。


であるならば、父親は外地に出征した兵卒かしら。

勝手に帰国すれば、逃亡兵となるはず。

…… そのあたりの規律は、どうなっているのかしら。

それとも、兵卒ではなく、商人なのかしら?


……いけませんわね。気が逸れてしまいました。

今、最も重要なのは――わたくし自身のこと。

鑑定魔法さえあれば、紫音ではなく、ビオラ・フォン・ローゼンブルクであると証明できるのに。

けれど、今のところ魔法を見かけませんわね。

「ビョウイン」は治療院と同じ機能を持っているようですが、治癒魔法もないようですわ。


ということは「トウキョウ」は本当は首都ではなく辺境の地……なのかしら。

辺境ほど、自らを“中心”と呼びたがるもの。

それは、中央貴族なら誰でも知っていることですわ。

辺境の中心地を勝手に首都と呼んでいるだけかもしれませんわ。


「エムアールアイ」と呼ばれる機械には、「ニホン」の技術力の高さを感じました。

かなりの大国でしょう。

無理やり中に入れられたとき、少し取り乱してしまいましたわ。

……反省しなければ。

公爵令嬢としての品位を、忘れてはなりませんもの。


壁の鏡に紫音の姿を確認しながら、思考を続ける

それにしても、わたくしはなぜ助かったのかしら?

処刑のとき、誰かが防御魔法を唱えていた?

変身魔法で紫音の姿にされ、転移魔法によってこの地に飛ばされたというのかしら?

でも紫音は確かに存在するみたいだし、わたくしがそれに成り代わっている、そんなことが出来る魔法は存じ上げないわ。


……まだ情報が足りませんわね。


思考に耽っていたところへ、声がかかった。

「紫音、明日は退院だから準備してね。お兄ちゃんが車で迎えにきてくれるわ」

「ええ、わかりましたわ」

美咲は、少し眉をひそめて言った。

「まだ、その話し方になれないわね。本当に元に戻るのかしら」


……紫音にはお兄様がいらっしゃるのね。

それに、車で迎えに来ていただける?

魔導車を所有しているということかしら。

そうなると、花城家は平民ではない可能性も出てきますわね。

というか、よく考えると家名を持っている平民というのはおかしい気が。

一代限りの爵位を認められた裕福な人たちなのかしら。

……混乱してきましたわ。

いけませんわね。

今は思考を止めましょう。


ひとまず――退院の準備をいたしましょう。


翌日の午後。

医者と看護師に見送られながら、病室を後にする。

一階へ降りる際に乗った「エレベーター」と呼ばれる機械――

……これもまた、奇妙な装置ですわね。

魔導昇降機のようでいて、魔力の気配はまったくありませんわ。

どうやって動いているのかしら。


病院の入り口を出た瞬間、ビオラは言葉を失った。


高くそびえる建物の群れ。

目にも止まらぬ速さで走るたくさんの車。

そして、あふれるほどの人、人、人。


病室からは中庭しか見えなかったので、ビオラにとっては、これが初めて見る「トウキョウ」の景色。

……辺境とは思えませんわね。

まるで、異世界。


ハッとするビオラ。

……ここはアールバイト王国と本当に同じ世界なのかしら?


「どうしたの?」

美咲が、心配そうに尋ねる。


「いえ、大丈夫ですわ」

微笑みを浮かべて、そう答える。

いけませんわ。

公爵令嬢としての礼節は、忘れてはなりませんもの。


そのとき、一台の車が玄関口に滑り込んできた。

窓が音もなく下がり、運転席から声がかかる。

「おまたせ」

……窓が、勝手に?

見たことのない形ですが、やはり、これは魔導車。

魔力の気配はないけれど、動作はまるで魔法のよう。


車から降りてきた兄という人物は、紫音を気遣うように頭を撫でる。

「俺は陽翔。紫音の兄ちゃんだ。よく頑張ったな」

美咲から、紫音に少し記憶喪失があると聞いていた陽翔は、自己紹介のあと、今年、社会人になったばかりの二十二歳だと続けた。


「なっ……!」

突然、頭を撫でられ、ビオラの思考が真っ白になる。 ――淑女に対して、なんと無礼な。

けれど、動揺は何事もなかったかのように内に収める。

……いえ、考え直しましょう。 歳の離れた、血の繋がった兄妹ですもの。

仲が良いのは、悪いことではありませんわね。


ふと、ローゼンブルク家の面々が脳裏をよぎる。

公爵には夫人が三人。子供は十人。

わたくしはその三女。第一夫人の娘として、地位は高かった。

けれど、家の中では兄弟姉妹といえど、権力争いは避けられなかった。

微笑みの裏に、計算と牽制。 優しさの中に、静かな火花。 それが、わたくしの“家族”だった。

――この人たちは、違うのかしら。

遠い目をして、思考に沈んでいる間に、荷物が手際よく積み込まれていく。


母が扉を開け、後部座席へと促す。

「さあ、乗って」

ビオラは静かに頷き、車へと乗り込んだ。


そして、病院を後にする。


家までの帰り道は、ビオラにとって驚きの連続だった。

見たこともない巨大な建物が、空を突くように乱立している。

至る所に飾られた光る看板が、目まぐるしく点滅している。

人々が手に持つ小さな板――「スマホ」と呼ばれるもの。

先ほど、紫音の「スマホ」を美咲から手渡されたが、どう扱えばよいのか見当もつかない。

魔導具でもなければ、呪具でもない。 ただ、光るだけの板。

……けれど、皆がそれを手放さない。なぜかしら。


そして、巨大な「ディスプレイ」と呼ばれる板に映る、きらびやかな少女たち。

歌い、踊り、笑顔を振りまいている。


……あれは、何?

貴族の舞踏会でも、あれほどの演出は見たことがありませんわ。

まるで、舞台の上の精霊のよう。


その瞬間、胸の奥に微かな感情が灯った。

憧れ――?

わたくしが、何かに憧れるなど……

この気持ちは、何?


日が暮れた頃、やがて、車が邸宅の前に滑り込む。

扉の前には、一人の男性が立っていた。

車から降りた紫音の姿を見るなり、彼は駆け寄ってきて――

抱きしめた。


「本当に良かった……」


……動揺した。

この方が、紫音の父親なのね。


いくら娘とはいえ、妙齢の令嬢を抱きしめるなど――

しかも、泣いている?


涙を流す剛志。ビオラの知る父親の姿とは、まるで違う。

……お父様なら、涙など見せることは決してなかった。それが守るべき貴族の威厳であった。


抱きしめられながら、ビオラはなぜか心が温かくなった。

――何? 父親とは、本当はこういうものなの?これが……“家族”というもの?


ビオラの感情に別の何かが混ざっている気配があった。


その日はあまりにも色々な情報が入ってきて、疲れすぎたビオラは、夕食を辞退し、先に休ませてもらった。

花城家の面々は、退院したてなので、無理のないようにと慮っていた。


一晩が明けて、次の朝。

ビオラは、見慣れぬ部屋で、着慣れぬ寝間着のまま目を覚ました。

「ティーシャツ」と「ズボン」だと美咲に教えてもらった。

ビオラは病院での経験から、すっかり異民族の衣装にも慣れたものだった。


外交の際には、異文化への理解は何よりも大事となる。

ビオラは皇太子妃となるべく、初めて目にするものでも動じず受け入れる心を鍛えていた。

そのビオラにしても、これはどうなのだろうかと思ってしまう。

今着ている寝間着を姿見にうつす。胸元に大きく、白猫が愛くるしいポーズをとって描かれている。

「しろまる」と呼ばれる「アニメ」の「キャラ」だ。


「キャラ」――何度聞いても、理解が追いつかない言葉。

昨晩、美咲より寝間着だと言って、これを渡された。

とまどうビオラの様子に、笑いながら陽翔が言うには、紫音が大好きな存在であり、

「ジョシコウセイ」に絶大な人気を誇るのだとか。


十六歳といえば、家同士が婚約に動き出す年頃。

……その年齢で、子供だましのような絵を好むとは、

……いかがなものかしら。


――そう思っていたはずなのに。


ベッドの隅に、ちょこんと座る“しろまる”のぬいぐるみ。

ふわふわとした毛並み。

丸い目。

小さな手足。


……なぜか、目が合うと、少しだけ心が和らぐ。

気づけば、ビオラは自然と気に入り始めていた。

この感情は、何かしら? 癒し?

ビオラは、しろまるの頭をそっと撫でた。

その柔らかさに、少しだけ、心がほどけた気がした。


「紫音、そろそろ起きたかしら?ご飯できているわよ。顔を洗って降りてきなさい」

階下から、美咲の声が響く。

なんて大声……はしたないわ。

けれど、これがこの家の“朝の合図”なのかもしれない。


「返事は?」

またもやの大声。

……どうやら、返事をしなければならないようですわね。

ビオラは、部屋の扉を開け、階下に向かって腹から声を出した。


「はい、ただいま!」


向かいの部屋から出てきた陽翔が、目を丸くする。

「紫音、そんな大声出せるんだ」

……しまったわ。

美咲から聞いた印象では、紫音は、引っ込み思案でおとなしい性格だったはずですわ。

わたくしの声は、あまりにも“ビオラ”が出ておりました。


赤面しながら、「準備してきます」とだけ告げて、洗面所へと退散する。


階下から、夫婦の笑い声が聞こえる。 剛志の喜びの声が響く。

「紫音の元気な声はうれしいな」


……また声が大きい。 洗面所まで届くその声に、顔色が戻らない。


「紫音まだか?俺も準備したいんだけど」

陽翔が急かす。

「はい、少しお待ちください」

慌てて顔を洗い、軽く髪をとかす。

かつては侍女がしてくれたこと。

けれど、病院での数日間で、ビオラも少しは慣れたもの。


鏡に映る自分の姿――紫音の顔。

その髪を整えながら、ビオラは静かに思う。


……この家の朝は、騒がしくて、温かい。

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