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「あれ、気に入らない?」
動揺を隠せないビオラに、ネージュが不思議そうに尋ねる。
ビオラはすぐに感情を抑え込む。
「いえ、ありがたく頂戴いたします」
ビオラは深く一礼した。
「よろしくね、ビオラ」
今度はアクアが、親しみを込めた笑顔でその名を呼んだ。
アクアの明るい声を聞くと、またビオラの心が大きく跳ねる。
ビオラ・フォン・ローゼンブルク
かつてアールバイト王国で、人々の悪意と罵倒のなか、散っていった「氷の薔薇」。
まさか、異世界の「ニホン」で、しかもアイドルという立場で、公然とビオラを名乗ることになるとは。
……プロデューサーは……なぜこの名前を?
いいえ、きっと紫音から連想されたのでしょう。ただの偶然ですわよね。
ビオラは、必死に自分の心に言い聞かせ、過去の記憶を押し殺そうとした。
しかし、そのコードネームは、彼女の心の奥底に封印していた前世の記憶と誇りを、容赦なく呼び起こす。
……運命が、わたくしにビオラとしての名誉を回復せよと導いているのかしら?
光一は、ビオラが動揺するのも、その名を受け入れるのも、全て織り込み済みであるかのように、ただ静かに微笑んでいた。
光一の説明が終わり、マネージャーの圭一が今後のスケジュール調整を始めた。
「それでは、明日の予定ですが、午前中、ビオラとアウラは、契約の手続きがあります。
さっそく学校を休んでもらって悪いですが、事務所へ保護者の方とお越しください。
こちらから保護者の方に学校への連絡をお願いしていますので、ご安心を」
ビオラとアウラは、緊張した面持ちで頷いた。
「また、午後からはボイストレーニングとダンスレッスンが入っています。よろしくお願いします」
「「はい」」
圭一は手元の資料を確認しながら、既存メンバーに目を向けた。
「ルナとアクアには、明日のビオラとアウラのレッスンに付き添いをお願いしたいのですが……」
二人が頷き、アクアが言う。
「はい、任せて」
「手加減はしないけどね」
ルナが静かに付け加えた。
その言葉には、新メンバーへの歓迎と、プロとしての厳しさの両方が滲んでいた。
圭一は、メンバーの基本的な活動ルーティンについても説明を加えた。
「ルナとアクアは、二人とも22歳の同い年です。
既に大学を卒業しており、今は活動に専念していますから、基本的に一日中レッスンに励んでいます」
次に、ネージュに目を向けた。
「ネージュは20歳の大学生で、学業との両立です。
平日は授業が集中しているため、朝から来られるのは週に1日だけ。それ以外の日は、夕方からの合流になります」
そして、アイビスに視線を送った。
「アイビス(鳥宮雫)は18歳の高校三年生。
ビオラとアウラと同じく、平日は授業があるため放課後からの参加がメインとなります」
「基本ルーティンとして、全員で集まり、振り合わせや歌唱指導を行うのは、土日になります。
平日は時間がバラバラになりますから、それぞれの習熟度に合わせてレッスンを組んでいきます」
圭一は、ビオラとアウラに念を押した。
「基本的に平日の放課後は、私が車で迎えにまいります。
次からはアイビスも一緒です。そのつもりでいてください」
「承知いたしました」
ビオラがうなずき、アウラがつづく。
「はい、よろしくお願いします!」
Ice Dollの活動は、立場の違うメンバーが、緻密なスケジュール管理のもとで動いている。
ビオラとアウラにとって、この厳しい環境が、早速明日から始まる。
見守っていた光一が、全員の視線を集めるように口を開いた。
「さて、これで一通り終わったね。契約手続きや活動コンセプト、それにスケジュール調整もできた」
彼は立ち上がり、メンバーを見渡して柔らかく提案する。
「せっかくだし、親睦をかねてメンバーで施設巡りをしたらどうだい。
レッスン室や控え室、ロッカーなども、よろしくね」
ルナがキャップの下で静かに頷く。
「分かりました」
光一は、新メンバー二人に向き直り、微笑む。
「それでは、アウラ、ビオラ。これからよろしく」
「「よろしくお願いいたします」」
満足そうにうなずくと、光一はマネージャーの圭一に声をかけた。
「天城さん、このあと、ちょっといいかな?」
「承知しました」
圭一は即座に光一の隣に立ち、ルナを見て短く告げる。
「ルナ、それじゃあ、あとはよろしく」
「はい」
光一と圭一は応接室を後にした。扉が静かに閉まる。
「さて、それじゃあ、いろいろ見て回りましょうか」
ルナがキャップを軽く上げ、二人に声をかける。
「あっ、そうそう。二人ともこの後は予定ある?」
ネージュが何気なく二人に尋ねる。
アウラとビオラは顔を見合わせる。
「とくにありません」
「わたくしも予定は空いていますわ」
「じゃあ施設案内はちゃちゃっと終わらせて、歓迎会だね?」
ネージュが嬉しそうにルナに向かって言うと、ルナが不安そうに聞き返す。
「えっ、ちゃんと案内しないと」
リーダー然としたクールなオーラが、急に萎んだ。
すかさず、アクアがルナを落ち着かせる。
「まあ、施設なんて、すぐ理解できるわよ。
光一さんの指示の真意は仲を深めなさいということよ。
えっと、そういえば駅前に新しいカフェが出来てたわね」
「日本初上陸のフランス発のル・シエークル・デ・リュミエールですね。
ビスケットが10種類くらいあって、とても美味しいって評判ですよ。
私、行ってみたかったんだ」
さっきまでのぶっきらぼうな感じはどこへやら、アイビスは高校生らしさを全開にしている。
「えっ名前長っ。よく覚えてるわね」
ルナが思わず引いて言う。
「「えっ?」」
アクアとネージュの声が揃った。
「当然ですよ」
アイビスが言い放つ。
それにアクアとネージュが深くうなずく。
「えっ当然なの?わたし知らない」
ルナは完全に動揺している。
「ルナはリーダーなのに、そんなことも知らないんだ。
やっぱり世代の違い?Ice Dollなら常にアンテナ張っててくださいよ」
「あわわ。どうしよ?若者情報に遅れを取ってる」
ネージュがルナをからかい、ルナは慌て始める。
クールなリーダーという姿はもうそこにはない。
「大丈夫、大丈夫。知らなくても問題ない。ルナは立派なリーダーよ。
あと私たちは22歳、十二分に若いわよ。ネージュ、やめてよね」
アクアが優しくルナを慰める。まるで母親のようだ。
あと年齢については、ネージュに軽く釘をさす。
「これは失礼」
ネージュはぺこりと謝る。
「お茶とお菓子はわたしにお任せを!」
すちゃっと敬礼するアイビス。さっきと全く異なる個性が溢れ出している。
一連の既存メンバーの砕けたやり取りに、アウラとビオラはただ唖然とするしかなかった。
先ほどまでの「氷の女神たち」というオーラはどこへやら。
彼女たちはごく普通の、少し個性の強い若者たちに見えた。
ネージュがアウラとビオラに笑いかける。
「まあ普段はこんなもんだから、気楽にね。でも……」
ネージュの表情が一瞬で真剣になる。
「パフォーマンスは手を抜かない」
「それには練習あるのみ」
ルナも顔を一変させ、リーダーとしての真剣な表情で言葉を続けた。
アクアとアイビスも一瞬で空気を戻す。
「期待してるわよ」
「お手なみ拝見ね」
「頑張ります!よろしくお願いします」
思わず声を張り、頭を下げるアウラ。
……Ice Doll。良いグループですわね。
ビオラは、彼女たちのプロ意識の高さと、その奥に秘めた熱い思いを感じ取った。
「よろしくお願いいたしますわ」
ビオラはアウラに続き、優雅に頭を下げた。
「それじゃあ、まずはここから」
アクアが先導し、施設案内が始まった。
「ここがボイストレーニング室。個人レッスン用ね。
この隣に同じ広さがもう一つ、それと皆で合わせるための広めの部屋がもう一つあるわ」
「充実していますね」
感心するアウラ。
「ええ、歌は、みんなに気持ちを届ける大事な仕事だもんね」
ネージュがいう。
「ちょっと声出してみる?いい感じで響くよ」
イタズラっぽくいうアイビスが、室内に設置されたマイクを指差す。
「ちょっとやめときなさい」
たしなめるルナ。
「いいんですか?」
無邪気に返事するアウラ。
「どうぞどうぞ」
悪ノリするネージュとアイビス。
「ちょっと!」
「まあいいじゃない。けどレッスンじゃないから本気で声出しちゃダメよ。
声の状態を管理するのも大事な私たちの義務よ」
止めようとするルナに、アクアがフォローを入れた。
「はい、肝に銘じます」
「……では、さっそく」
アクアが室内灯のスイッチを入れ、アウラがブースの中に入る。
他のメンバーはガラス越しに設置された音響ブースから見守る。
「んーんーんー」
アウラはハミングで声の調子を確かめた後、一度深呼吸をした。
「では行きますね」
アウラが深く息を吸い込み、次の瞬間、その小さな体躯から圧縮された音の塊が放たれた。
「あーあーあああーーー!」
彼女の声は、単なる音量ではない。
高密度のエネルギーとなって、ボイストレーニング室の分厚い防音壁を震わせ、空気をビリビリと振動させる。
ガラス越しで見守るメンバーの鼓膜だけでなく、皮膚すらも震わせるような、物理的な圧力だった。
密閉されたはずの空間に、一瞬にして熱気が満ちる。
まるで、彼女の声そのものが小型のジェットエンジンのように、周囲の空気の流れを一変させたかのようだ。
ガラス越しに立つ誰もが、息を呑んだ。
「やばっ、ていうかマイクのスイッチ入ってないのに」
アイビスは、自分の体が硬直するのを感じた。
「わおっ!」
ネージュのクールな目元が一瞬緩み、普段のからかいを忘れて素の驚きを露わにする。
ルナとアクアは顔を見合わせたが、その瞳には感嘆と、わずかな戦慄が浮かんでいた。
……アウラさん、なんて力。これは負けてられませんわね。
ビオラは、かつて宮廷のホールで聴いた、荘厳なオペラを凌駕する、剥き出しの「熱」を感じた。
それは、技術や訓練で獲得できるものではなく、才能そのものが持つ爆発力だった。




