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エンタメ施設「アクティブ・ステージ」。
卓球に、ダンスゲームに、プリクラに。
4人は思いきり遊び尽くして、笑い声が絶えなかった。
ビオラも、心から楽しんでいた。
こんなふうに笑える日が来るとは―― ほんの少し前までは、想像もしていなかった。
夕方、空が茜に染まり始めた頃、帰る時間がやってきた。
駅前で、颯太が手を振る。
「紫音、明日頑張れよ!」
悠真も、静かに微笑んで言った。
「……応援してるよ」
「ありがとう。……とても、心強いですわ」
二人と別れ、沙織と並んで歩く帰り道。 いつもの交差点で、自然と足が止まる。
信号が赤に変わるのを待ちながら、沙織は、まっすぐにビオラを見つめた。
「紫音なら、大丈夫。明日、思いっきり輝いてきて」
ビオラは、目を細めて微笑んだ。
「……ありがとう、沙織。 あなたの言葉が、わたくしの魔法ですわ」
信号が青に変わり、二人はそれぞれの道へと歩き出す。
家に帰ると、玄関の扉が開いた。
「おかえり、紫音!」
笑顔の美咲が出迎えてくれる。 その後ろから、剛志と陽翔が顔をのぞかせた。
「おかえりー!」「おかえりなさーい!」
「ただいま戻りましたわ」
リビングに入ると、テーブルの上には、ふわふわのオムライスが並んでいた。
「それじゃあ、夕飯にしましょ」
……やっぱりオムライスでしたわね。 でも――嬉しいですわ。
「花城家の勝負飯!これを食べて明日、頑張ってね!」
ビオラは、ふっと微笑んだ。
「頑張りますわ!」
その笑顔には、紫音も重なり、素敵に輝いていた。
この家の空気が、少しずつ“居場所”になっていくのを、ビオラは確かに感じていた。
窓から差し込む朝の光が、カーテンの隙間を縫って部屋をやさしく照らす。
ビオラは、静かに目を開けた。
今日はオーディション当日。
胸の奥に、かすかな緊張が宿っている。
ベッドから身を起こし、鏡の前に立つ。
髪を整え、深く息を吸い、紫音の瞳を見つめる。
その緊張を、少しずつ決意へと変えていく。
……わたくしは、紫音として、この世界で生きる。今日はその大きな一歩ですわ。
鏡の横の台にちょこんと座る、しろまるが微笑んでいる。
……少し気負いすぎかしら。……やっぱり、しろまるは可愛いですわね。
不安がないわけではない。
けれど、それ以上に――覚悟がある。
表現力審査では、ダンスを披露するつもり。
ビオラはジャージに着替えながら、上着の袖に腕を通し、そっと呟いた。
「よし。わたくしのできる限りのことをいたしましょう」
階段を降りると、キッチンからは美咲の朝の支度の音。
リビングからは、剛志と陽翔の笑い声が聞こえてくる。
「おはようございます」
「おはよう、紫音。準備はできてる?」 「今日は父さんが送っていくからな」
家族の声が、心をほんの少し軽くしてくれる。
「おはよう、紫音。しっかり朝ごはん食べてね」
「「「「いただきます」」」」
紫音は、家族に包まれながら、ゆっくりと気持ちを整えていく。
緊張はまだ確かにある。けれど、それは“早く審査を受けたい”という気持ちの裏返し。
美咲と陽翔に見送られながら玄関を出る。
車に乗り込む前、扉の前でふと振り返り、そっと微笑む。
「行ってまいりますわ」
車が、オーディション会場となるビルの前で静かに停まった。
ブルーローズプロモーション――俳優、アイドル、モデルを世に送り出す、新進気鋭の芸能事務所だ。
「着いたよ、紫音。準備はできてる?」
「はい、大丈夫ですわ」
「よし。中までついていくと迷惑になっちゃうから、お父さんは近くで時間を潰しておくよ。
終わったら連絡してくれる?」
「分かりましたわ。ありがとうございます」
「とりあえず、やりたいこと、思い切りよくね。楽しんで」
「はい!」
車を降りて、玄関口に立つ。
銘板に刻まれた「Blue Rose」の文字が、目に飛び込んできた。 ……よし。
白を基調としたロビーには、緊張と期待が入り混じった空気が漂っている。
紫音は受付を済ませ、控室へ向かう途中でふと足を止めた。
壁の掲示スペースに目を向ける。
そこには、一枚のアイドルグループのポスター――“Ice Doll”。
今回のオーディションは、その新メンバーの募集だ。
応募を促すポスターでは、四人のメンバーが、無表情ながらも強い意志を宿した瞳でこちらを見つめている。
そして、中央にはぽっかりと空いた空白。
そこに入るのは――
……わたくしですわ!
そのとき、背後から足音が近づいてきた。
「……どうかされましたか?」
振り返ると、そこには黒のジャケットを羽織った男性が立っていた。
整った顔立ちに、冷静な眼差し。 けれど、その瞳の奥には、何かが揺れていた。
「花城紫音と申します。Ice Dollの追加メンバーオーディションを受けにまいりましたわ。
どうぞよろしくお願いいたします」
ビオラは、軽く頭を下げた。
さりげなくも洗礼された所作に、彼は、少しだけ目を細めた。
「……ご丁寧にどうも。審査前ですからね。
失礼ですが名乗らずにおきます。控え室はあちらですよ」
丁寧に礼をいい、控え室に向かって、ビオラは一歩、静かに歩を進める。
足音はほとんど響かず、まるで空気に溶け込むようだった。
背筋はまっすぐに伸び、肩の力は抜けている。 けれど、その歩みには確かな意志が宿っていた。
控え室の前で立ち止まり、そっと深呼吸。
指先が軽く胸元に触れ、心を整えるように一瞬だけ目を閉じる。
そして、静かに開いた扉を抜けて中へと消えていった。
男性は、その場を動かず、ビオラの一連の動きに目を奪われていた。
ただ歩いているだけなのに、なぜか目が離せない。
その所作の一つひとつが、まるで舞台の上の演技のように洗練されていた。
――あの子は、何者なのか。
彼は胸の奥に、言葉にならない違和感と期待を抱えながら、ゆっくりとその場を離れた。
室内に入ると、空気が一瞬、肌に張りつくように感じられた。
白を基調とした壁に、淡いグレーのソファが並び、中央には長テーブル。
ペットボトルの水と簡易な資料が、整然と並べられている。
数人の候補者たちが静かに座っていた。
音楽を聴いて集中する者、目を閉じて呼吸を整える者。
緊張が支配する空間――それは、夢を追う者たちの静かな戦場でもあった。
紫音は、部屋の中央へと歩を進める。
誰もが遠慮して座らなかった一脚の椅子。
彼女は躊躇なくそこに腰を下ろした。
ぽっかり空いていたその場所に、紫音がすっと収まる。
まるで、最初からそこが彼女の席であったかのように。
背筋を伸ばし、膝の上に手を重ねる。
その姿は、まさに公爵令嬢の風格を宿していた。
壁際に控えるスタッフが、思わず目を留める。
「あの子、堂々としてるわ……でも礼節も失っていない。なんていうバランス力」
貴族としての品格が、自然な所作に滲み出ていた。
時計の針が、静かに時を刻む。 その音だけが、控え室に響いている。
候補者たちは、それぞれの方法で緊張と向き合っていた。
その中で、紫音は静かに周囲を観察していた。
ふと、隣の少女がペットボトルを手にした瞬間―― 指が震え、ボトルが床に落ちた。
乾いた音が控え室に響き、少女は顔を赤らめて俯く。
ビオラは誰よりも早く反応した。
滑らかな動作で腰を少し浮かせ、手を伸ばしてボトルを拾い上げる。
その所作は、まるで舞踏会で落とした手袋を拾うような、優雅で無駄のない動きだった。
「どうぞ」
微笑みながら差し出す紫音の手には、気品と温もりが宿っていた。
少女は驚いたように顔を上げ、戸惑いながらも受け取る。
「……ありがとうございます」
「お互い、頑張りましょうね」
その言葉に、少女の表情が少しだけ和らいだ。
ビオラは再び席に戻り、何事もなかったかのように背筋を伸ばす。
彼女にとって、“場を整える”ことは、自然な振る舞いだった。
目を閉じ、深く息を吸う。 審査の時は、もうすぐだ。




