序章
――その日、王都は歓喜に包まれた。
氷の薔薇が散った。
悪の根源が、この世から消えたのだと。
王宮の裁判の間。
純白の柱が並び、天井には天秤を掲げる神のフレスコ画。
誰もが息を呑む荘厳な空間。
だが今日、主役は芸術ではない。
断罪の舞台に立つのは、ひとりの令嬢――
ビオラ・フォン・ローゼンブルク
公爵令嬢にして、社交界の華。
その姿は、まるで氷で彫られた彫像のよう。
完璧な微笑み。一糸乱れぬ姿勢。
誰もが近寄りがたい孤高の華は、いま踏み躙られようとしていた。
裁判の長を務めるは、アールバイト王自ら。
わずか二週間の審理を経て、本日、ついに判決の時を迎えた。
そばに控える魔導士が拡声の魔法を唱える。
ビオラを見下ろす王が、ゆるやかに口を開く。
「ビオラ・フォン・ローゼンブルク。
そなたを――有罪とする。
罪状は、度を超えた贅沢により、国を疲弊させたこと。
一輪の薔薇のため、北方より氷を大量に輸送。費用、三千万ゴールド。
華美な茶会の連続に、二千万ゴールド。
百を超えるドレスの総額、一千万ゴールド。
――合計、六千万ゴールド」
貴族席がざわめく。
「わざわざ氷を運んだ……氷魔法で賄えないものを欲するなど」
「まだ王太子妃候補にすぎぬ身で……社交に国庫金を遣うとは」
「恐れ多い」
「なんたる所業か」
王は静かに手を掲げ、沈黙魔法で貴族たちの声を制す。
「鎮まれ」
判決が続く。その声は冷たく、感情の色を一切帯びていない。
「ビオラが一年で費やした国庫金は、国民への施策予算の五割に相当する。
飢饉が蔓延るこの国において、民の怒りは頂点に達している。
……よって、死罪とする」
今度は平民席が騒然となる。
「私たち国民を何だと思っている!」
「この悪魔め!」
「それだけの金があれば、娘は……許せない!」
通常、貴族の裁判に平民が立ち会うことは許されない。
だがこの裁判は、王家の“配慮”により、異例の一般公開となっていた。
王の脇に控えた王太子のレイハルトが、静かに一歩前へ出る。
その声は、冷ややかで揺るぎなかった。
「ビオラ。 そなたは将来、王太子妃となる身でありながら、
再三の忠告にも耳を貸さず、国民の苦しみに目を向けることもなかった。
悔い改める機会は、幾度も与えた。
――そのツケが、今ここに回ったのだ。
処刑に先立ち、婚約を解消する。
アールバイト王家は、そなたとは一切関係ない」
そして、傍聴席に向けて、自ら拡声魔法を唱え、訴える。
「この件に、王家は関与していない。
すべては、ビオラの独断によるものだ」
場に沈黙が落ちる。
その中で、ビオラはただ、王の胸元に視線を置いたまま動かない。
美しく、完璧な姿勢は崩れず、気品ただよう立ち姿を保っていた。
だが、その瞳には、何も映っていなかった。
続いて、ローゼンブルク公爵が口を開く。
その目には、もはや光がなかった。
「ビオラよ。
これまでそなたの求めに応じ、力を貸してきたが……
それは誤りであったようだ。
アールバイト王よ、謹んでお詫び申し上げる。
――そなたはもはや、ローゼンブルク家の者ではない」
守られるべき家族からも見放されたビオラは、しかし、微動だにしなかった。
王妃は、震える聖女リアナの肩を抱きながら、鋭い視線をビオラに向ける。
リアナは神妙な顔で目を伏せていた。
だが、よく見ると――その口元は、わずかに笑っていた。
怒りの目を向ける傍聴者たちは、誰も知らない。
一輪の薔薇――ブルーローズ。
それを求めたのは、他でもない聖女リアナだった。
偽りの「天啓」によって、宝華ブルーローズを欲した聖女。
王家は、それを軽々しく受け入れた。
それは、永久凍土に咲く魔法の華。
維持には大量の氷が必要であり、その手配をビオラに命じた。
外務を担うローゼンブルク公爵家ならば可能――そう判断されたのだ。
リアナは、聖女として国に尽くす自分にとって、
ブルーローズの献上は当然の権利だと考えていた。
王家もまた、天啓を真に信じていたわけではない。
聖女のささやかな贅沢――その程度の認識だった。
だが、ブルーローズに莫大な予算が組まれているという情報が世に出た瞬間、事態は一変する。
怒れる民は暴徒と化し、城下は混乱の渦に巻き込まれた。
沈静化のため、騎士団が出動する事態となり、王家は慌てた。
そのとき、冷静に策を練ったのは――宰相トモエル・クージェ・ウンター。
ローゼンブルクと並ぶ名門、ウンター公爵家の長である。
彼は、王太子妃を輩出することでローゼンブルク家の権勢が高まることを、密かに危惧していた。
顔色ひとつ変えず、好機と見て、ビオラをスケープゴートに仕立て上げることを献じた。
処刑を確実なものとし、民の怒りの矛先を彼女一人に集めるため――
茶会も、ドレスも、記録はすべて誇張された偽り。
トモエルは、宰相としての権限を用い、それらを改竄した。
静かに、冷ややかに。
彼の筆が走るたび、ビオラの罪は積み重ねられていった。
茶会の記録は膨らまされ、ドレスの数は誇張され、氷の輸送はすべて彼女の“私欲”とされた。
それは、王国の秩序を守るための――“必要な犠牲”。
関わる者すべてが、暗い密約の中に身を沈めた。
――これは、冤罪。
けれど、ビオラは何も言わない。
ただ、胸の奥で怒りが渦を巻く。
――
……婚約者であったはずのレイハルトは、真っ先にわたくしを切り捨てましたわ。 もとより、わたくしのことなど好いていなかったのでしょう。 ローゼンブルクの力が王家を凌ぐことを恐れたのかもしれない。
なんて器の小さい男。 あれでは、アールバイト王国の未来も知れたものですわね。王妃さまは今回のことを何もご存知ではないよう。されど、わたくしを睨む目。真実を知ればどう思われるのでしょう。
――
そして、お父様。 ローゼンブルク公爵家が、この件に一切抗議をしないというのは、 つまり、わたくしは切り捨てられたということですわね。 なんて短慮で、保身に走る浅ましいお父様。 宰相の策略に乗せられたことも気づかずに。
……かまいませんわ。 おそらく、ローゼンブルクは近いうちに潰されますわね。 そのとき、正しい判断は何だったのか、お父様はようやく思い知るのね。
ビオラは、すでに、諦めていた。
ただ一つ、心に浮かぶのは、冤罪を晴らそうとした男の結末。 その記憶だけが、胸の奥に静かに悲しみを広げていく。
幼馴染み――リヒト・アイスバーグ侯爵令息。 彼は、ビオラが拘束されたその日、真っ先に声を上げた。 「彼女は無実だ」と、王家に食ってかかり、訴えた。
だが、つい先日、命を落とした。 事故とされたが、ビオラは信じていない。 王家の暗部により、消されたのだと――そう、確信している。
悲しみを押し隠し、ビオラは、ただ微笑んだ。
完璧な、感情を見せない微笑みで。
「……謹んで、従います。
ただ一つ、願いがございます。
この薔薇を、どうか聖女様に」
収納魔法をすばやく唱え、何もない空間から、
氷の薔薇を差し出すその手は、微塵も震えていない。
リアナは一瞬、目を見開いた。
それは、彼女が欲した薔薇。
だが今、それは――「罪の象徴」として差し出された。
王宮の空気が凍りつく。
沈黙の中、王が慌てて命令を下す。
「おい、早く広場へ連れて行け! 刑の執行だ!」
「はっ。おい、こちらに来いっ!」
兵がビオラをせき立てる。
彼女は、ただ静かに歩を進める。
広場には、怒号が渦巻いていた。
集まった群衆が、憎しみと興奮を吐き出す。
そして――処刑の鐘が鳴った。
ギロチンの刃が落ちる音とともに、
氷の薔薇が砕け散った。
――その瞬間、ビオラの魂は解き放たれた。
――
――
――
ビオラは、眩しさに目を開けた。
そこは、真っ白な部屋。
ベッドに寝かされている。
見慣れない天井が、静かに広がっていた。
ゆっくりと瞬きをする。
……助かりましたの?
だが、確かに――あの感触を覚えている。
首に手を当てた瞬間、冷たい記憶が背筋を這い、ぞくりと震えが走る。
……どういうことかしら
ふと、壁に目を向ける。
そこには鏡があった。
映っていたのは――まったく知らない、他人の顔だった。




