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マスカルポーネの味

作者: Xsara

第1章:ローマからの逃避

ピアはローマの喧騒を背に、列車に揺られていた。17歳の彼女は不登校になり、クラスのカースト上位の女子たちの陰に隠れて生きることに疲れ果てていた。情報と噂が渦巻く都市での生活は、彼女の心をすり減らしていた。そんな時、母が提案したのは、ロンバルディア州の田舎に住む祖父のもとへ行くことだった。祖父は伝統的な製法でマスカルポーネを作り、村で静かな生活を送っている。ピアはそれにすがるように、荷物をまとめて旅立った。

ロンバルディアの小さな村に着いたピアは、祖父の家に足を踏み入れた。古い石造りの家は、チーズの熟成庫から漂う乳の香りに満ちていた。祖父は寡黙だが温かく、ピアを笑顔で迎えた。若者の少ない村では、ピアは珍しい存在だった。村人たちは彼女をちやほやし、ピアの心は少しずつ軽くなっていった。ローマでの息苦しさは、ここでは遠い記憶のようだった。



第2章:マヌエルとの出会い

ある日、祖父が使う生クリームを届けに、近所の牧場から少年がやってきた。マヌエル、16歳。ピアと同じく不登校児で、祖父の牧場に身を寄せていた。彼はピアに淡い笑みを浮かべ、牛乳の入った金属缶を渡した。マヌエルの祖父が生産する牛乳は、ピアの祖父がマスカルポーネを作るための命ともいえる素材だった。

最初、マヌエルは祖父に付き従ってやってくるだけだった。だが、やがて「牛乳の品質を確認したい」「牧場の様子を伝えに来た」と、些細な理由をつけてピアに会いに来るようになった。言葉数は少なかったが、マヌエルの静かな眼差しと穏やかな雰囲気は、ピアに安らぎを与えた。二人は同じ虚無感を抱えていた。学校という枠組みに馴染めず、未来に希望を見出せないまま、それでも生きている。そんな共通点が、二人を静かに結びつけた。

ピアはマヌエルと過ごす時間が特別だと感じ始めた。夕暮れの牧場で、牛の鳴き声を聞きながら交わす短い会話。マヌエルの手がピアの手に触れた瞬間、彼女の胸は初めての恋で震えた。



第3章:チーズ作りと別れ

村での生活に慣れ始めたピアは、無為に過ごすことに飽きてきた。祖父のチーズ作りを手伝い始めると、乳を攪拌し、丁寧に時間をかけてマスカルポーネを仕上げる工程に、ピアは生きる意味を見出した。祖父の手さばきはまるで魔法のようで、ピアは彼の技術に憧れた。

マヌエルとの時間も続いていたが、ある日、彼が突然告げた。「料理人になる。ミラノのレストランで修業を始めるんだ」。17歳になったマヌエルは、村を出る決意をしていた。ピアは言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。初恋は静かに終わり、ピアの心にはぽっかりと穴が空いた。

月日は流れ、ピアは祖父のチーズ作りに没頭した。だが、20代半ばになると、祖父の体調が悪化し始めた。ピアはチーズ作りの主役を担うようになったが、祖父の品質には遠く及ばなかった。イタリア各地の高級レストランのシェフたちは、祖父のマスカルポーネを求めてやってきたが、ピアのチーズを試食すると申し訳なさそうに首を振った。「悪くはないんだが…」と。



第4章:再会とマスカルポーネ

30代になったピアは、死に物狂いでチーズ作りに励んでいた。祖父はすでに他界し、ピアは彼の遺した技術と家を守るために生きていた。だが、祖父の味を再現することはできず、契約は次々と失われていった。それでもピアは諦めなかった。毎朝、牛乳を攪拌し、熟成の時間を計り、試行錯誤を繰り返した。

そんなある日、村に懐かしい顔が現れた。マヌエルだった。ミラノで料理人として成功し、自らのレストランを持つようになった彼は、食材を選ぶ権限を手に入れていた。ピアの家を訪れたマヌエルは、彼女のマスカルポーネを試食し、静かに微笑んだ。

「祖父さんの味には及ばないかもしれない。でも、このマスカルポーネには、君の人生が詰まっている。苦労と情熱が、味に深みを与えているよ」

マヌエルはピアのマスカルポーネを使い、リゾットを試作した。完成した皿をピアが口に運ぶと、懐かしい乳の香りとともに、彼女のこれまでの努力が報われた瞬間を感じた。マヌエルは言った。「このマスカルポーネ、俺の店で使いたい」。



終章:新しい一歩

ピアはマヌエルのレストランにマスカルポーネを供給し始めた。祖父の味には及ばないかもしれないが、彼女のチーズはマヌエルの料理を通じて、多くの人に愛されるようになった。村の牧場では、マヌエルの祖父が今も牛乳を生産し、ピアのチーズ作りを支えている。

ある夜、ピアとマヌエルは牧場の丘で星空を見上げた。言葉は少なかったが、二人の間にはかつての恋とは異なる、深い信頼が芽生えていた。ピアは思った。人生は、完璧なマスカルポーネを作るようなものだ。どんなに努力しても、理想には届かないかもしれない。でも、その過程で生まれる味は、誰かの心を確かに動かす。



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