08 キッチンが可哀想
振る舞った夕食は好評だったので、ほっと胸を撫で下ろす。同時に、ささやかな満足感を得られた。
後片付けも終わったので、ソファーでくつろぐユエさんのもとへ向かう。すると、彼女は顔を上げて、申し訳無さそうに笑った。
「ごめんねー、洗い物までやってもらっちゃって」
「いえいえ、このくらい。むしろ楽しかったくらいというか」
「楽しい?」
「やっぱりキッチンは、広いだけで正義ですね」
焼けたアパートのキッチンは、ここの半分くらいの広さしかなかった。狭いと調理だけではなく、洗い物まで手間がかかる。上京してからというもの、ずっとそんな小さなストレスを抱えながら料理をしてきた。
一方、この家のキッチンはなんて広々としたものか。こんな快適な空間があるのかと感動すら覚えるほどだった。面倒なはずの洗い物も、なぜか楽しく感じてしまうくらいに。
だからこそ、どうしても放っておけなかった。
「それでですね、ユエさん」
「なに?」
「最後にキッチン掃除したの、いつですか?」
「……えーっと」
ユエさんの視線が微妙に上へと逸れる。覚えていないわけではなく、明らかにバツが悪そうだ。
しばらく考えた後、なにかを決意したように僕を見据え、凛とした声で言い放った。
「わたしが真面目に料理をしたのは、引っ越してから最初の一ヶ月だけ。それも火を使う料理は、両手で数えられる程度です」
「……それからは?」
「以来わたしは、テイクアウトやレトルト食品、デリバリーをバランスよく活用し、食生活の安定を図ってまいりました。コップを洗う手間を省くため、水分は専らペットボトルから取るよう心がけております」
「すごい最適化ですね」
「ありがとうございます。そして以上のことからおわかり頂けるとは思いますが、わたしがキッチンを日常的に利用する機会は最低限。火元を使うとしても、お湯を沸かす程度です」
「つまり?」
「キッチンを清掃する必要性を感じたことはありません」
「キッチンが可哀想……」
「うっ……」
ぼそりと呟くと、ユエさんが明らかに怯んだ。
汚部屋と呼ぶほど汚いわけではない。ただシンクは水垢でくすみ、使っていない部分にはうっすらと埃が積もっている。気にならない人には気にならないのだろうが、僕は気になる人間だった。
それに――
「床に置いてある、飲みかけのペットボトルの群れはなんですか?」
「あ、それはね、君が眠っている間に片付けたんだよ」
「片付けた……?」
「元々、キッチンの調理スペース? にまとめて置いてたんだけど、テーブルから見えると見栄えが悪いでしょ? だから片付けたの」
「な、なるほど……」
そう言葉にしたものの、納得はしていなかった。
そもそもなぜ飲みかけのペットボトルが、群れとなるほどに溜まっているのか。いや、予想はつく。飲み切る前に新しいものに手を付けた、を繰り返した結果だ。
そうするとまた、新たな疑問が浮かぶ。なぜ、飲みかけのまま放置しているのか。その質問を投げかけると、
「だって、ネットフリックスが面白いから」
という答えが返ってくるだろう。
つまるところ、僕とユエさんの間では『片付ける』という概念が違っているのだ。
しかし僕の片付けの概念を押し付け、ユエさんに行動を促すのもまた違う。それが余計なお世話なことくらいわかっている。
とはいえ、一度はお世話になったキッチンをこのままにするのは忍びない。
「もし余計なお世話じゃなければ、掃除させてもらっていいですか? 一宿一飯の恩ってことで」
「え、それは……助かるけど……」
申し訳なさそうにしながらも、提案自体は悪くないと思ったようだ。内心、あのキッチンの状態はなんとかしなければと感じていたのかも知れない。
「ううん、やっぱりいい。さすがにそこまではさせられないよ。君の言う恩は、しっかり返してもらえてるから」
年上としてのプライドか。考え直したユエさんはかぶりを振った。
ならば、と僕は返しきれていない分を持ち出した。
「昨晩分が残ってますから。それを返させてください」
「昨晩分かー」
そんなものもあったね、とでも言うようにユエさんは苦笑する。
「だったら、お願いしようかな」
そうして観念したように、プライドを横に置いてくれた。
折れてくれたことに安堵した。恩返しできることはもちろんのこと、手持ち無沙汰にならずに済むのが助かった。
ソファーでくつろぐユエさんは、僕が洗い物をしている間は海外ドラマを観ていた。きっと、やることがなくなればその隣に誘われる。そんな予感があった。
僕はそれを避けたかったのだ。
プライベートな空間でユエさんほどの美人と肩を並べて映画を観る。間違いなく緊張するしドキドキする。そしてその様子を悟られたら最後、からかわれて弄ばれる未来が容易に想像できた。
短い時間ながら、既に僕らの間には、そういう上下関係が出来上がっている。
それが不快なわけでも、鬱陶しいわけでもない。苦手というほど嫌なわけでもない。
ではなぜそこまで避けたいのか?
男のプライドである。
誕生日にあれもこれもと失ったが、守り抜きたいものがあるのだ。
だから僕は、しっかりと、じっくりと時間をかけてキッチンの掃除に励んだ。
埃を被ったいかにも高級そうな炊飯器を羨み、
使われている形跡のないビルドイン食洗機を羨み、
ペットボトルばかりの五百リットルサイズの冷蔵庫を羨み、
ろくに活用されていないあれもこれもを、ひたすら羨みながら掃除した。
そして僕は学んだ。
キッチンとは、格差社会の縮図であると。
「よし」
掃除に一区切りつき、その出来栄えに満足していると、
「おー、凄い。ピカピカだ」
いつの間にか隣りにいたユエさんが、パチパチと手を叩いた。
「お疲れ様。まさかここまで頑張ってくれるとは。なんだか悪いね」
「いえ、好きでやったことですから」
とはいえ、ここまで綺麗にしたのだ。
「できるだけ長く、この状態を保ってくださいね」
「ネットフリックスって、ついつい止めどきを見失っちゃうよね」
「ユエさん――」
「あ、そうだ。お風呂沸いてるから、よかったら入って」
「……ありがたくいただきます」
「どうぞどうぞ。ゆっくりしてね」
処置なしだ。
そう諦めながら、促されるがままお風呂へと向かった。