02 おまえが俺の血を引くガキか
雑念を振り払うように、深呼吸をひとつ。
目の前の出来事にこれほど集中したのは、今年度に入ってからこれが一番かもしれない。
精神を研ぎ澄ませるには、今感じている心音があまりに騒がしく――この最後にすべてがかかっているというプレッシャーが、重くのしかかってきた。
嫌な手汗をかく前に、僕は軽く一歩踏み出し、それを放つ。
ドン、と腹の底に響くような鈍い音ともに、それはゴロゴロとを転がっていき――放った瞬間から手応えのなかったその一投は、ピンをかすめることなく、ためらいもなくガーターへと沈んでいった。
「あぁー……」
そして僕の膝も、ガクンと床に沈んでいくのあった。
「ありゃりゃ、残念」
振り返ると、すらっと長い足を組んだコウくんが、健闘を称えるように軽く拍手を送ってきた。形のいい顎を少し上げて、天上に吊られたモニターを見やる。
僕のTOTALの欄には『149』の数字。
「後一本で150だったのに……」
「でも自己ベストだろ? 散々だった1ゲーム目から、大躍進じゃねぇか」
「そうだけどさー……その喜びより、残り一本の歯がゆさのほうが上回るっていうか……」
「どうする? 今の感覚を忘れない内に、すぐに次のゲームいくか?」
「最後の感覚が二連続ガーターだから、休憩する」
「りょーかい」
がっくりと肩を落としながら座る僕と入れ替わるように、コウくんは立ち上がる。「飲み物買ってくるわ」と言い残した言葉に、手振りだけで応じた。
ゴールデンウィーク最終日。コウくんからの誘いに乗って、僕はいつものボウリング場に来ていた。
『いつもの』と呼べるほどには、僕らにとってボウリングが定番だった。
高校生としては、健全な遊びのひとつだ。しかし、大人の女性たちと遊ぶのが日常のコウくんにとっては、逆に健全すぎて違和感すらある。そしてそのことを、本人もちゃんと自覚している。
では、なぜ僕らが遊ぶとき、ボウリングが定番になったのか?
理由のひとつは、僕のお財布事情だった。
苦学生というほどではないが、少なくともコウくんの普通の遊び方に付き合えるほどの余裕はない。だから最初の頃は、休日に誘われるといえば、「たまには外で飯でも食おうぜ」が定番だった。
そこにボウリングが加わったのは、ある日の暇つぶしがキッカケだった。
予定していた店のオープンが一時間送れたため、街をぶらぶらしていると、話の流れでコウくんがぽつりと言った。
「あー、でも、ボウリングはやったことないな」
「本当? なんか意外だね」
「そうか? あんな健全な遊び、大人たちがわざわざ俺としたいと思うか?」
「あ、たしかに」
「遊びに行くダチも、ワカ以外いたことないしな。ボウリングに行く機会も理由もなかったんだ」
「だったら、一度くらい行ってみる?」
僕が何気なくそう提案すると、コウくんが目を丸くし、そのまま呆けたような顔で「なるほど……」と呟いた。
「機会と理由は、こうやって生まれてくるのか」
そしてその日、コウくんは人生初のボウリングを経験した。
それでどっぷりハマった、というほどではなかったが、新しく開いた扉にどこか満足げだった。
僕も小学生のときに一度連れて行かれた記憶がある程度なので、腕は未経験者と変わらない。だからこそ接戦になり、それが僕らの勝負を熱くさせたのだ。
以来、健全に汗をかいたあとにご飯を食べに行く、というのが僕らの定番コースとなった。
「ほら、奢りだ」
「あー、ありがとう」
差し出された瓶コーラを受け取ると、コウくんが隣に腰に腰を下ろす。そのまま一口飲んでから、言った。
「いやー、久しぶりにこうして遊ぶと、健全すぎて浄化されそうだな」
「浄化って……汚れてるって感覚でもあるの?」
「そりゃ、欲も深けりゃ罪も深い大人たちを日々相手してるんだ。身も心も綺麗だなんて、口が裂けても言えやしないよ」
「……どこかで綺麗に生きられたらな、みたいな思いがあったりするの?」
「それはまったくないな」
「即答かー」
「苦労がないとは言わんがな。でもそんなもん、生きてりゃ大なり小なり、誰だって抱えるもんだろ? 人間関係は特にな」
「それはあるね」
地元を出た原因を思いながら、しみじみと僕は頷いた。
「けどな、人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」
「である、って……なにかの格言?」
「『星の王子様』って、名前くらい聞いたことあるだろ?」
「あー、名前だけはね。それの引用?」
「その作者の本に出てくる言葉を引用した小説の、さらに引用だ」
「引用の引用とか、またややこしすぎでしょ……」
「ちなみに、引用元は見たことないから言葉の意図も知らん」
「知らないものを引用の引用して、なにが言いたいわけ?」
「今以上の贅沢は、高校生らしさに埋まってないってことだ」
自分の生き方を誇るでもなく、高校生らしさをバカにするでもなく、ただ等身大の自分の価値観からものを語るコウくん。
だからこそ、ふと気になった。
「だったらさ、なんで高校に通ってるの?」
高校生らしさをまっとうしてるものとして、反発を覚えたわけではない。ただ純粋な疑問だった。
放課後はいつも忙しそうで、休み明けはよく遅刻している。普通の就職する気もなければ、高校生らしい青春を求めているわけでもない彼が、学校に通い続ける理由がわからなかった。
「それはな、まともな高校に通っている、っていうブランディングのためだ」
「ブランディング?」
「いかがわしい大人たちっていうのはな、同じ十六歳でも、中卒無職やフリーターより、高校生に価値を見出すんだ。底辺校より名門校。荒んだ家庭より上流家庭。そうやって、価値は上がっていく」
コウくんは折れ線グラフを描くように、左手を斜めに上げた。
「極端な話、トー横にたむろってるような奴と、名門女子校で『ごきげんよう』って言ってるお嬢様。どっちが市場価値的に高いと思うって話だ」
「あー、はいはい」
そういう話ね、って一発で理解できてしまったことが、これまた微妙な気分になった。
「女に比べて、男はそこまでプレミア感出ないけどな。でも、最低限の付加価値くらいはちゃんと付けとけって、言われてさ」
「言われてって……誰にさ?」
「親父」
「お父さんに!?」
実の父親からそんなことを言われるなんて、どんな家庭環境なんだ――と、ふと気づく。
「そういえば……コウくんの家のことって、ほとんど聞いたことなかったね」
「うちの親父は基本、放任主義だからな。わざわざ話したくなるような愚痴や自慢が生まれないってだけだ」
「親父って言うけど、お母さんはどうなのさ?」
「小四のとき、『あなたを殺して私も死ぬ!』ってノリで、子持ちの不倫相手と電車で砕け散った」
「砕け散ったって……いやいやいやいや……」
あまりにも軽いノリで言うものだから、気持ちがまるで追いつかない。
不倫相手を道連れに電車に飛び込んだ――ということなのだろう。そんなの、年齢に関係なく十分にショッキングな出来事だ。
言葉を探すが、大したことはなにも言えない。
「その……色々と、大変だったんだね」
「いや、むしろ俺の人生はそこから好転したんだ」
「好転?」
「今まで話にしか聞いてなかった親父が突然現れて、『ほう、おまえが俺の血を引くガキか。今は小汚いが、磨けば光るものはあるな。いいだろう。俺が生きる術を叩き込んでやる』なんて言ってな。こうして引き取られた俺は、ネグレクトされていた家庭環境と、この地肌で虐められていた学校生活から脱して――」
「待って待って待って待って。情報量が……濃い!」
つい平手を突き出して、話を止めた。
父親のキャラもさることながら、それ以上にネグレクトやイジメなんて言葉がさらっと出てくるものだから、感情の処理が追いつかない。
少なくとも引き取られる前の過去を掘り下げても、楽しい話にならないのは明らか。僕は好転したあとの話を尋ねることにした。
「じゃあ……お父さんとは、上手くいってるってこと?」
「社会的にはダメ親父以外のなにものでもないが、俺にとってはいい父親だぞ。たとえばゴールデンウィークの中日、休んだだろ? あれ、学校には『親父が所属してる宗教の合宿』って伝えてるから」
「宗教の合宿?」
「中二のとき、ズル休みだろって担任から言われてさ。まあ、そのとおりなんだが、やっぱりうるさいのは、それだけで鬱陶しいだろ?」
「大義がないなりに、言いたいことはわかる」
「だから『親父だったらどう黙らせる?』って聞いたら、『見せてやる』って言ってな。存在しない宗教を作り上げて、『この学校は信仰の自由を軽んじるのか!』って担任を詰めまくって、土下座強要までしたんだ。以来、来光の親父はヤバイってことで、教師たちからはなにも言われなくなった」
「清々しいほど理不尽なモンペだね」
「子どもから見れば、頼もしい父親だぞ」
あっけらかんと語るコウくん。
僕は改めて思った。とんでもない友達を持ったもんだ――と、腹いっぱいになってしまったので、話の深掘りは止めて、次のゲームをスタートさせたのだった。




