06 かしこまりましたお客様
動物病院で診てもらった結果、子猫は生後三ヶ月くらいだと判明した。そして予想通り、お店などで買われた猫である可能性が高いらしい。
捨てられてから長時間放置されていた様子はなく、健康状態も良好。衰弱や病気の心配がないことにホッと胸を撫で下ろしながら、初めてペットを飼うことになるユエさんは、獣医さんの指導を真剣に聞いていた。
動物病院を出る頃には、西の空は名残惜しげに朱色を滲ませながら、東の空は夜の帳を下ろしていた。
「すっかり遅くなっちゃったね」
空を見上げながら、ユエさんはふっと息をつく。
「今日はありがとね、色々付き合ってもらっちゃって。ほんと助かったよ」
「いえ。このくらいのこと」
僕がやったのは、スマホで動物病院とペット用品店を調べただけだ。昨夜、助けられたことを思えば、恩返しと呼べるものではない。
「そもそもこいつは、僕が持ち込んだ問題でしたから」
ユエさんの手にしている、キャリーバッグに目を向ける。
狭い空間の中、子猫は文句ひとつ言わず大人しくしていた。
本当ならば、最初に見つけた僕が助けなければならなかった。それができなかった僕の代わりに、ユエさんがその役目を果たしてくれたのだ。
「ほんと、あのとき拾ってもらえてよかったな」
まるで同意するかのように、子猫が「みゃー」と可愛らしく鳴く。
拾われた者同士、通じ合っているようでおかしかったのか、ユエさんはくすっと笑った。
「帰ったら、美味しいご飯を食べましょうね」
「そういえばこいつ、昨日からなにも食べてないのか」
その割には随分と大人しいな、と思っていると――
「君がぐっすり眠っている内に、ちゃんと食べさせました」
ユエさんは心外だというように目を細めた。
「コンビニって凄いね。ペットのご飯まで売ってるんだよ」
「え、本当に?」
「ほんと、ほんと。この子に食べさせられそうな物、なにかないかなーって探してたら、まさにこれが欲しかった! ってね」
「あったっけ?」
顎に手を添え考える。
コンビニは毎日とは言わないまでも、目を閉じれば商品棚の並びまで思い浮かぶほどには通ってきた。だが、ペット用品のコーナーなんて、見たことがあっただろうか。
脳内で惣菜コーナーを通り過ぎて、弁当の棚を横目で見たところで、
「……うっ」
ぐぅぅ~~っ、とこれでもかとお腹が鳴った。
堪えきれない音が響き、隣からくつくつと笑い声が聞こえてくる。
「帰ったら、美味しいご飯を食べましょうね」
子猫に向けるときの優しい口調で、ニヤニヤとユエさんは僕を見る。
頬に宿った熱をどうこうすることもできず、僕は観念してうなだれた。食事を『ご馳走してもらう』というより、『与えてもらう』立場なのを自覚しているからだ。
だから、こうして黙ってからかわれるのは、その代金みたいのものだった。
「さーて、なに食べようかな」
まるで空に献立の候補が書かれているかのように、ユエさんはゆっくりと見上げる。
一本、また一本と指を立て、四本目になったところで、ふっと口を開いた。
「お寿司でも取ろうか」
「お寿司を、取る……?」
「あ、お寿司、嫌いだった?」
僕の微妙な反応に、ユエさんは小首を傾げて尋ねる。
いや、嫌いなわけながない。道産子の僕は、庶民なりに美味しい海鮮を食べて育ってきた。お寿司なんてものは、それこそ大好物である。
それなのに返答に詰まったのは、ユエさんが『お寿司を取る』と言ったからだ。
スーパーでパック寿司を買うのではなく、わざわざ出前を頼もうとしている。
つまり僕の中に浮かんだのは、『遠慮』の二文字である。
「いやいや、そこまでしてもらうわけには……。もっと簡単なものでいいですよ」
「電話するだけで届くから、簡単だよ?」
「そうじゃなくて……あまり高いものをご馳走になるのは、ちょっと気が引けるっていうか」
「そんな遠慮しなくてもいいのに」
「しますよ。あれもこれも助けてもらってる身なんですから」
「うーん……でもこのまま帰っても、レトルトカレーくらいしかないよ」
「……実はあれもあれで、お高いですよね?」
「まあ、気持ちお高めだけど、遠慮するほどのものじゃないよ?」
「そうなんですか?」
「うん、二千円はしなかったと思う」
「よ、四千弱……」
消化し終えたはずのレトルトカレーが重みを増し、思わずお腹を押さえた。
その反応がツボだったのか、ユエさんはくすっと笑う。
「ごめんね。できるお姉さんらしく、手料理を振る舞えたらよかったんだけど……」
言葉を重ねる内に、ユエさんの声にはどこか自嘲の色が滲み始める。
「ずっとひとつの目標に向かって生きてきたから、料理を覚える機会がほとんどなくてね」
苦笑いしながら、視線を少し逸らす。
「ひとり暮らしを始めたときは、新生活だから頑張ろうって張り切ってたんだけど。気づけばテイクアウトやレトルト、出前ばかりになっちゃって……。その罪悪感に抗うつもりで、サラダだけはスーパーとかで買うようにしてるけど」
そこで小さく息を吐き、肩をすくめる。
「……だらしないよね、わたしって」
そんなことはない、と言いたかった。でも、うまく言葉が出てこない。それを口にしたところで、慰めにすらならない気がしたから。
「ユエさん、その……」
それでもなにか言わなきゃ、と思った瞬間――
「でもさ、しょうがないんだ」
ユエさんは、どこか切なげな声音で言った。
「ネットフリックス、面白いんだもん」
「ユエさん……」
「ぷっ……わはは!」
呆れ混じりに名前を呼ぶと、ユエさんは大笑いした。
「ま、だから気にしないで、お寿司でも食べよ」
ユエさんは目尻を指で拭いながら、さらりと言う。
「それとも君が、ご飯を作ってくれる?」
意地悪そうな笑みを浮かべた、試すような声音。
しかし、それは僕にとって願ってもない提案だった。
「あ、それ、いいですね」
「……え?」
「お世話になりっぱなしですから。キッチンを使わせてもらえるなら、ぜひ作らせてください」
思わぬ反撃を受けたように、ユエさんは目を丸くする。
そのまましばし沈黙し、パチパチと瞬きをしたあと、ようやく言葉を絞り出した。
「料理……できるの?」
「家庭料理なら、一通り」
「店員さーん、オムライスお願いします」
「かしこまりましたお客様」
慣れた声音で応じると、ユエさんはぷっと吹き出した。
僕もつられて笑い、ふたりしてくすくすと肩を震わせた。