06 親の顔より見た第一話
ゴールデンウィーク初日。
バイトを始めるにしても、まずはこっちの生活に慣れてからにしろ。婆ちゃんとカヤちゃんは、口を揃えてそう言った。
知らない土地で、しかも初めてのひとり暮らしだ。いきなり働き始めたって、心も体も追いつかなくなるだけだと。
その一ヶ月が、ようやく過ぎようとしていた。
最初こそ、なにもかも勝手が違って戸惑ったけれど、少しずつこの新しい日常にも馴染んできた。
この池袋をバイト先に選んだのは、最寄り駅から近く、この辺りでもっとも大きな街だからだ。なにを探すにも店に困らず、地元ではお目にかかれないひじりんのグッズを扱うような専門店だってある。
その日、池袋を訪れた目的は、バイトの面接だった。面接は好感触で、その場で採用が決まった。後に、腹部を刺された店長を目撃した現場ともなる、あの店だ。
採用を受け、浮かれ気分で帰る途中、
「折角ここまで来たんだし、と」
ひじりんのグッズを物色しようと寄り道することにした。
池袋は、地元とは比べ物にならない人の多さで溢れていた。この街に来るのは二度目だったが、前回も目的は同じ。それでも、店の場所は覚えていない。人並みに揉まれ、入り組んだ街並みに惑わされ、しかも今日は面接帰りの初見ルートだ。スマホがなければ、たどり着ける気がしなかった。
だから僕は、思い立ったその場で立ち止まり、スマホを開いた。場所は、まさに通行人でごった返す歩道のど真ん中。周囲にとっては、迷惑極まりない存在だったに違いない。
検索をかけ、ルートを確定したその瞬間だった。
「わっ!」
「きゃっ!」
思いがけない衝撃に、僕は後ろによろける。倒れそうになるのをなんとか踏みとどまったが、前方からぶつかってきた女性は、踏ん張りきれずに尻もちをついてしまった。
「す、すみません! 変な場所で立ち止まってて……!」
慌てて手を差し伸べる。女性はスマホをしっかり握りしめたまま、もう片方の手で僕の手を掴んだ。
「いえ、歩きスマホしてた自分も悪いので……あ、すみません、ありがとうございます」
そう言って、僕の手を頼りに立ち上がろうと、彼女は顔を上げた。
「……あ」
見覚えのあるその顔の名を、僕はぽつりと漏らす。
「カグヤ、先輩?」
「ふえっ!?」
彼女は声を上ずらせながら、赤いフレームの眼鏡の奥で、驚愕したように目を見開いた。
なにをそんなに驚いているのだろうか。彼女は学校でも有名人だ。知らない男子から下の名前で先輩と呼ばれても、「ああ、もしかしてうちの高校の子?」くらいに受け止めるものかと思っていたが。
そのとき、なんとなく視界の端に映ったものを、つい口にしてしまった。
「ヒィたんだ」
真っ白な下地に、ヒィコ・ナーヴェが印刷されている。そんなプリントTシャツを彼女は身につけていた。
カグヤ先輩は急に、自らの身体を抱きかかえる。
「ちゃ……ちゃ……」
「ちゃちゃ?」
「ちゃうねん……」
なぜか飛び出してきた大阪弁。動揺しているのは火を見るより明らかだが、その理由まではまだ掴めない。
改めてカグヤ先輩を観察すると、ヒィたんの形跡はそこだけではなかった。被っているキャップは、ヒィたんがデフォルメ化した刺繍がされており、ふたつの缶バッチが光っていた。ショルダーバッグにはヒィたんのグッズが、これでもかとジャラついている。
あの縁遠いと思っていた存在が、急に身近な身近に思えてきた。
「ヒィたん、好きなんですね」
「ちゃ、ちゃうんや工藤……!」
「工藤じゃないです」
レンズの奥で涙目になっているカグヤ先輩に、僕は冷静に指摘した。
パニック状態に陥っている彼女が、なにを理由にそうなったか。ようやく僕は思い至る。
これは、見られたくない姿だったのだ。
よくよく見ると、カグヤ先輩の特徴でもあるターコイズブルーのインナーカラーが見当たらない。後ろで髪をまとめ、見えないようにしているのだろう。
カグヤ先輩がヒィ担(ヒィたんのファンネーム)なんて話、聞いたこともない。きっとこれは隠している趣味で、今日はその趣味を全開にしている、お忍びだったのかもしれない。
そうだとしたら、悪いことをしたかもしれない。
「えっと……それでは、失礼します」
僕はペコリと頭を下げ、その場を立ち去ろうとする。自分のせいで尻もちをつかせた女性を放っておくのは気が引けるが、これもお互いのためだろう――そう思った、矢先だった。
「待って……!」
縋るような声と共に、背中から服が引っ張られた。
「待って待って待って待って待って……お願いだから待って……!」
慌てて振り返ると、そこには崖っぷちに立たされたような必死な顔がある。
「話をね……話を聞いて」
「話って……その、周りにヒィ担を隠してることですか?」
「違う……違うの。いや、違わないんだけど、とにかく違うの……!」
支離滅裂な言葉で縋りついてくるカグヤ先輩。道の真ん中でこんな情緒不安定な女子に引き止められているのだから、目立つのも当然だ。周囲には立ち止まる人影が増え始め、こちらに視線が集中しつつあった。
「わかりました! わかりましたから! 話、聞きますから! せめて場所を変えませんか? えっと……」
こうやって取り乱している女性の話を聞くとき、どこへ連れていけばいいのか。女友達ひとりいない中学生時代を過ごした僕には、あまりにも足らない経験値だった。
そこで天啓――昨日のひじりんのコラボ放送を思い出した。
「そうだ! カフェ。カフェに行きましょう!」
「カフェ……?」
「ヒィたんのコラボカフェ、今日からじゃないですか。もしかして、向かってる途中だったんじゃないですか?」
「そうだけど……え、もしかして、あなたもヒィ担?」
「いえ、僕はひじりん一筋なんで」
「あ、聖徒の方でしたか。これはこれは、昨日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。ヒィたんとのコラボは毎回神回なんで、いつも楽しませていただいてます」
まるで身内が世話になったかのように、僕たちは揃って頭を下げあった。カグヤ先輩も、ようやくといった様子で落ち着きを取り戻してくれる。
「なら、その……事情説明に時間を割いて頂くのと、その口止め料も兼ねて、カフェ代はすべて持ちますので……グッズはすべてこちらが頂くという形で、問題ないでしょうか? 聖徒の方には、必要のないものですよね?」
「あ、はい、それはもちろん」
「よし! ひとりじゃ食べられる量、限界あるからいとかるー!」
「いとかる?」
「いと助かる」
急に調子を取り戻したように、カグヤ先輩は両手でガッツポーズをした。ここまで推し活全開の格好でコラボカフェに向かおうとしているのだから、相当なヒィ担であることは間違いない。
昨日のカグヤ先輩を思い出し、気になっていたことを尋ねてみる。
「その、つかぬことをお伺いしますけど、昨日の放課後、あれだけ怒ったのって……もしかして、そういうことですか?」
「昨日の放課後? ……ああ、あれね」
ポン、と手を叩いたカグヤ先輩は、力強く頷きながら、あのとき見た満面の笑みを浮かべる。
「うん。ヒィたんをバカにしたら、戦争だからね」
◆
「あー、オタクに優しいギャルじゃなくて、オタクのギャルだったパターンね」
サチさんは納得したように、はいはいはい、と何度も頷いている。
「学校の人気者であるヒロインの意外な秘密。それをひょんなことから知った主人公が秘密の共有者となり、仲を深めていく――と。もはや王道も王道、テンプレもテンプレ。親の顔より見た第一話って感じね」
サチさんはそうやってまた、僕の過去話を、作品を評するようにまとめた。




