05 人が恋に落ちる瞬間
竹林輝姫の名前は、入学して間もなく耳にした。
クラスメイト以上の友達を持たない僕ですら、自然と知ってしまうほど、その名は学校という空間に当たり前のように存在していた。
朝のホームルーム、昼休みの教室、下校時の昇降口。
どこかで誰かが彼女を語り、噂し、持ち上げている。
可愛い、綺麗、スタイルがいいといった単純な賛辞に留まらず、モデル活動の話題、SNSに載った写真などについて、尽きることのない話題として口にされる。更には僕が入学したその年に流行語としてノミネートされる『いとワロス』は彼女から生まれたゆえに、みんなが真似して使っていたのだ。今年の入学生には、カグヤ先輩に憧れてこの高校を選んだ生徒も少なくない。
キャッチコピーは『ギャルのクイーン、ギャルザベス』。
ギャルとエリザベス女王をかけたという、語呂合わせのネーミング。だが、周囲はカグヤ先輩を『我がの校の姫』と呼んでいるのに、なぜそこで女王なのか。そんな矛盾を含めて、身内の悪ノリこそ最も厄介だという教訓を得た本人は、頭を抱えているのだ――と、後に知ることになる。
けれど当時の僕にとって、ギャルという属性だけで自分とは相容れない。怖い人種だと思い込んでいたし、そもそも生きる世界が違いすぎた。
だから名前は知っていても、興味を持つことすらなかったのだ。
それがゴールデンウィーク前日の放課後、思いもしない形で覆されることになる。
「なにこれー、マジきもいんだけどー」
下駄箱前に響いた声に、つい目が向いてしまった。
女子生徒三人と相対している男子がひとり。彼はなにか言いたげにしていたが、嵐がただ通り過ぎるのを待つしかないという、諦念がオーラとして発せられていた。
彼の通学鞄には、手のひらサイズのぬいぐるみが付いていた。女子のひとりが、それを無遠慮に引っ張りながら、汚いものをつまむようにして持ち上げている。
笑い声、嘲る口調。
まるで場違いのものを見つけたようにはしゃぎながら、彼は侮辱されていた。
そのマスコットホルダーには、僕も見覚えがあった。
ひょうっとすると彼とは気が合うかもしれない――そんな一瞬の親近感が胸をよぎるも、彼女たちに割って入る勇気は僕にはなかった。もしそんなものがあったなら、逃げるよう地元を離れ、この高校に入学することもなかっただろう。
自分の無力さを噛み締めつつ、「なに見てんだ」と絡まれないよう、逃げるように視線を逸らしたそのときだった。
「なにしてるのー?」
場の空気を割る、間延びした声。
「あ、カグヤせんぱーい!」
女子たちが、一転して媚びるような声音で各々呼びかける。
後に知った話だが、彼女たちはカグヤ先輩に憧れてこの高校を選んだ口のようだ。そんな相手から声をかけられたものだからか、すっかり舞い上がっている。
そのキッカケを作ったとも言えるぬいぐるみが、カグヤ先輩に見せつけるよう強く引っ張られた。
「見てくださいよこれー。こんなきもいもの学校につけてくるとか、マジやばくないっすかー?」
「へー、どれどれ。あー、マジきもいわー――おまえが」
ぬいぐるみではなく、女子の顔をしげしげと覗き込みながら、カグヤ先輩が調子を合わせたノリで言い放つ。
「ほんと、ここは幼稚園じゃない――へ?」
同調する流れで返されたはずなのに、その言葉の意味に気づくまで、しばし間が空いた。それに理解が追いついた瞬間、女子の表情が急速に冷え込んでいく。
そんな空気も意に介さず、カグヤ先輩は言葉を畳み掛けた。
「その腐った性根、見れたものじゃないっていうかさ。よくもまあ、公衆の面前で恥ずかしげもなく晒せるなー、って話よ。お母さんのお腹の中に、恥、置いてきちゃいましたかー? 道徳と品性は、確定で置き忘れてきたみたいだけどー?」
そのまま、ぬいぐるみを摘んだ女子の腕を、ばしんと弾くように叩いた。
勢いよく揺れたマスコットが、ようやく解放された。
すると、カグヤ先輩の笑顔がすっと消えた。
睨みつけるその目は、静かに怒りを堪えた鋭さを帯びていた。
「人の好きをバカにして、笑いものにしてんじゃねえよ」
声を荒げるわけでもなく、むしろ低く押し殺した声音。
その冷えた響きに、場の空気が緊張した。
叩かれた腕を押さえながら、女子は気圧され、一歩後ずさる。
けれどその顔は、どこか理不尽を振るわれたような、被害者めいた表情をしていた。
「め、ざ、わ、り」
カグヤ先輩が、吐き捨てるように呟く。
「へ……?」
「め、ざ、わ、り」
「ぁ……うっ」
返す言葉も見つからず、女子は顔を伏せ、そそくさとその場を離れる。残ったふたりも、カグヤ先輩の鋭い視線を受けて、慌ててその後を追った。
憧れの人に近づこうとしたはずが、逆に叩きのめされ、入学早々に立場も居場所を失った――そんな顛末を、野次馬たちは固唾を呑んで見守っていた。
「誰かー、塩もってなーい?」
「はーい、あるよー」
カグヤ先輩が振り返りながら尋ねると、その求めに応じたひとりが、男性アイドルがプリントされたうちわを掲げた。
「それは塩じゃなくて、あんたの推しでしょーが!」
すかさずカグヤ先輩がツッコむと、緊張していた空気が弾けたかのように、どっと笑いが広がった。
「あ、あの……ありがとうございました!」
理不尽絡みから解放された男子が、深く頭を下げた。
「いいのいいの。ああいう奴ら、嫌いなだけだから」
カグヤ先輩はひらひらと手を振り、飄々と応じる。
その仕草のまま、男子のぬいぐるみをすくい上げるよう手に取った。
「この子、君の推し?」
「は、はい! そうです!」
男子は顔を赤くしながらも、真っ直ぐと頷いた。
「そっか。可愛い推しが側にいるのは、それだけで幸せな気持ちになれるもんね」
その言葉は、ぬいぐるみを鞄につけてきた彼を、なによりも肯定していた。
男子は目を輝かせ、大げさなほどの勢いで頷いた。
「じゃあ、いつまでも、推しは大切にね」
そう言って、カグヤ先輩は軽く手を振りながら、友人たちのもとへ戻っていく。
去っていくその背中を呆然と見つめていた彼は、そっと胸元に手を当てた。
高鳴る鼓動、芽生えた感情をまるで確認するかのように。
その日、僕は――人が恋に落ちる瞬間を、初めて目撃してしまったのだ。
◆
「なるほどねー。オタクに優しいギャルものだったか」
サチさんは、これまでの話の流れを受けて、まるで作品を評するかのように僕の過去話をまとめた。
僕はかぶりを振って、そのジャンル付けを否定する。
「いや、優しい人ではありますけど……カグヤ先輩があの場に割って入ったのは、そんな義侠心じゃありませんから」
「あれ、違うの?」
ジャンルを見誤ったことが意外だったのか、サチさんは不思議そうに眉を上げた。
「あれはもっと独りよがりな事情で、怒っていただけです」
「独りよがりな事情?」
「それを知ったのが、その次の日なんですけどね」
そう前置きをして、僕は再び語り始めた。カグヤ先輩と出会った、あの日の出来事を。




