45 二段階認証……?
その意味を、すぐには理解できなかった。
頭の中に響いた言葉は、まるで異国の呪文のようで。
それを咀嚼し、飲み込むまでに、たっぷり十秒。
「えっ、ひじりん!?」
ようやく腹の底から、驚きの声が飛び出した。
「あー、聞き覚えのある声だと思ったら、どおりで……」
呆然と呟いた僕に、ユエさんがじとっとした視線を向けてくる。
「ツバメくん……あれだけショック受けておいて、推しの声に気付けなかったの?」
「うっ……!」
それを言われたらぐうの音も出ない。でも、僕の言い分にも耳を傾けてほしい。
Vチューバーは現実の顔を出さず、声だけで活動する職業だ。いくら聞き慣れた大好きな声だとしても、旅先で絡み酒をしてくる酔っぱらいのお姉さんが、推しの中の人だなんて普通は思わない。
……いや、今になって思い返せば、会話の中にはいくつも伏線があった。
それでも、ネット上のひじりんと、眼の前のさっちゃんさんが結びつないのは、無理もないと思いたい。
「だ、だって、さっちゃんさん、世界の真実に目覚めた人には見えませんもん!」
「当たり前よ! アルミホイルを頭に巻くほど、落ちぶれちゃいないわよ!」
「でも、ひじりん、世界の真実に目覚めてたじゃないですか」
「だからその目覚めたっていう情報は、どこ発信なのよ!」
「どこ発信って……ひじりん、自分のSNSで書いてるじゃないですか」
「私のSNS……?」
どうにも噛み合わない会話に、ユエさんが潤滑油のように口を挟む。
「さっちゃん、高飛びしてから、日本の情報いっさい断ってたらしいよ」
「じゃあ、SNSは……?」
「この四ヶ月、触るどころか見てすらいないわ」
僕が尋ねると、さっちゃんさん――ひじりんは、冷や汗をかいてそうな表情で首を振った。
SNSを見てすらいないという彼女の言葉には、素直に納得できた。
活動休止に追い込まれ、海外に高飛びしたとまで形容したひじりんが、SNSなんて見たくないのは当然だろう。
でも、現実にSNS上では、世界の真実に目覚めた発言は発信されていた。
僕は夢でも見ていたのかと疑い始める。
寝起きだったし、その可能性も……と自分を納得させるように、ひじりんのアカウントを久しぶりに開いた。
「あ……波動水、売ってる」
「見せて!」
ひじりんは僕のスマホをひったくるように取ると、これまでの投稿を読み漁り、顔を真っ青にして呟いた。
「乗っ取られてる……」
「乗っ取りなんですか?」
僕が聞き返すと、ひじりんはブリキの玩具のようなカクカクした動きで頷いた。
つまり、世界の真実に目覚めたひじりんなど、最初から存在しなかったのだ。
ずっと胸に刺さっていた棘が、スッと抜けたような気がした。
「……じゃあ、世界の真実に目覚めたひじりんなんて、どこにもいなかったんだ」
「よかったねー、ツバメくん。これにて、めでたしめでたし」
「全然めでたしじゃないわよ!」
ユエさんが眠そうな声でそう言った直後、ひじりんがピシャリと否定する。
たしかに、ファン目線で見ればめでたいことかもしれない。でも、勝手に波動水の売人にされていた本人からすれば、洒落にならない問題だ。
「ログインできない……パス、変えられてる。……どうしよう、どうしようどうしようどうしよう」
「まずはマネージャーに連絡したほうがいいんじゃない?」
どこか夢心地のような声で、ユエさんが助言する。
「さっちゃん、高飛びしてから一度も連絡取ってないんでしょ? きっと心配してるよ」
「連絡先が入ったスマホ、家だから……」
「じゃあ、会社の番号調べて、直接電話したら?」
「こんな朝っぱらからかけても、誰も出ないってば……」
「ならもう、出勤してくるまで待つしかないね」
「やだやだやだやだ……早く弁明しなきゃ、やーやーなの!」
子供が駄々をこねるように叫んだひじりんは、素早いタッチでスマホを操作する。
「二段階認証……? SMSを受け取れるスマホは家だって言ってるでしょ! あー、もう! 誰よこんな面倒くさいシステムを採用した奴!」
システムにブチギレているひじりんを前に、『それを設定していなかったから、SNSのアカウントを乗っ取られたんじゃないですか?』と正論を投げる勇気は、僕にはなかった。
かといって、現状の打開策も浮かばない。
そんな中、今の僕にできる唯一のことが、ひとつだけあった。
「あの、ひじりん」
「なにっ!?」
「そのスマホ貸しますから、部屋でゆっくり、腰を据えてやったらどうですか?」
「……いいの?」
思いがけない提案に、ひじりんは目を丸くする。
「人に見られて困るようなもの、入ってませんから。アプリも自由にダウンロードして使ってください」
「ありがとう、ツバメくん!」
ひじりんは感極まったように僕の手を取り、そのまま胸元にぎゅっと押し当ててきた。
薄い布越しに伝わる柔らかさと温もりに、思わず心臓が跳ねる。
善は急げとばかりに、早速部屋を出ていこうとするひじりん。ドアノブに手をかけたところで、ふと思い出したように振り返った。
「この恩、耳元でなんでも囁くことで返してあげる」
「ひじりんが、なんでも……?」
「ええ、なんでもよ」
やけに意味深な笑みを残して、ひじりんは今度こそ部屋から出ていった。
まるで嵐が過ぎ去った後のように、部屋は静まり返る。
推しから好きな言葉をなんでも囁いてもらえる権利を得るなど、ファン冥利に尽きるどころではない。まさに宝くじに当たったような奇跡――のはずなのに、リアルの推しと対面した実感がまったく湧かない。
それでも、十六歳を迎えた最悪の誕生日。その悲劇の幕開けがただの乗っ取りだったというのは、救いであった。
安心すると途端にお腹が空いてきた。
僕はすやすやと眠るユエさんを残して、ひとり朝食に向かったのだった。
 




