44 私が……
「あっ、あのときの少年!」
少し遅れて僕に気付いたさっちゃんさんが、人差し指をぴしっと突きつけてくる。
ユエさんはとろんとした目で彼女を見やると、不思議そうに首を傾げた。
「あれ、さっちゃん。うちのツバメくん、知ってるの?」
「うん。昨日、下着を見られたっていうか」
さっちゃんさんは両手で自分の顔を覆いながら、妙に恥ずかしそうに続ける。
「こう、私の使用済みのブラを、少年が顔にね」
「え、そんなエッチなことしたの!?」
「下着のほうが風で飛んできたんです!」
まるで浮気を咎めるかのような目で睨まれ、僕は慌てて弁明する。
「ツバメくんの浮気ものーっ!」
言い分も聞かず、ユエさんは小走りに詰め寄ってきた。
そのまま正面からぎゅっと抱きついてきて、僕の身体をゆさゆさと揺さぶる。
「わたしの裸を見たくせに、どういうこと!? わたし、あれが初めてだったのに……!」
「へー、初めてを奪ったんだー。やるじゃん、少年」
さっちゃんさんが口元をにやりと歪める。
「奪ってません! からかってきたユエさんが、勝手にポロリしただけです!」
下世話な笑みを浮かべるさっちゃんさんに向かって、僕は全力で否定した。
それがまた、ユエさんは気に食わなかったようだ。
「それでもー! 男の人に見られたの、あれが初めてだったのー!」
「自爆したのはユエさ――って、この臭い……まさかお酒呑んでるんですか!」
「お酒、初めて飲んじゃったー」
問い詰めると、ユエさんはあっさりと白状した。鼻につくような甘いアルコール臭が、言葉より先にその事実を物語っていた。
この妙な絡みかたにも、ようやく得心がいった。
別に二十歳を越えているのだから、咎められるようなことはしていないが……でも、どうしてこんなことになったのか。その理由をまだ聞いてない。
視線を上げると、さっちゃんさんが代わりに答えてくれる。
「昨日、お風呂でルナちゃんと意気投合してねー。その流れで、私のお部屋で朝までコース」
「あー、そうだった――って、ルナちゃん?」
「バレちゃった、テヘ」
目線を下に戻すと、ユエさんがあざとい角度で小首を傾げる。
「……まあ、ユエさんがそれでいいなら、僕は構いませんけど」
「それでね、可愛い子拾っちゃったって、ツバメくんのこともぜーんぶ話しちゃった」
「ユエさん!?」
「テヘ」
「テヘ、じゃないですよ!」
悪びれもせず可愛い子ぶるユエさんを、ベッドに放るようにして寝かせる。子どもみたいに「きゃははは!」なんてはしゃぎながら、そのまま大の字となった。
恐る恐るさっちゃんさんに顔を向ける。
「聞いたわよー、推しが世界の真実に目覚めたんだって?」
思わぬ角度から、弄りの矢が飛んできた。
「どうどう? 推しが頭にアルミホイルを巻き始めたとか、どんな気持ち?」
「他人事だと思って……」
「いや、だってさー。親や芸能人が目覚めた、って話はまあ聞くけど、Vチューバーが世界の真実に目覚めるって、字面がもう爆笑ものじゃない」
「推してる側からしたら、たまったもんじゃありませんよ……」
「それでそれで、どこの誰が世界の真実に目覚めたのよ」
「……言っても、どうせ知らないでしょ」
「いやいや、わかるって。私、それでご飯食べてるんだから。中堅どころまでなら、だいたい頭に入ってるし」
「それって、どういう……」
答えたのは、ベッドで寝転がっているユエさんだった。
「さっちゃん、Vチューバーなんだって」
「えっ、そうなんですか?」
「Vチューバー好きで私を知らない奴はモグリね」
さっちゃんさんはこれでもかと胸を張った。……それが軽く揺れたものだから、つい目のやり場に困る。
「それでそれで。誰が頭にアルミホイル巻いちゃったの?」
「……ひじりん」
観念して、推しの名前を口にした。
するとすぐに『ああ、あのひじりんかー!』と笑い声が返ってくるかと思いきや、室内を満たしたのは静寂だった。
さっちゃんさんは、作り損ねた笑みのまま尋ねてくる。
「えっと、ひじりんって……土方凛子?」
「誰ですかそれ?」
「誰だろうね……」
我に返ったような声を出しながら、こめかみを押さえるさっちゃんさん。
「じゃあ、ひじりんって……どこのひじりん?」
「どこのって……Vチューバーでひじりんって言ったら、ひとりしかいないでしょ」
本当にこの人はVチューバーなのかと疑いながら、僕は深い息をついた。
「聖純セインですよ」
「待って……」
一拍の沈黙のあと。
「待って待って待って待って。そりゃ、あの炎上はきつかったし、世界のすべてが敵に見えるくらい追い詰められたのは認めるけど……私、そんなものに目覚めた覚えないんだけど」
「ん? なんでそこでお姉さんの話になるんですか」
「いや、だからさ」
さっちゃんさんは顔を引きつらせながら、自身に人差し指を向けた。
「私が……セインなんだけど」
 




