43 おまえが主人公になるんだよ!
「特に高校生。なんか、高校生活っていうものに、すごく憧れちゃって」
「わかるわー。私も、大学生をやってみたかったから」
女性はしみじみと頷いた。
「別に勉強したいわけじゃないのよ。ただ、いわゆるキャンパスライフってやつを送ってみたかった。どんな出会いがあって、どんな経験ができて、どんな日々を送れたのかなって……ないものねだりみたいに、未だに考えちゃうのよね」
「そうそう。一応、高卒の証くらいは取っとかなきゃって、通信制に通ってたんですけど。いわゆる高校生らしい青春ってやつ、味わってみたかったなって。そしたら彼氏のひとりくらい、できたのかなーって」
「ルナちゃんほど可愛い子なら、絶対できたわよ。……そうよね。アイドルっていっても、やっぱり女の子だもん。そういうの、ずっと我慢してきたんだ」
「うーん……我慢、って感じでもなかったかも」
ユエは顎に手を当て、少し考えるように言った。
「わたしにとってアイドルって、生き方だったから。今も彼氏が欲しいっていうよりは……高校生らしさに憧れてるだけで。空っぽになっちゃった人生を、そういったもので埋め合わせがしたいだけなんです」
「空っぽになっちゃった?」
「生まれてからずっと、芸能界で生きてきたから。ずっと売れてたってほどじゃないけど、それでも小さい頃からそこにいて。で、いざ辞めたら、お金以外なにも残ってなかった。芸能界を抜けたわたしは空っぽなんだって……それが、妙に虚しくなっちゃって」
それは決して弱音ではなかったが、ユエにとって、初めて人前でこぼした本音だった。
「……そっかー」
女性は唸るように、ゆっくり喉を鳴らした。
「ごめんなさい。こんな重たいこと言われても、困っちゃいますよね」
「そういうわけじゃないのよ。むしろね、ここで言うならこれしかないって言葉が、頭に浮かんできちゃって」
「浮かんできたけど?」
「どっかで見たような台詞なのよね。それこそ、現実でよくこんな臭いことを吐けるよな、みたいな。恥ずかしい言葉がね」
「むしろそこまで言われたら、気になって悶々としちゃいますよ。そこはもう、小娘ににビシッと一言、導くつもりでお願いします」
「はいはい、わかったわ」
苦笑いを浮かべながら承知した女性は、顔を湯で洗ってから、気持ちを整えるように一呼吸を置いた。
「いい、ルナちゃん。空っぽってことはね、それだけ沢山、これから詰め込めるってことよ」
「おー」
感銘を受けたようにユエは拍手をした。
「さっき見たアニメの主人公が、似たようなこと言ってました」
「だから言ったじゃない。どっかで聞いたことあるって。私からはこれで終わり。それがどういう意味かは、その主人公に諭されたキャラから学びなさい」
「そのキャラ、主人公を庇って死んじゃいました」
「だったらそれに倣うのよ。たとえば……トラックに轢かれそうだったり、通り魔に襲われている誰かを庇いなさい。そうしたら異世界転生があなたを待ってるわ。おまえが主人公になるんだよ! ってね」
最後は投げやり気味に締めくくられた。
そのふざけた調子がまたおかしくて、ユエは両手を叩きながら笑った。
ずっと胸の奥に押し込めていたものを、意外な形で吐き出せた。そこに余計なことを言ってしまった、なんて自己嫌悪は生まれない。
重たい話を重たいまま受け止めない。けれど、決して軽んじもしない。
下手な同情がそこにはないからこそ、世間話みたいに花を咲かせられた今が、とても心地よかった。
「でも最近は、可愛い子を拾えたおかげで、なんだかんだ楽しくやれてるんですけどね」
「あら、猫でも拾ったの?」
「それも一緒に拾いましたけど――こう、道端を歩いてたら、段ボールの中に男子高校生が落ちてまして」
「なにその面白そうな話。詳しく詳しく」
だからユエは、世間に対して秘密にしていた話を、自然な流れで口にしてしまったのだった。
◆
時刻は朝の六時半。
使われた形跡のないベッドを前に、焦燥感に駆られていた。
昨晩、内風呂から上がると、部屋には誰の姿もなかった。
残されていたのは置き手紙が一枚。ユエさんは、大浴場へ行ったらしい。
日中、あんなハプニングがあったのだ。同じベッドでなくても、隣り合って眠るのが気まずかったのかもしれない。
そう察した僕は、ユエさんが戻って来る前に布団へ入ることにした。
そして、目覚めたのが朝の六時前。
ベッドは昨夜のままで、内風呂も使われている様子もない。
トイレにでもいるのだろうと軽く考え、寝ぼけた頭を覚ますためにも、ひとっ風呂浴びようと僕は大浴場へ向かった。
すっかり目覚めた状態で部屋に戻ってみると、そこには出る前とまったく同じ光景が広がっていた。
トイレにしては、いくらなんでも長すぎる。そう思いながらベッドを見て、ふと気づく。
ただの空っぽではなかった。最初から、使われた形跡がなかったのだ。
よく見ると、部屋の明かりも常夜灯のまま。
「もしかして……昨日から、戻ってない?」
血の気が引いた。
最初に頭をよぎったのは、大浴場でなにか起きたのでは、という不穏な想像だった。
たとえば、転倒して頭を打ったとか、風呂でうたた寝してそのまま――。
だがその可能性はすぐに振り払った。もしそんなことがあったのなら、こんな時間まで誰の目にも止まらないはずがない。実際、さっき訪れたばかりの大浴場前には、そんな異変はまるで感じられなかったのだから。
……じゃあ、ユエさんは一体どこへ?
「ただいまー!」
焦燥感が頂点に達したとき、その張本人がご機嫌な声を上げて戻ってきた。
「あ、ユエさん。一体どこに――」
振り返って、僕は声を失った。
ふらふらとした足取りのユエさんのすぐ後を、もうひとり女性がついてきたのだ。
「おじゃましま~す」
大手を振って入ってきたその人には、見覚えがある。名前は知らないが、顔はしっかりと覚えていた。
「ユエさん……その人は?」
「さっちゃんです」
「さっちゃんで~す」
紹介されるなり、お姉さん――『さっちゃん』さんは両手で頬を挟み、小首を傾げた。
年齢を忘れたぶりっ子ポーズに、僕の思考は宇宙の果へと吹き飛ばされた。




