42 世界が色褪せた
その恥じらいも数秒後には消え、自身が夜桜ルナ本人だと知られたことに、遅ればせながら危機感が芽生えた。
「まあ、安心して。私、ルナちゃんのファンってわけじゃないから」
すると女性は、あっけらかんと笑って続けた。
「たまたま聞いたDreamerのカバーが刺さっただけで、他はまったくよ。あの人気アイドルだー、ってはしゃぐほどミーハーじゃないしね」
ユエの隣にさっと並ぶと、肩越しに続ける。
「それに、有名税って言うけどさ。活動休止中くらい、そっとしておいてほしい気持ちは、よくわかるつもりだから」
「活動休止中……?」
ユエは目を瞬かせ、すぐに苦笑いした。
「そっかそっか。お姉さんがわたしに興味ないこと、よくわかりました」
「え? もしかして、もう復帰してるの?」
「一月に、芸能界から身を引きました」
「あ、引退したんだ」
ユエが小さく首を振ると、女性は軽い調子で受け止め、腑に落ちたような顔で空を見上げた。
「なら、知らないはずだわ。一月って、丁度私が海外に高飛びした直後だから」
「高飛び……ですか?」
「去年の十二月に、派手に炎上しちゃってね。それで活動休止して、この四ヶ月、日本の情報を一切断ってたの」
「炎上? 活動休止?」
「これでもお姉さん、ルナちゃんとは別の界隈で人気商売してるのよ。そこでは、私を知らなきゃモグリ、ってくらいのポジションにいるの」
「へー、どんなお仕事をされてるんですか?」
女性が得意げに口元を緩ませているのを見て、ユエは興味深そうに尋ねた。
「配信者よ」
「ユーチューバーですか」
「具体的には、頭にVが付くね」
「あ、お姉さん、Vチューバーだったんですね」
「お、ルナちゃん、Vチューバー知ってるんだ」
「さすがにそのくらいは」
ユエはおかしそうに笑い、眉尻を下げた。
「でも詳しくはなくて……知ってる名前と言えば、お家デート誤配信のヒィコ……ナーヴェ、でしたっけ?」
「そうそう、ヒィコ・ナーヴェ。通称ヒィたんね。でも、日本トップがようやく出てくるレベルなら、私の名前なんて知らなそうね」
「すみません、モグリなので」
「いいのよ。私だって、ルナちゃんが所属していたグループのメンバー、ルナちゃんしか知らないし。興味のないコンテンツなんて、誰だってそんなものよ」
他意のない口調でそう言うと、女性は少しだけ考え込み、それからふと視線を戻す。
「そうね……人のふんどしで相撲を取るみたいでアレだけど、ヒィたんとは何度もコラボしてるし、リアルでもご飯を食べに行く仲――って言えば、なんとなく伝わるかしら?」
「相手は日本トップですよね? お姉さん、本当に凄い人じゃないですか」
「あの田舎から都会へ出て、ここまで上り詰めたって胸を張れるくらいには、誇りだからね」
女性はわざとらしく胸を張って見せたが、すぐに困ったように肩をすくめた。
「……だからこそ、去年の炎上はきつかったわ。築き上げてきたものが、ボーボー燃えていくような感覚でさ」
彼女の口から、大きなため息がこぼれた。
「ファンを傷つけて燃えるなら、まだ納得できるんだけどね。普段私を見もしないような連中が、こぞって集まって火にかけてくるんだもん。たまったもんじゃないわよ」
「……その気持ち、よくわかります」
ユエは小さく頷いた。
「あのときは、目に映るすべてが傷つけてくる敵に見えたから」
「ルナちゃんは、非の打ち所なんてなかったのにね。よくもまあ、咎人のようにあそこまで燃やせるもんだって。他人事ながら、見ていて気分が悪かったわ」
その声音には重みはなく、どこか軽い調子すらあった。
だがユエには、それがありがたかった。
出会って間もない他人から、わかったような顔で「大変だったね」と同情されるほうが嫌だった。
最初に『そっとしておいてほしい気持ちは、よくわかるつもり』と口にしたとおり、そういうところは心得ているのだろう――ユエはそう思った。
その態度が心地よかったからこそ、それが口にでた。
「本当、あそこで人生、狂っちゃったな」
ユエは両手を前に突き出して伸びをする。
「十億なんて当たらなかったら……どれだけ辛くても前に進まなきゃ。そう気持ちを切り替えて、アイドルのままでいられたのに」
「ステージに戻りたいの?」
「何事もなかったように戻れるなら、それもありですけどね」
ユエは目を伏せ、眉の端を僅かに曇らせた。
「でも、現実はそうはいかないじゃないですか」
「そうね。日本って、禊を求めたがる国民性だから。どんなに非があるのは世間の側でも、どれだけ理不尽に追い込まれた側であっても、『お騒がせしました』『ご迷惑をおかけしました』の一言もなしに、元の場所には戻れない業界よね」
「そんな風に媚びてまで、戻りたい世界じゃないですから。……そうやって、まるで夢から覚めたみたいに、今まで生きてきた世界が色褪せちゃいました」
「なら、今はなにしてるの?」
詮索めいた色はなく、ただの世間話のように女性は聞いた。
だからユエも、取り繕うことなく答えた。
「顔だけは売れちゃってますからね。なにか新しいことを始めようにも、外になにかを求める気力もなくて……ずーっと、ネットフリックス漬けです」
「今までが忙しすぎたんだし、そんな自堕落な生活もいいんじゃない?」
「悪くはないんですよ。でも、あまりにも張り合いがなさすぎて……このままでいいのかなって。前の生活に戻りたいわけじゃないのに、気持ちだけがモヤモヤしてて」
「ワーカーホリックの後遺症かー。とはいえ、ネトフリ漬けってことは、それなりに色んな作品を見てるんでしょ? こういうことしてみたいって、思ったりしないの?」
「そうですね……日本人が出るドラマや映画は、仕事で関わってきた人たちを思い出すから避けてて。その分、アニメはよく見ていて、ふとこう思うんです」
ユエはふっと目を細めた。
「普通に学校通ってたら、こんな青春、わたしにもあったのかなって」
学園ものの作品に惹かれる理由を、静かに言葉にした。




