41 メインキャストにルナちゃんがいたらキレる
「あ、お帰りー。大浴場、どうだった?」
部屋に戻ると、浴衣姿のユエさんが、学校帰りを出迎えるような調子で声をかけてくる。
ソファーにもたれ、テレビで流れているアニメに釘付けとなっているかのように、こちらを振り返る素振りはない。
その態度はまるで『さっきのハプニングなんて、気にしてないよー』と、主張しているようにも見えた。
そこをわざわざ突っ込むのも野暮というもので、僕はベッドに腰を降ろしながら、無難な調子で返した。
「よかったですよ。露天風呂とか、開放感があって」
「人は多かった?」
「意外とそうでもなかったです」
「そっかー。のびのび入れてよかったね」
「ええ、周りを気にせず足を伸ばせました」
「……あ、ここの温泉、釘が十日で溶けるらしいよ」
「酸性度が高いんでしたっけ?」
「うん。それで美肌の湯って呼ばれてるんだって」
「たしかに、肌がツルツルしてる気がします」
「わたしもツルツルー」
「…………」
「…………」
ふいに、会話がぷつりと切れた。
いつものユエさんなら、「ほんとー? 触らせてー」とでも言って、ボディタッチに踏み込んでくる場面だ。それが今はない。
やっぱり意識しているのだろう、あの出来事を。
なんとなくぎこちない空気のまま、ユエさんはネットフリックスでアニメを流し、僕はスマホでユーチューブを眺める。
折角温泉地まで来たのに、やっていることは家と変わらない。
夕食もまた然りだった。個室での豪華な料理に舌鼓を打ちながらも、話題は当たり障りのないものばかりで、いつもよりどこか盛り上がりに欠けたまま終わった。
そして部屋に戻っても、特になにかが変わることはなく。
時計が十時半を過ぎて、そろそろ就寝を意識し始めた僕は、気分を切り替えるためにも、内風呂に入ることにした。
スマホと飲み物を持ち込んで、湯船に浸かっていると、時間はあっという間に十一時を越えていた。
風呂を上がると、部屋の明かりはそのまま、けれど人の気配がない。
そこには、僕が日中に残したメモに書き足されたメッセージだけが残っていた。
『大浴場に行ってきます By月ちゃん』
◆
脱衣所は無人だった。
ざっと見渡すかぎり、ロッカーの鍵もほとんど付いたまま。大浴場の中を覗いても、湯の出入りに伴う水音すら聞こえてこない。
夜も遅い。
いたとしても、先客は数人程度だろう。
そう高をくくったユエは、サングラスを外し、大浴場へと足を踏み入れた。
実際、中には数人の先客がいたが、それぞれが離れて湯に浸かっている。顔を伏せながら手早く身体を洗い終えると、そそくさと露天風呂へと向かった。
「ラッキー」
人影のない露天風呂を目にし、ユエは小さく呟く。
内風呂も悪くなかったが、やはり開放感に勝るものはない。
来た理由の二割は、それを味わいたかったから。
残る八割は、これから燕大の隣で眠るという現実が、妙に気まずかったからだ。
のんびり浸かって戻れば、テルはもう眠っているかもしれない。そんな目論見であった。
ゆっくりと湯に身体を沈める。
「んー、露天風呂サイコー」
湯の温もりと、夜の冷気の対比が心地よい。
思わず口元が緩み、気づけば喉が勝手に震えていた。
「揺れる街の、灯が、星屑みたいに瞬いてる」
ぽつりぽつりと、メロディが空に溶けていく。
「心閉ざしても、その光は、消えなくて」
アイドルを引退――もっと遡り、活動休止して以来、初めて歌った。
それは夜桜ルナや、自分のグループの楽曲ではない。
かつて目指すべきアイドルの道しるべとして教えられた、天河ヒメの持ち歌。
一番好きな曲を問われたとき、答えるのはいつもこの曲だった。
その旋律をこの夜空の下で、独り占めするように歌いきる。
誰にも聞かれることのない、自分だけのライブ。
……そのはずだった。
「え?」
静寂の中に、不意に響く拍手の音。
思わず首をすくめ、視線を泳がせるが誰の姿もない。
「いやー、いい歌声ね」
声の主は、湯船の中央にある岩の陰から現れた。
豊かな胸元を湯に沈めたままの、二十代半ばほどに見える女性。
ユエが独占していたと思っていたこの空間には、既に先客がいたのだ。
「思わず聞き入っちゃったわ」
女性はにこやかに、こちらへ歩み寄る。
「す、すみません! てっきり、誰もいないと思ってて……!」
思わず深く頭を下げるユエに、
「いいの、いいの。本当にいいものを聞かせてもらったって気分だから。皮肉じゃないわよ?」
そう笑いながら、女性は軽く首を振った。
「でもその曲……天河ヒメの『Dreamer』よね? 今どきの子が歌うには、ちょっと懐かしい曲じゃない?」
「えっと、両親の影響で……」
「あー、なるほどね。あなたくらいの子の親なら、天河ヒメは世代よね」
そう言って女性は納得したように頷いた。
「それに歌い方も、今風っていうか……アレンジが効いてて。夜桜ルナのカバーが、まさにそんな感じだったわね」
「え、あっ……あっ……」
図星を突かれて、ユエの声は裏返る。
「そ、そう、でした、か……? アハハー」
「ん、どうかした? まさか夜桜ルナが嫌いだから、気に障っちゃった?」
「そ、そんなことありませんヨー。わたし、夜桜ルナ、ダイスキ」
「そう? ……あ、もしかしてルナちゃん本人だから、焦ってるとか?」
冗談めかしながらも、先客の女性は身を乗り出すようにユエの顔を覗き込んでくる。
「よく見ると、夜桜ルナに似てるっていうか、そっくりさんっていうか……なんというか……あれ? え、マジで?」
軽い調子だった声が、徐々に熱を帯び、最後には確信に近い驚きへと変わっていた。
「本物……?」
「ち、違いますよー」
ユエは顔をそらしながらも、あからさまに動揺を隠せない。
じっと見つめられたまま、露天風呂に気まずい沈黙が流れた。
十秒ほどの長い間。
「ああ、そうだったのねー。あんまりにも夜桜ルナ似の美人さんだから、つい本物かと思っちゃったわ」
「あははは……こんなところに、あの夜桜ルナがいるわけないじゃないですかー」
「そうよねー、いるわけないわよねー」
「ですです」
「……客観的に見て、それで誤魔化せると思う?」
「……ダメですか?」
「好きな漫画が実写化したとき、メインキャストにルナちゃんがいたらキレるわね」
ぐうの音も出ない演技力のダメ出しに、ユエは恥じ入るように顔を覆った。




