40 犬に噛まれたくないなら、謙虚でいなさい
「なんて偉そうなこと言ったけど、今は活動休止中なのよ。だから時間だけはたっぷりあって、それで海外旅行にかまけてたってわけ」
「帰国してすぐ温泉旅行って……バイタリティ凄いですね」
「活動再開したら、また忙しくなるからね。その前に海外ボケを、日本の温泉でリセットしておきたかったの。向こうも楽しかったけど、やっぱり日本が一番だって、ちゃんと確認できただけでも高飛びした甲斐があったわ」
そう言って、お姉さんは満足げに頷いた。
最後の言葉は『高飛び』と締めくくられた。軽い調子で活動休止中と語っていたが、そこにはきっと、日本から逃げたくなるほどの事情があったのだろう。
それこそ、ひじりんのような炎上騒動が、彼女を襲ったのかもしれない。
そのあたりを詮索しようと思えるほど、僕も無神経ではない。ただ、きっと大変だったんだろうな、と胸の内にそっと思うに留めた。
「それで君は、家族旅行で来たの?」
「いえ、違います」
自然な流れで向けられた問いに、反射的に答える。
「じゃあ、部活の遠征。合宿とか?」
「僕、帰宅部なんで」
「じゃあ……友達と? それとも彼女とお忍び旅行かな?」
「残念ながら、彼女はいません」
茶化すような声音に、できるだけ平静を装って返した。
「えー。じゃあ、なに旅行なの? まさか、君みたいな高校生がひとり旅……ってわけじゃないでしょ?」
「なに旅行って、それは――」
そこまで言いかけて、言葉が喉の奥で止まった。
今回誰と旅行に来ているのか。世間に知られてはいけない関係の相手と、ふたりで温泉旅行に来ているのだと、今更ながら思い出したからだ。
「ん? どうしたの、口ごもって。……あ、まさかママ活旅行だから、焦ってるの?」
「や、やだなー! そんなわけ、ないじゃないですか……」
「え……うそ。マジで……?」
図星みたいなものだった。あまりにも挙動不審すぎる態度が、お姉さんに確信を与えてしまった。
頭が真っ白になる。
僕がどう思われようと構わない。けれどユエさんの存在が芋づる式に露見することだけは、絶対に避けねばならなかった。
だというのに、言い訳を探す思考すら止まっていた。
「ほぅ……」
お姉さんは唇を尖らせながら、じっと僕の目を見つめてきた。
その視線は、からかいとも、好奇心とも違っていた。
「高校生のママ活なんて、てっきり二次元だけの世界だと思ってたのに。現実で成立するものなのね」
瞳に宿っているのは、感心の二文字だった。
「ま、安心なさい。通報するつもりも、説教するつもりもないから」
そう言って、お姉さんは僕の緊張を解くように、柔らかく笑った。
「なにせお姉さん、自分が素晴らしい人間だなんて思ってないから」
「……素晴らしい人間じゃない、ではなくて?」
「そう。じゃない、ではなくて、思ってないの」
少し首を傾げる僕に、お姉さんは続けた。
「だって君、自分がやっちゃいけないことをしてるって、自覚あるんでしょ?」
「……はい」
「そういう子に赤の他人がなにを言ったところで、『うわ、なんか面倒な奴に絡まれた』くらいにしか思わないのが関の山。心を入れ替えて、なんて反省するわけないじゃない」
「それは……そうだと思います」
「でしょ? そして私は、君の被害者にはなりえない。じゃあ、わざわざ止める理由もないってこと」
「だから、自分が素晴らしい人間だと思ってない、と?」
「うん。その手の承認欲求、私にはないからね」
「承認欲求?」
「いるじゃない。『私は正しいことを言ってやってるぞ』って、他人に説教する奴。あれって要するに、自分は素晴らしい人間って思い込んでるから、あんな偉そうにできるのよ」
ここにはいない誰かを小馬鹿にするように、お姉さんは皮肉げに笑う。
「あの手の連中って、相手のことを考えて説教してるんじゃなくて、自分の存在が影響を与えるって悦に入りたいだけだから。でも当人が金言だと思って吐き出してるのは、どっかで耳にしたことがある言葉の陳腐でチンケな劣化版。そんなものが誰の心に響くっていうのよ、バーカ!」
溜まっていた淀みを吐き出すように言い放つと、お姉さんはビールをぐいっとあおった。
「誰が言ったかより、なにを言ったかが大事ってよく言うけどさ、それもケースバイケースよね。むしろ今の時代だからこそ、誰が言ったかのほうが大事なんじゃない?」
「まったく、仰るとおりだと思います」
たとえ反対意見を持っていても、このときばかりはきっと、僕は同じ言葉を返したと思う。
「画面越しに偉そうに語って、自分こそ正義だの、民意の代弁者だのって顔してさ。どんなに正論でも、いちいち真に受けてたら身が持たないわよ。ハラスメントにうるさい時代に、ロジハラしてくるのはどうなんですかー? っていうか、おまえらがやってるのはただの揚げ足取りですー! アゲハラですー!」
「ロジハラだしアゲハラですね」
活動休止の裏にあるであろう闇を垣間見つつ、僕は全力で肯定した。
「でしょ? なにを言ったかを大事にするのは、意見を募るときだけでいいのよ。だから、少年も自覚してやってる悪いことを責められたときは、耳を傾けるべき相手をちゃんと選びなさい」
ポンポン、とお姉さんは僕の頭を軽く叩いた。
「たとえば、『それは間違ってる』って、本気で心配して、君の気持ちに寄り添いながら手を差し伸べてくれる人が現れたとき。そこで罪悪感や葛藤を抱くようなら、それが悪いことを卒業するタイミングよ」
やけに、心に響くような言葉だった。
「でも、そんな相手が現れるまではね。ルールを破れば罰せられる。モラルを犯せば村八分を食らう。最低限それだけ弁えていれば、この社会でやっていけるから。周りにゴチャゴチャ言われたくないなら、体裁だけはしっかり整えておくのよ」
大の大人からそんな教えを受けたものだから、思わず笑ってしまう。
「それって、今までの人生から得た教訓ですか?」
「ただの受け売りよ。悪い行いは、変に正当化しようとするからややこしいことになるの。だからね、犬に噛まれたくないなら、謙虚でいなさい。謙虚に」
「肝に銘じます」
「銘じなくていいわよ。ただの酔っ払いの戯言だから」
その自覚はあったんですね、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。
満足そうにクダを巻いたお姉さんは、残りのビールを一気に飲み干した。
「それじゃ、ママによろしくねー」
そうして空の缶を振りながら去っていった。