39 お姉さんの部屋に、来る?
『大浴場に行ってきます』
そんな書き置きだけを残し、部屋を出た。
チェックイン後、荷物を置いて人心地ついたら、元々そうするつもりだった。取り繕った行動ではない……が、あのまま部屋にいるのが気まずかったのもたしかだった。
湯船の中で目を閉じていても、脳裏に焼き付いた光景はしつこく残っていた。
ガラスの向こうに透けた肌に、断末魔のような叫び。
あれから三十分。湯から上がった僕は、部屋に真っ直ぐ戻る気になれずにいた。
「せ、せっかくだしね」
そう自分に言い訳をして、ホテル内をふらりと散策することにした。
土産屋では、試供品のお菓子をつまんで回る。
工芸品の店では、「こんなの誰が買うんだろう」と心の中でツッコミを入れつつ、木彫りの動物たちを冷やかす。
それでもいよいよ見るものがなくなると、外に出て敷地内を散歩する。春の風が丁度よく、湯上がりの火照った身体には心地よかった。
そんな風に、なんとなく歩き続けて三十分。
時間を潰すあても尽きて、ベンチに腰を下ろした。
ただぼんやりと空を見上げる。雲の流れを追っていると――
「おっぷ……!」
一陣の風が吹き抜けた瞬間、ふわりとなにかが飛んできて、僕の顔を覆った。
赤。
視界がぱっと一色に染まり、それからすぐに元の景色へと戻る。
手元に落ちた布を掲げて眺めること五秒。
それがなんなのかを察したのは、まさに次の瞬間だった。
「Oh! Sorry! Sorry!」
ぱたぱたと草履の音を響かせて、その布の持ち主らしき人物が駆け寄ってきた。
ホテルの備え付けの浴衣に身をまとった女性――二十代半ばくらいだろうか。後ろに結んだ茶髪をなびかせ、足を踏み出す度に豊かな胸元が浴衣の下で軽く跳ねている。左腕には、これまたホテルのかごバッグを引っ提げ、手にはロング缶ビールを持っていた。
申し訳無そうな表情をしながらも、どこか余裕を感じさせる微笑。薄紅色に染まった頬と、口元の艶ぼくろが相まってやけに色っぽく見えた。
テレビの向こうに咲く花、ではない。
会社にひとりはいそうな高嶺の花――そんな、現実味のある美人だった。
ユエさんのなんちゃってお姉さんではない。これこそが、本物の大人のお姉さんである。
「あ、えーっと……!」
僕は掲げた布――赤いブラジャーと彼女の顔とを、何度も目で往復した。
よりによって異性の下着が飛んできて、それを手に持っているこの状況。
まるで下着泥棒の現行犯である。
「は……はい」
恐る恐る、視線を外しながら女性に下着を差し出す。
「Oh Thank you」
彼女はそれを受け取ると、あっけらかんとカゴの中へとしまい込んだ。
「どう――」
どういたしまして、と言いかけたところで、ふと気づいて言葉を飲み込む。
彼女は、ずっと英語で話しかけてきていた。
パッと見は日本人のようだが、もしかして中国や韓国の観光客かもしれない――そんな考えが頭をよぎる。
「えっと、の、ノープロブレム」
咄嗟に出てきたのは、ぎこちないカタカナ英語だった。
「ん? ……ああ、ごめんごめん。私、日本人よ」
返ってきたのは、拍子抜けするほど流暢な日本語だった。
「あ、そうだったんですね。てっきり、英語で話しかけられたので……」
「昨日、四ヶ月の海外旅行から帰ってきたばかりでね。つい咄嗟に英語が出ちゃった」
「へえ、海外旅行……英語を話せるって、すごいですね」
「いやいや、全然ダメよ」
女性は照れたように手を振った。
「日本人のカタカナ英語なんて、向こうじゃほとんど通じないから。だから最低限、発音だけはそれっぽくね。ソーリー、センキュー、ハウマッチ、プリーズ――大体、この四つで切り抜けてきたわ。あとはスマホの翻訳ソフトと、意志を伝えたいっていう気持ちと勢いよ」
「気持ちと勢いって……四ヶ月ってことは、ツアーとかじゃないんですよね? 海外はよく行かれるんですか?」
「ううん、今回が初めて。行ったのもタイ、マレーシア、カンボジア、ベトナム――東南アジアばっかりね」
「初海外で、四カ国も回ったんですか? すご……」
「向こうに根を張ってる知り合いがいて、その人に全部お膳立てしてもらったものだから。私はそれにただ乗っかっただけ」
ただ乗っかっただけとは言っても、四ヶ月も異国を巡るなんて、やっぱりすごい。初めての海外でそれだけのことをやってのけるのは、バイタリティがあるという証拠だ。
僕ならきっと、『いつかは』この先何十年も繰り返した先で、結局実行しないまま終わるだろう。
「ツアーみたいなものだから、そんなに誇れる話じゃないわ」
謙遜するように女性は苦笑した。
――その瞬間、なぜか記憶の奥にひっかかる感覚があった。
「ん、どうしたの?」
考えを巡らせている僕を見て、不思議そうに首を傾げる彼女。
「やけに熱心に見つめてくれるけど……お姉さんの色気に、クラっとしちゃった?」
ニヤッと笑って、腕を組む。豊かな胸元が、強調するように押し上げられた。
やり口は違えど、既視感のある弄り方に慌ててかぶりを振った。
「い、いや、そういうわけじゃなくて……!」
「ふーん? じゃあつまり、お姉さんには魅力がないってことね? へえ……」
「そ、そんなつもりで言ったわけじゃなくて! ただ……」
「ただ?」
「なんか既視感っていうか、……お姉さん、どこかで――」
「『会ったこと、ありませんか?』って? あらあら、まさかこんな可愛い子に古典的なナンパされるなんてねー」
距離をぐいっと詰めてくるお姉さん。僕はベンチに座ったままなので、自然と目の前に迫るのは……胸。
大きなものがふたつ、僅かに揺れる。
「わかったわ。お姉さんの部屋に、来る?」
「行きません!」
「えー、お姉さんに恥かかせるのー? 少年、ひっどーい!」
アヒル口で唇を尖らせ、ぶりっ子のように身をくねらせる大人のお姉さん。
正直、いかにもな高校生相手にここまでできるその神経は、尊敬すべきか呆れるべきか迷うところだった。
でも、手元のロング缶を見て、すぐに腑に落ちる。
これはシラフじゃない。しかもこれが一本目だという保証もない。
風呂上がりの上気した頬も、アルコールによるものだとしたら……これはもしや、絡み酒というやつでは?
ここでペースを握られると厄介だ。僕は話を強引に本題へと引き戻した。
「会ったことがあるんじゃなくて……お姉さんの声をどこかで聞いた気がしたんです!」
「声? ……ああ、なるほどね」
それが幸いしたか、お姉さんは納得したように小さく頷いた。
「お姉さん、この喉が仕事道具だからね」
「喉が……? もしかして歌手の方ですか?」
「歌手ではないけど、何曲か出してるわ」
「歌手じゃないのに、何曲も出してるんですか?」
「ちなみにユーチューブで一番回ってるので、五千万再生よ」
「五千!?」
思わず声が裏返る。
僕は普段、流行りの音楽を聞いたりはしない。聞くのはアニソンと、ひじりんの歌ばかりだ。
それでも、五千万再生の重み――誇らしさはわかっているつもりだ。
ひじりんの代表曲『召喚聖女☆豊穣ッ杯フォルムミサ』がまさに、五千万再生超えだからだ。
「ま、その界隈で私を知らない人間はモグリね――くらいのポジションにはいるから。もしかしたらそれで聞いたことがあるのかもね」
お姉さんは得意げに胸を張る。
 




