34 家族に捨てられたんじゃなかった
けれど不思議と、不謹慎さは感じられない。
たぶん僕と同じように、気を遣わせたくない。同情されるのを避けたいという思いからなのだろう。
「でも、天涯孤独ってわけじゃないよ。わたし、お兄ちゃんがいるから」
「お兄さん、いたんですね」
「うん、ちょっと歳は離れてるけどね。弁護士だよ、弁護士」
どこか鼻高々に、自慢するような言い方だった。
「だからアイドル辞めるとき、ぜーんぶお兄ちゃんに投げちゃった」
「それは、また……」
「無責任?」
「ノーコメントで」
さすがにそうですねとは頷けず、曖昧な表情で誤魔化した。
ユエさんはその表情だけで察したのか、くすっと笑って話を続ける。
「引退するときもね、マネージャーどころか、グループの仲間にも相談しなかったの。だから辞めてからは、誰とも連絡取ってなくてさ。今、グループがどうなってるかも知らないんだ」
「じゃあ、デジタルデトックスしてるのって、もしかして……」
「そのくらいの罪悪感はあるよ?」
悪戯っぽく言って、手を後ろで組んだまま空を見上げる。
「本当はね、アイドルを続けたい自分も、いたにはいたんだよ。でも、このまま全部投げ出したいって気持ちの方が上回っちゃって」
「十億の魔力で、人生変わっちゃいましたか」
「うん。宝くじの魔力って凄いね。人生、狂わされちゃった」
ペロっと舌を出して笑うユエさん。その表情に、思わず聞いてしまう。
「辞めたあと……戻りたいって、思ったりしないんですか?」
なにを、とまで口にせずとも、ユエさんは迷いなく頷いた。
「自分でも驚くくらい、未練はないよ」
「ナンバー1まで上り詰めたのにですか?」
「一度離れて、夢が覚めちゃったのかもね。アイドルって、夢が詰まった仕事じゃない? だから、現実に一度足がついちゃうと、前みたいに夢心地ではいられないっていうか……もう、夜桜ルナには戻りたくないって、思っちゃった」
ユエさんは少し遠い目をしながら、ふっと口元を緩める。
「今、わたしはやっと自分の人生――高梨月として生きてるんだと思う。支えてきてくれた人たちには申し訳ないけど、夜桜ルナはもういない人だと思って、放っておいてほしいかな」
その言葉には、我が侭と知りながらも譲りたくない想いが滲んでいた。
綺羅びやかな世界の裏で、アイドルがどれだけ大変な思いをしているかなんて、僕には想像もできない。それがナンバー1にまで上り詰めた人になれば、きっと常人には計り知れない苦労があったのだろう。
でもきっと、ユエさんが選んだのはドロップアウトじゃない。
会社員にたとえるのなら、早期退職。FIREだ。
これ以上しがみつかなくても、もう十分やりきったと、そう思っているからこその決断だったんだろう。
赤ちゃんの頃から芸能界にいたというなら、なおさらだ。
余生には早すぎるけれど、第二の人生――そう思って楽しんでいるのかもしれない。
「まあ、ひとりになったらなったで、ちょっと寂しくなってきたんだけどね」
ユエさんはふと立ち止まり、道路脇に目をやった。
「でもここで、可愛がりがいある子を、二匹も拾っちゃったから。今はもう、大満足の暮らしだよ」
「二匹って……」
その言い方に、思わず眉尻を下がる。
僕の反応を見越していたかのようにユエさんはにんまりと笑っていた。その顔がふいに、なにか気づいたように一点を吸い込まれた。
「どうしたんですか?」
視線を追うと、電柱に一枚の張り紙があった。
最初は迷い猫のポスターかと思った。けれどすぐに、その猫に見覚えがあることに気づく。
ユエさんの目は、すでに文面を追っていた。
そして嬉しい報告でも書いてあったかのように微笑んだ。
「そっか……家族に捨てられたんじゃなかったんだ」
けれどその声は、どこか寂しげに響いたのだった。
◆
嫁がすることなすこと、すべてが気に食わない。
なにかと難癖をつけなければ気が済まない。
嫁いびりのための嫁いびりに全力を注ぐ、それだけを生きがいにしている――そんな姑という生き物がいたらしい。
坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い。
嫁が憎けりゃペットまで憎い。
自分に相談どころか報告すらせず、嫁の希望で子猫を飼い始めたと又聞きで知ったとき、騒ぎ立てるその血を抑える術などなかったのだろう。
姑は勝手に作った合鍵を使って留守中の息子宅へと侵入し、数十キロ離れた場所に子猫を捨てに行くという、信じがたい行動に出た。
本人としては「自分を蔑ろにすればどうなるか、思い知らせてやった」つもりだったらしい。それで嫁が反省し、自分に従う未来がやって来ると、本気で信じていたようだ。
想像を絶する超理論だが、得てして犯罪者とは、常人では計り知れない発想で行動するものだ。
結果として、家族総出どころか、親戚総出で責められた彼女は、出戻りたくなかった実家へ強制送還された。
「反省するまで」などと言われてはいたが、すっかり愛想を尽かした息子と夫には、迎えに行く気はなさそうだった。
「わたしが願ったとおり、家族に捨てられちゃったかー。まさに報いってやつだね」
その話を聞いたユエさんは、心から嬉しそうに拍手をしていた。
まるで昔話の因果応報。気持ちのいいハッピーエンドを見届けたかのようだった。
だからユエさんは、その結末にケチをつけるような真似はしなかった。
悪いお婆さんに捨てられた子猫には、当然、帰るべき家がある。
一度は離れ離れになったけれど、帰りを待ち望む家族がいたのだ。
あの張り紙は、そんな子猫を探し求めていた家族が貼ったものだった。
ユエさんは次の日を待たず、その場で連絡を入れた。別れを惜しむ間も惜しんで、すぐに迎えに来られるならと、一時間後には、子猫――ろーちゃんと呼び始めたばかりの存在を、本当の家族のもとへ返したのだ。
あまりにも突然で、そしてあっさりとした別れ。
あの張り紙を見なかったことにすることもできたはずだった。でも、そうあるべきだとユエさん自身が思って決断したことではある。
それでも、心にぽっかりと穴が空いたような、そんな喪失感が生まれてしまうのは仕方のないことだった。
「つまり、ペットロスの反動で、ユエさんのスキンシップが激しくなって困ってる……ってことか?」
それがキッカケで生まれた悩みを、コウくんに相談することになったのだ。




