33 孝行娘
「ふんふんふーん♪」
お風呂上がりのユエさんが、鼻歌まじりにリビングへ入ってきた。
ダイニングテーブルで勉強していた僕の横を通り過ぎた瞬間、ふわっと甘い香りがする。
シャンプーもボディーソープも、たしかに同じものを使わせてもらっているはずだ。それなのに、どうしてこんなにドキッとするような匂いがするのか。まったくの謎である。
冷蔵庫が開く音がした。
「あれー?」
少し困惑したような声を上げながら、ユエさんは冷凍庫をごそごそと探り始めた。
「あと一個、あったはずなんだけど……」
「どうしたんですか?」
「ツバメくん、最後の一個食べちゃったでしょ」
「食べたって、なにを?」
「アイスー」
冷凍庫を閉じたユエさんは、当然のように僕を犯人扱いしてくる。
それはまた、遺憾である。
昨晩、海外ドラマに夢中のユエさんに「ツバメくーん、アイス取ってー」と顎で使われたとき、最後の一個であることは確認していた。それを家主に告げず、しれっと食べた覚えはない。
むしろ、その一個がどうなったのか、僕はちゃんと知っている。
「手を付けた記憶はございません」
「えー、じゃあ最後の一個、どこにいったのさ」
「日中にユエさんが食べたんでしょ。夕飯を作るとき、ゴミ箱に捨ててあったのを見ましたよ」
「それ、昨日のゴミじゃない?」
「ちなみに今日は燃えるゴミの日でした」
「……あれ、そうだっけ?」
ユエさんはとぼけるわけでもなく、本当に思い出せないといった様子で呟いた。
「言われてみれば……お昼に食べたような、気もしないような……うーん」
腕を組んで唸るユエさん。
「ま、過去を振り返ったところで、今が変わるわけじゃないし。大事なのは、これからどうするかだよ」
「これからって……どうするんですか?」
「もちろん、買いに行く」
当然のように言い切るユエさん。時計を見ると、十時を少し過ぎたところだった。
「もうこんな時間ですよ?」
「知らないの? コンビニは二十四時間営業なんだよ」
「いや、そっちの心配じゃなくて……」
「夜は始まったばかりだよ。ほらほら、早く準備して」
「え、僕も行くんですか?」
「とーぜん」
調子よくそう言ったと思えば、次の瞬間にはジトっとした目つきを送ってきた。
「それともツバメくんは、こんな時間に女の子をひとり出歩かせるつもり?」
「それは……はぁ、わかりました」
それを言われるとこちらが弱い。観念して教科書を閉じた。
準備と言っても、パジャマではないので着替えは必要ない。
ユエさんと色違いのTシャツにハーフパンツ。コンビニに行くのならこのままで問題ないだろう。
「よーし、しゅっぱーつ!」
「もう遅いんですから、近所迷惑ですよ」
家を出た瞬間、子どものようにはしゃぐユエさんをたしなめる。
歩き始めて二分、既に想定から外れていることに気づいた。
「ユエさん、コンビニに行くんじゃなかったんですか?」
「散歩、散歩。ほら、わたしって日中、家にこもってるから」
「たしかに、家にこもって食べてばかりいると……よくないですもんね」
「今の間はなんなのかなー?」
「その……デリカシーは、大事かなって」
「思ったことが伝わった時点で、言ってるのと同じだ、よ!」
「わ、危ないですって!」
わざと肩をぶつけてきたユエさんに思わずよろける。
詫びる様子はなく、そのまま抗議の眼差しを向けてくる。
「外に出ない分、家ではちゃんとトレーニングはやってるんだからね」
「あー、それっぽいことやってましたね」
「あれね、見てる分には楽そうだけど、結構疲れるんだよ? そういった積み重ねが、美の秘訣なんだから」
「女の人って、大変ですね」
「自分には関係のない話みたいに言うけど、今のツバメくんこそやるべきだよ。身体作りの成果は顔つきにも出るんだから。明日からその辺のところ、指導してあげるね」
ユエさんは「はい、決まりね」と言うように、パンと手を叩いた。
僕の意見は聞く気はないユエさんに、逆らう気が湧いたのは一瞬だけ。言われたことは黙って従っておけと、昼に言われたばかりのを思い出したからだ。
――実際、そのトレーニングが身体によく効くのは、二日後の朝に思い知ることになる。今まで感じたことのない箇所が、筋肉痛に襲われたのだった。
ユエさんは空を見上げながら、トレーニングプランでも練っているのか、じっと考え込んでいた。
「あれ、ユエさん」
「ん、なーに?」
「変装、忘れてますよ」
「あー、これ?」
ユエさんは後ろ手にしていた帽子と、胸元に引っ掛けていたサングラスを見せてる。
「こんな時間だし、人通りもほとんどないからさ。お店に入るまでは、ね」
夜なら平気だろうと、素顔を晒しているようだった。
その姿を見て、思い出したことがある。
「……そういえば、拾われたときも素顔でしたね」
「あのときも、アイスを買いに行く途中だったんだよ」
「そうやってたまに、散歩してるんですね」
「うん。たまにはのびのびと発散しないと、息苦しいからね」
「引退後も、有名税を収め続けているのは大変ですね」
「まあね。なにせ赤ちゃんの頃から収めてるから」
「……そんな頃から芸能界に?」
「両親がね、自分たちでは叶わなかった夢をわたしに託したの。ありがちでしょ?」
ユエさんは顎に手を添え、得意げに言った。
「そしてわたしは見事、その夢を叶えたわけ。どう、わたしって孝行娘でしょ?」
「それはまた……すごい親孝行ですね」
そこは素直に頷いた。
だからこそ、湧いた疑問が口をついて出た。
「……だったら、アイドルを辞めるとき、両親と揉めなかったんですか?」
「ああ。うち、もう両親いないから」
まるで「今日、親は留守だから」くらいの、何気ない口ぶりだった。
そこに影を落とすような色は一切見られない。だからこそ、咄嗟に返す言葉を失ってしまう。
「え……?」
「ふたりとも事故でさ。だからツバメくんと同じ」
まるでお揃いだね、とでも言いたげな、穏やかな微笑みだった。




