30 男から女への善意は百パー下心目的
これがコウくんとのファーストコンタクトだった。
噂で勝手に抱いていた印象ほど、怖い相手じゃなかった。
だから次の日も、自然と足はいつもの踊り場へと向いていた。
別に、また会えるかも、なんて恋する乙女みたいな期待を抱いていたわけじゃない。
気に入っていた穴場を放棄してまで避けるような相手じゃないと思ったから。ただ、それだけだ。
「よう。美味かったって、ちゃんと伝えてくれたか?」
三日後、弁当を広げたタイミングで現れたコウくんは、挨拶代わりにそんなことを言ってきた。
「伝えてないけど、作った相手にはちゃんと伝わってますよ」
「ん? どういうことだ?」
「あの弁当、自分で作ってるんで」
「え、マジで?」
面食らった様子で、今日の弁当に目を落とすコウくん。
「ってことは、今日のも?」
「ええ。ひとり暮らしなもんで、自分の面倒くらい自分で見ないと」
「へえ。俺なんていつも外で食うか、コンビニ頼みだな」
そう言いながら、昨日の作り置きである豚の角煮に手を伸ばす。
三日前のように、モグモグと噛み締めている。
「こうやって美味いもん作れる奴は、素直に尊敬するわ」
「僕の取り柄っていったら、これくらいだから。あの来光くんに褒められるのは光栄だよ」
前と違って、妙な緊張感がなかったせいか、敬語も自然に抜けていた。
「それとカツサンド、ご馳走様。ああいういいお値段するものは、どうしても手が出ないからさ。ありがたい味がしたよ」
「だったら今日も、わらしべ長者でどうだ?」
「え、いいの?」
「こっちはこういうの、食い飽きてるからな。それよりも身体に良さそうな手作りのほうが、よっぽどありがたい味がする」
「そこまで言ってくれるなら、今日は弁当ごとする?」
「お、いいのか?」
「僕にとっては、来光くんが食べるようなやつのほうが貴重だから」
「なら、交渉成立ってことで」
コウくんは飲み物だけをコンビニ袋から取り出して、代わりに僕の弁当箱を持っていった。
三日前と同じように、屋上の鍵を使って、立入禁止のドアの向こう側へと姿を消す。ただ、あの日と違ったのは、予鈴が鳴るとすぐに戻ってきて、弁当箱を返してくれたことだった。
そうして、三日に一度くらいのペースで昼食を交換するうちに、気づけば一緒にご飯を食べる仲になっていた。
屋上の鍵をどうやって手に入れたのか。
学校の女子にはまるで興味がないこと。
普段は高校生に喜ぶと大人と遊んでいるとか。
そんな大人たちから与えられた、自由に使える部屋が三つあること。
普通の高校生とはまったく縁のないような暮らしを、コウくんは部活でなにがあったという雑談みたいに、飾ることなく話してくれた。
「あのさ、僕にそこまで話しちゃっていいわけ?」
「ワカは教師にチクるなんて、つまらんことするタイプじゃないだろ」
「そりゃ、しないけどさ」
「それにさ、このくらい俺にとって、特別でもなんでもないただの日常なんだ。
クラスメイトが、昨日彼女と服買いに行って、マックで飯食って、その後バッセンでバットを振った……っていうくらいの話と変わらんよ」
なんてことのないように言うが、コウくんの場合レベルが違う。
二十代の若き女社長とハイブランドの服を選び、夜景の見えるホテルでワイングラスを交わしながら、その腹ごなしにベッドの上でバッドを振った――という具合に、内容が変わるわけだ。
ここまで生きる世界が違えば、もはや嫉妬なんて起きようもなくて、ただ「すごいなぁ」と思うしかなかった。
「今まで、学校でダチなんて作ろうなんて思わなかったけどよ。いざできてみると、そんな話をできる相手が学校にいるって、いいもんだな――って、つい口が軽くなるんだ」
彼にとっては、いつもの調子で言っただけの言葉かもしれない。
でも僕にとっては、それだけで胸が震えるような言葉だった。
『いざできてみると』――そうやって、当たり前のように僕のことを、友達として扱ってくれていたのだ。
「そっか……まあ、そういうもんだよね」
それが嬉しくて、声に出ないように押さえるのが精一杯だった。
結局、気の利いた返事ひとつできなかったけれど、僕はそのときに心に決めた。
来光司実を、なにがあっても裏切らない。
そんな、いつも側にいて笑いあえる友達でいたいと、心から思ったのだ。
◆
いつもの場所ということで、屋上の踊り場でコウくんを待っていた。
カバンを置けば、すぐにやってくるだろうと思っていた。けれど、実際に姿を見せたのは、それから十五分ほど経ってからだった。
「わりー、わりー。待たせたな」
「トイレでも行ってたの?」
「ちょっと、調達したいものがあってな」
意味ありげな表情を浮かべながら、コウくんはポケットから屋上の鍵を取り出し、扉に差し込んだ。
いわく、屋上はもともと教師たちだけが立ち入ることが許された喫煙所だったという。
けれど時代の流れとともに、学校敷地内での喫煙が禁止され、屋上に足を運ぶ教師もいなくなったらしい。
その後、ある生徒が無断でスペアキーを作り、それが代々、後輩たちに受け継がれていった。そして今、その鍵を持っているのがコウくんなのだ。
「ワカ、ちょっとこれを付けてみてくれ」
屋上の鍵をかけ終わると同時に、コウくんがそう言ってなにかを差し出してきた。
黒いマスクと、シンプルな丸い形をしたイヤリングだった。
「……これを付けると、なにかあるの?」
「いいからいいから。まずは、な?」
どこか押しの強さを――いや、押し切ろうとする企みを感じながらも、特に断る理由もないのでマスクを付けた。
イヤリングは付けたことがなかったため、代わりにコウくんに装着してもらい、マスクも目元が隠れそうなほど深めにずらされた。
「おぉー……」
その姿の僕を見て、コウくんはどこか感心したように目を細めた。なにかしらの感情を堪えるように口元を噛み締めながら、スマホを取り出して僕に向けてくる。
「じゃあ、次にこう言ってくれ。『どうしたん? 話聞こうか?』」
恋する乙女の感情をグチャグチャに溶かすような、艶のある甘ったるい声でその台詞を口にする。
日頃からこういう台詞を囁いているんだろうな、と思いながら、僕はその台詞を繰り返した。
「……どうしたん? 話聞こうか?」
「ダメだダメだ。そんな棒読みで、誰が話を聞いてもらいたいと思うんだよ。もっと感情を込めて!」
「そう言われても……」
「たとえば、お姫様が好きなものについて悩んでたときを想像してみろ。そんなとき、どんな風に悩みを聞き出してやりたい?」
「カグヤ先輩が、悩んでる……」
あの人の好きなものといえば、もちろんヒィたんである。
それで悩むとしたら、やはり炎上騒動であろう。
ならば、中途半端な気持ちじゃダメだ。
「どうしたん? 話聞こうか?」
カグヤ先輩の人生に寄り添うような気持ちを込めて、その台詞を発した。
「ギャハハハッ!」
するとコウくんが腹を抱えて大爆笑した。スマホを持った手の前腕をパンパンと叩きながら、感情を爆発させている。
「酷い……言わせたの、コウくんなのに」
この仕打ちはあんまりだ。笑いものにするために、こんなことをやらせたなんて……あまりにも胸が痛かった。
「いや、わりー、わりー。あまりにも完成度が高かったからよー」
コウくんは目端を拭いながら、スマホの画面をこちらに向けてきた。
「ほら、今のワカ、まんまこれだろ?」
「……なに、これ?」
画面に映し出されていたのは、黒髪のマッシュヘアの男子が、黒いマスクとイヤリングを付けているイラストだった。左には、今発した台詞――『どうしたん? 話聞こうか?』の文字が添えられている。
「結構前に流行ったやつでよ。こういう奴いるよなっていう、『男から女への善意は百パー下心目的』の擬人化キャラだ」
「今の僕、そんな男に見えるってこと?」
愕然とした。
土曜日。半ば連行されるようにして美容院へと連れて行かれ、こうして今の見た目に変身した。
まるで別人のように印象が変わった自分に、むず痒くなるような気恥ずかしさをあったけれど、大人しくユエさんに従ってよかった。そんな喜びがあった。
けれど、蓋を開けたらこの始末。
今の僕の姿は『男から女への善意は百パー下心目的』の擬人化。
今日この姿を見た人たちは、若井燕大はそんな人間になったんだと、そう思ったのだ。
「……死にたい」
両手で顔を覆いながら、心は深く沈んでいく。
 




