29 等価交換っていうよりわらしべ長者
人の手によって見た目がどれだけ変わろうと、中身まで都合よく変わるわけじゃない。
むしろ、変わる前の自分とのギャップに、心は妙な違和感と気恥ずかしさ、そして得体の知れない不安を覚える。
要するに、他人の反応が気になって臆病になってるのだ。
アラームが鳴る三十分も前に目を覚ましてしまったのは、今日はその変わった姿を、学校で初めて晒すことになるからだ。
「ほらほら、そんな不安そうな顔しないで。自信持っていってらっしゃい」
ユエさんに髪を整えてもらった僕は、二重の意味で背中を押されるようにして、観念しながら家を出た。
もうここまで来たら、開き直るしかない。そう思って電車に乗ったものの、ちらほらと見知った制服が目に入る度、自然と視線は落ち、顔は伏せがちになる。
校門を抜ける頃には、すっかり背中が丸くなっていた。
いよいよ教室にたどり着くと、後方の扉が開いていた。立ち止まるほうがかえって目立ちそうだと思い、そそくさと自分の席へと腰を下ろした。
そうしてスマホに夢中になってるふりをしながら、画面を指で滑らせる――と、やはり感じるのだ。二度見するような、変化に気付いたような視線が。
ジッと観察されているわけではない。けれど、その視線の存在が、どうにも落ち着かない。
予鈴が鳴ったのでスマホをしまった、そのとき。
「若井くん」
ふいに、隣から名前を呼ばれた。
声の主は女子の田村さんだった。
「な、なんですか?」
微妙に上ずらせた声で返してしまう。
「来光くん、今日はお休みなの?」
「え、コウくん……?」
そう言われて初めて、前の席がぽっかりと空いていることに気づいた。
連絡が来ているわけでもない。休みなのか、遅刻なのか。判断のつかない空席だった。
「あれ、いないや」
「連絡とかは来てないの?」
「来てないですけど……休み明けだから、どうせ重役出勤じゃないかな」
昼休みにふらっと登校してきて「いやぁ、昨日は飲みすぎたわー」とだるそうにしているコウくんを見たのは、一度や二度ではない。
「そっかー。お顔をちゃんと見られるのならよかった」
そう言って納得した田村さんは、それ以上の関心を示すことなく、前の女子とのおしゃべりに戻っていった。
僕についてはなにも聞かれなかった。それが少しだけ嬉しくて、ホッと胸を撫で下ろす。
ほどなくして本鈴が鳴り、三田先生が教室に入ってきた。
教壇に立った先生は、ちらりとこちらを見て、ほんの一瞬、意味ありげに笑った気がした。
その視線にまた、居心地の悪さを覚える。
昼休みが訪れるまで、僕は意識的に顔を伏せ続けていた。
チャイムが鳴ると、逃げるように席を立つ。
すると、丁度教室に入ってきたコウくんと鉢合わせて、軽くぶつかってしまった。
「おっと。そうやって下を見て歩いてると、危な――」
注意を促しかけたコウくんは、言葉を途中で切った。
そして、面食らったような顔を浮かべる。
「……おぉ、ワカだったのか」
「お、おはよう」
「ああ」
時間外れの挨拶をする僕に、コウくんは顎に手を添えながら、なにやら考え込んだ。
今日一番、気まずい時間だった。
十秒も経たない内に、コウくんはいつもの調子に戻る。
「とりあえず、いつもの場所でな」
「わかった」
その言葉をキッカケに、僕はそそくさと教室を抜け出し、いつもの場所へと向かった。
◆
今回、コウくんと同じクラスになったことで、多くの生徒がこう思ったはずだ。
なぜ若井みたいなのが、あの来光司実と親しい友人をやっているのか。
学校中の女子たちは、誰もがコウくんとお近づきになりたがっている。けれど今日までの間、彼に相手されたものはひとりとしていなかった。
いつだって許されるのは、その姿を眺め、目の保養とすることだけだ。
男子もまた、似たようなものである。
コウくんはどのコミュニティにも属さず、クラスの決め事や催しにも興味は示さない。『好きにやっててくれ』という態度を貫いているのだ。
普通なら反感を買い、なにかと難癖をつけて突っかかられたり、陰湿な仕打ちを受けそうなものだが。けれどそれをやれば、学校中の女子を敵に回すことになる。
実際にそれをやらかした男子生徒は、
「あんたのせいで、来光くんが学校来なくなったらどうすんのよ! いなくなっても誰も困らないあんたとは違うのよ! 責任取れんの!?」
と、十数人の女子に囲まれ、ボロクソに責め立てられたという。
その一件以来、仲間扱いされることを恐れた男子たちからも敬遠され、今では鼻つまみ者の扱いを受けているらしい
触らぬ神に祟りなし。
そんな言葉が、まるでコウくんのためにあるかのようだった。
だからこそ、来光司実の存在は認知していても、どこか別の世界の住人のように思っていた。
そんな僕らの世界が交わったのは、去年の六月のことだ。
あの頃の僕は、毎日のように昼休みを屋上の踊り場で過ごしていた。
人目を避け、ひっそりと時間を過ごすためだ。
クラスに友達らしい友達がおらず、ボッチ飯をみられるのが嫌だったわけではない。
見られたくないものは、また別にあった。
その日も、弁当に手をつけるのも忘れて、推しの動画に夢中になっていた。
「こんなところで、なに見てんだ?」
「わっ!」
不意に、頭上から声がかかる。
ぬっと覗き込む気配に驚いた僕は、スマホを取り落としてしまった。
この場所は、人がいない穴場だと信じていた。そんな場所でイヤホンをしていたせいで、階段を上がってくる足音にも気付けなかったのだ。
床を滑っていったスマホを拾い上げた彼は、画面を覗き込んで言った。
「なんだ、Vチューバーか」
その声に顔を上げた僕は、そこでようやく気づいた。
相手はあの、来光司実だった。
見られたくないものを見られた気恥ずかしさと、彼の口から出るには似つかわしくない単語に、興味が勝ってつい口を開いてしまう。
「……知ってるんですか?」
「今どき、知らん奴なんていないだろ。……いや、爺さん婆さんは別だけどな」
「もしかして……好きだったり、するんですか?」
「いいや。女はやっぱ、直に触れられる相手に限るからな」
「で、ですよね! なんか……すみません」
僕は思わず卑屈になって、彼の視線から逃げるように俯いた。
来光司実の噂は、クラスの隅にいる僕でもそれなりに耳にしていた。
正直、不良に絡まれているかのような威圧感さえ、勝手に感じていた。
それを察したのか、彼は軽くため息をついた後、こう言った。
「なにビビってんだ。別に取って食ったりしねーよ」
スマホをあっさり返してくると、目を細めて、なにかに気づいたように弁当箱に目をやった。
そしてそのまま、手を伸ばしてきた。
前言を早々に裏切るように、ピーマンの肉詰めがひとつ、取って食われたのだ。
「お、うめーな。もう一個いいか?」
尋ねながらも、僕がうんとも言わないうちに、もうひとつがなくなっていた。
あの来光司実に文句も言える度胸なんてあるはずもなく、僕はただ呆然と、その横顔を見つめるしかなかった。
「わりー、わりー。こう、手が止まらんくてな」
さすがにメインのおかずを全部食べたのはバツが悪かったのか、コウくんはコンビニ袋をがさっと漁り、中からひとつ取り出して僕に差し出した。
「これで許してくれ」
「おお……!」
手渡されたのはカツサンドだった。それも店内調理を売りにしている、二個で五百円近くするいいやつだ。
「そいつで等価交換ってことで、どうだ?」
「これはもう、等価交換っていうよりわらしべ長者ですね」
「お気に召したようでなによりだ」
男から見ても様になるような微笑をこぼしながら、コウくんはポケットから鍵を取り出し、扉に差し込んだ。
「帰ったらお袋さんに伝えといてくれ。『学校一のイケメンが、すげー美味いって喜んでた』ってな」
そう言い残し、立入禁止の屋上へと、彼は悠々と姿を消していった。




