02 界隈的には認められてる
後ろめたさを感じながらも、お腹が満たされて人心地がついた。
「あれ」
そこでようやく、自分の変化に気がついた。
昨日着ていた服が、乳白色のTシャツとハーフパンツに変わっていた。
「そういえばこの服って……」
「わたしの部屋着」
「部屋着っ!?」
「ほら、服が濡れたまま寝かせるわけにもいかないし、着替えてもらったんだけど……覚えてないの?」
思い出そうとする僕を見て、彼女は苦笑を浮かべる。
「ほんと、ひどい顔してたよ、君」
「ひどい顔?」
「この世の終わりみたいな顔」
「この世の終わりって……」
さすがに大げさすぎですよ。そう口にしそうになった言葉を飲み込んだ。
昨晩の光景を思い出すと……なるほど、言いえて妙かもしれない。
「そんな子がさ、雨の中子猫を抱えて段ボールに入ってるんだもん。これはただの家出少年じゃないなと思ってまとめて拾ったわけ」
彼女はソファー横に置かれた段ボールに手を伸ばす。中から小さな子猫を抱き上げ、僕に差し出した。
恐る恐る、壊れ物を扱うように受け取る。
「みゃー、みゃー」
子猫は昨晩のように警戒することなく、僕の人差し指を甘えるように吸ってくる。
連れ帰る場所がない。
この子になにもしてやれない無力感――それが、少しだけ報われた気がした。
「……ありがとうございます、お姉さん」
感謝の言葉が、自然とこぼれる。
「高梨月」
「え?」
顔を上げると、彼女は大げさな笑顔を浮かべていた。
「お月さまの月と書いて、ユエ。ユエちゃん、って呼んでね」
両手の人差し指で頬を突きながら、ウィンク。そのわざとらしいあざとさが、不思議と様になっている。
呆気に取られている僕を見て、彼女はくすっと笑った。
「可愛いお顔に見とれちゃった?」
「……自分でそれ、言っちゃうんですか?」
ようやく返した言葉に、ユエさんは不満げどころか、ますます得意げな表情を浮かべる。
「前のお仕事は、この可愛さを売りにしてたからね」
「可愛いを……仕事?」
可愛いを売りにとは、一体どんな仕事だろうか。
メイドカフェやコスプレ喫茶? でも、それだけでここまで自信満々に言うだろうか。
なら水商売……? いや、ユエさんのイメージには合わない。
動画配信者? インフルエンサー?
「地下アイドル、とか?」
思いついたまま口にした瞬間――
「地下アイドル!」
ユエさんは腹を抱えて笑い出した。
なにをそんなツボに入ったのかと困惑していると、
「いやー、よりにもよって地下アイドルかー」
「……ごめんなさい」
「いいよ謝らないで。ただ傑作だった、ってだけ」
目尻を指で拭いながら、ユエさんはまだ笑いの余韻を引きずっている。
「その答えを聞けただけでも、君を拾った価値があったよ」
「皮肉ですか?」
「本心本心。こんなに笑ったの久しぶりだから。ありがとね」
「……どう、いたしまして」
戸惑う僕の手から、ユエさんは子猫をすくい上げた。
そして改めて僕を見つめながら、子猫と共に首を傾げた。
「で、君のお名前は?」
「若井、燕大です」
遅まきながら名乗ると、ユエさんは少し考える素振りを見せる。
「……てるまさくんね。輝く、正しい……いや、ここは将軍の『将」かな」
「燕が大きいで、テルマサです」
「ええ……」
ユエさんは、まるでルール違反をされたかのように唸る。
「もしかして……キラキラ?」
「燕を『テル』と読むのは、界隈的には認められてるらしいです」
「一体、どの界隈さ」
「源為朝を『トモ』と読む界隈」
「その界隈かー。そんな大御所がバックについてるならアリなのかもね」
「どれだけバックがでかくても、普通には読めないですけどね」
こればかりは学があるないの話ではない。
そんな普通には読めない名前を、不便だと親を恨んだことはない。
「でも、自分たちの縁を結んだ鳥だからって」
「そっか。普通には読めないとわかっていても、使いたい字だったんだ」
納得したようにユエさんは静かに頷く。
「だったら、わたしと同じだね」
「同じ……? ああ、月をユエとか、初めて聞く読み方ですね」
「『月』の一文字にこだわった結果、中国語にたどり着いたらしいよ。純日本人なのに、おかしいよね」
ユエさんは肩をすくめるが、自嘲や辟易した様子はない。名付けられた本人は気に入っているのだろうと感じた。
お互いの自己紹介を終え、打ち解けた空気が流れた頃――
「それで、なにがあったの?」
ユエさんはずばり聞いてきた。
「それは……」
言葉に詰まる。
『なにが』の中身がわからなかったからではない。ただ、それを口にするのは、恥部を晒すようで――
「旅の恥はかき捨てってほどじゃないけどさ」
そんな僕の気持ちを察したのだろう。ユエさんは親身でもなく、かといって突き放すわけでもなく――
「一期一会の相手だと思えば、吐き出しやすいこともあるんじゃない?」
軽く、提案するように言った。
「……そうですね」
だからこそ、僕はあっさりとそれを受け入れてしまった。
「これは昨日の朝から始まったことなんですけど――」