23 残った問題は、ひとつだけ
職員室に向かうと、前年度の担任が真っ先に僕に気づき、手招きしてくれた。
改めて「無事でよかった」と言われ、「今回のことは大変だったね」と、労るような言葉をかけられる。
そのまま保健室へと移動すると、用意されていた制服に着替え、指定の学生カバンを受け取った。
先生がふと思い出したように言う。
「そうだ、クラス替えはもう見た?」
僕は首を横に振ると、先生はにっこり笑って言った。
「若井くんは今年も、先生のクラスだから。新しい教室は、二年二組よ」
担任がまた三田先生だったのは、僕にとって朗報だった。
教えられた教室へと足を向けながら、心の中で小さくガッツポーズをする。
クラス替えというのは、また同じクラスになれたらいいな、という期待と、離れたくない不安が入り交じるものだろう。僕にとっての唯一の相手が、三田先生だった。
クラスメイト以上の関係を誰とも築けなかった前年度。だから、一緒になりたいクラスメイトや、離れたくない友達がいない立場は、ある意味気楽でもあった。
そんな僕でも、実はまだ期待していることがあった。
「ワカ」
そんな期待に報いる声が、教室の後ろから聞こえてくる。
入ってすぐ、彼が真っ先に手を上げていた。
教室にいた女子たちの視線が、一斉に彼へと向き、そしてその視線が、自然と僕のほうへと流れてくる。
でも、そんな注目さえ今は気にならない。胸の奥から湧いてくる喜びのほうが、ずっと大きかった。
彼のもとへ早足気味に近づく。
「よう、生きてたか」
「なんとかね」
軽口のようでいて、本気の生存確認。それに僕は、苦笑しながら応えた。
すると彼が、後ろの席を指先でトントンと叩く。
「おまえの席だ」
黒板に張られた座席表を、顎で示しながら言った。
「クラスだけじゃなくて、席まで近く? すごい偶然だね」
「クラスはともかく、ラ行とワ行だからな。必然っちゃ必然だろ」
「あー、たしかに」
ラ行とワ行。それはもちろん、名字のことだ。
僕は若井だからワ行。そして彼は、来光――来光司実だからラ行。
この学校でできた、唯一の男友達。それがコウくんだ。
すらっとした高身長に、彫りの深い整った顔立ち。
そんなありきたりな表現だけでは、彼の魅力はとても言い表せない。だからこそ、コウくんは学校中の女子たちの視線を集めてやまない。
――陽に焼けたような褐色の肌は、野性味ではなく、洗練された色気を帯びている。
その肌にひときわ映えるのが、艶やかな銀髪。長く伸ばされたそれは無造作に束ねられているが、どこか月光のような光沢をまとい、彼の存在に幻想的な輪郭を与えていた。
――と。
そんな風に、恋する女子たちがため息混じりにポエムを語るのを、僕は何度か耳にしたことがある。そして言わんとしていることが、男の僕にもわかるからこそ、コウくんの男としての魅力は本物なのだ。
「しっかし、ニュースで知ったときは驚いたぞ。『この辺、ワカが住んでるところじゃね―か』って」
「僕もバイト先から戻ったときはびっくりしたよ。あ、これ……もうアパート残ってないや、って」
「電話も繋がらんし、ラインも既読にならんしで……『ワカ、もうこの世にいないんだな』って、本気で思ったわ」
「生存報告したとき、先生にも同じこと言われたよ」
「あまりにも連絡がつかんから、学校に電話してみたら『無事』とは聞かされたけど、どこまで真に受けていいか、わからんかったからな。やっぱ、顔を見るまでは安心できんかった」
「それもさっき、同じこと言われた」
僕は苦笑交じりにそう返すと、コウくんがニヤリとしながら顔を近づけてくる
「……お姫様にか?」
「えっ! あ、えっと……」
僕はギョッとしながら、挙動不審に視線を泳がせる。
するとコウくんは、いたずらっぽく笑って言った。
「テルくんなる男子は誰だって、噂になってるぞ」
「嘘でしょ……!?」
僕は叫びそうになるのをなんとか堪えて、唖然とした表情を浮かべる。
なんでそんなことになってるんだ――と、疑問に思ったが、考えてみれば至極まっとうな話だ。
あのカグヤ先輩が、特定の男子と親しくしているなんて噂が立てば、スクープを狙うような勢いで情報は広まり、人探しが始まるのも当然の流れだろう。
それにしても――
「……噂が広まるの、早すぎない?」
「ま、あのお方は学園のお姫様だからな。俺が特定の女子に目をかけてる、って話題が広まるようなもんだろ」
「それは……納得した」
もしコウくんに特別な女の子がいたら、それはスクープどころか女子にとってはスキャンダル級のニュースだ。
今、僕がスクープの的として人探しをされているのだとしたら、コウくんの相手なんて犯人探しみたいな騒ぎになるに違いない。
今こうして、僕らが声を潜めて話しているのもそれが理由だ。教室のあちこちで、女子たちが耳をそばだてているのが気配でわかる。
そもそも、あのコウくんに親しい友人枠がいるなんて、今日まで誰も知らなかったんだから。きっとこれをキッカケに、僕を足がかりにしてコウくんに近づこうとする女子が、何人も現れるだろう。
興味の持たれ方は不本意だったが、それでもコウくんと同じクラスになれた喜びのほうが、はるかに大きかった。
クラスに男友達がいるというだけで、これからの一年、心強さがまるで違うのだ。
だから、コウくんが関係してくる注目なら、まあ受け入れるとして……問題は、カグヤ先輩の件だった。
「あー……カグヤ先輩とのこと、バレちゃったか」
カグヤ先輩の知名度は、校内にとどまらない。
ファッション雑誌の専属モデルとして、その魅力は全国に発信されている。
本人は「芸能人じゃないんだし、そんな大したもんじゃないよ」なんて言っていたけど、この道を進み続ければいずれ、そんな未来が掴めるような存在だ。
コウくんなら、美男美女として釣り合いが取れているが……僕のような有象無象と親しいなんて知られたら、それだけで彼女のキャリアに傷がつくかもしれない。
そんな不安に、自然とため息がこぼれる。
「なに、噂の主がワカだってことは、そう簡単にたどり着かねーさ」
コウくんが、僕の心を見透かすように笑って言った。
「みんな私服姿に目がいってたんだろうな。今広がってる噂は、私服で登校してきたテルくんって名前の男子ってだけで、見た目の情報はほぼなしだ」
「特徴のない外見でよかったって、今日ほど思ったことはないね」
「一方、特徴的すぎる名前のほうは、誰も読めねーからな。そこの座席表を見て、足がつくこともないだろ」
「今回ばかりは、普通に読めない名前に救われたね」
「だからさ、今の噂を頼りにワカにたどり着けるやつなんていないって。『あの仲のいい男子って誰?』って聞かれたお姫様が、正直に答えない限りな」
「そこは信頼してるから大丈夫」
あれは僕の生死に関わるような非常時だったから、周りの視線を気にする余裕がなかっただけだ。普段のカグヤ先輩なら、そういう部分にはとても気遣ってくれる。
僕との関係を隠したいわけじゃない。
僕のような人間の気持ちを、誰よりもわかってくれる人だからだ。
「そうか。――だったら残った問題は、ひとつだけだな」
「ひとつだけ?」
そんなもの残ってたか……と首を傾げると、コウくんがニヤっと口端を持ち上げた。
「お姫様と仲がいいのは、俺も初耳だった」
その視線に耐えきれず、僕は思わず目を逸らす。
「それは……わざわざ言うほどのことでもないかな、って」
「こっちは女遍歴を赤裸々に話してきたのに、それは水臭いんじゃないか?」
「そういうご意見があることは、もちろん承知しております。今回の貴重なご指摘につきましては、真摯に受け止め、広報担当を通じて――」
「ま、その辺の話はまた、追々。飯時にでもじっくり聞かせてもらうさ」
「お、お手柔らかにお願いします」
僕が余裕のない笑みを浮かべてそう乞うたところで、教室に予鈴が鳴り響いた。




