22 生きててよかった
ユエさんのヒモになって、六日が経った。
初日からユエさんには、あの手この手で初心な男心を弄ばれた。正直、これが毎日続くようなら僕の身がもたないんじゃないかと本気で心配になった。
でもそれは、案外杞憂であった。
なにせユエさんは、すっかり子猫に夢中である。遊び疲れて横になったかと思えば、五分後には元気を取り戻して部屋中を駆け回る子猫につきっきりだ。
手のかからない時間はネットフリックスに夢中で、僕の相手をしている余裕なんて、それこそご飯時くらいしかないのである。
おかげで僕は、素晴らしいキッチンを自由に使える恵まれた環境のもと、残りの春休みを悠々自適に過ごせた。
だからこそ始業式の朝、僕はすっかり油断していたのだ。
「それじゃあ、ユエさん。学校、いってきますね」
「はーい、いってらっしゃーい」
玩具を振って子猫とじゃれあっているユエさんに声をかけ、玄関で靴を履いていたそのとき、
「あ、そうだ! 待って待って、ツバメくん!」
突然、なにかを思い出したのか、ユエさんが慌ただしく廊下を駆けてきた。
「どうしました?」
「忘れ物だよ。もう、新年度早々、うっかりさんだなー」
「忘れ物?」
僕は首を傾げながら、自分の格好に目を落とす。
パーカーにチノパンというシンプルな格好。ポケットにはスマホと財布が入っている。
たしかにカバンは持っていないが、これが近所への買い物だったなら、特に不足は感じなかっただろう。
けれど今は学校へ登校するところで、それを考えればポケットの中身だけでは明らかに不十分だ。
だが、それもすべてわかった上で、僕はこうして家を出ようとしていた。
その上での忘れ物なんて、なにかあっただろうか?
「いってらっしゃいのチュー、してないでしょ?」
ユエさんは甘ったるい猫撫声を発しながら、唇に人差し指を置いた。
僕はガクンと項垂れながら、ドアノブに手をかけた。
「いってきます」
「はーい、いってらっしゃーい」
二十一世紀最後の美少女の投げキッスは、それはもう様になっていた。
◆
僕の高校の最寄り駅は、全国でも有数の乗降客数を誇る巨大駅。
つまり、それに比例するように街は人でごった返し、同時に栄えている。
そんな中、制服で登校する高校生たちに混じって歩く、私服姿の高校生――つまり僕のような存在など、奇異に映るどころか視界にすら入らない。
だが、それも校門をくぐった途端、状況は一変する。
始業式の朝に、まるで「ちょっとコンビニ行ってくる」みたいなラフな格好をしてる奴がいる。そんな目で見られているのが肌でわかる。「なんだあいつは」と言わんばかりの視線が、あちこちから突き刺さってきた。
もちろんこれは、自分の不手際でこうなったわけじゃない。堂々としていればいい、というのは正論だ。でもこういう場で注目を集めるのは、どうも苦手だ。つい、背中が丸まってしまう。
肩をすぼめながら歩いていると――
「あー! テルくん!」
突然、後ろから耳に響くような大声が飛んできた。それこそ周囲の注目を、一手に集めるような声量だ。
僕が振り返ったのは、声にびっくりした反射からではない。
聞き覚えのある呼び名に、忘れようのない声に反応したのだ。
小走りで駆け寄ってくる女子生徒が目に入る。
彼女は僕の顔を見るなり、今にも泣き出しそうな安堵が混じった声で言った。
「生きててよかった……!」
始業式の朝に似つかわしくないそのセリフに、周囲の空気がわずかにざわついた。
「ほんと心配したんだよ! 電話かけても繋がらないし、ラインはずっと既読にならないし……一縷の望みをかけて学校に電話してみたけど、同じく連絡がつかないって言われるだけで……」
「その……スマホ、家に置いたまま出かけてたんです」
「それは後から聞いたけど……無事だったっていうのも、どこまで本当かわかんなくて……どこかで信じきれなかったから」
「あー……そう、ですよね」
無事だったという安否確認は、学校もすぐに共有してくれるかもしれない。でもそれが、命は無事だったけど……、みたいなことになっていたら話は別だろう。生徒の不安だけを煽るような情報は、学校側として取り扱いは慎重になるはずだ。
「テルくんの顔を見られるまで、どうしても不安がなくならなくてさ」
その場合を疑ってしまい、春休みの間、ずっと僕を心配してくれていたのだ。
「だから無事なテルくんに会えて、本当によかった」
生きていてくれてありがとう。
そんな気持ちがにじむ笑顔が、あまりにも眩しくて。
「すみません。ご心配をかけしました」
今月に入ってからしてきたことを思い返し、後ろめたくてつい目を逸らしてしまう。
「見ての通り無事で、元気にやってました」
「そうみたいで安心したけど……それはそれとして、無事じゃなかったところが、その見ての通りなところに表れちゃってるけど……大丈夫なの?」
「そこは先生たちが、卒業生に声をかけてくれたようで。制服やカバンとかは心配しなくていいって」
「そっか。もう使わないからって、寄付してくれたんだ」
「ほんと、ありがたい話ですね」
心の底から、そう思った。
声をかけてくれた先生たちはもちろん、見ず知らずの後輩のため快く寄付してくれた先輩たちにも、心から感謝している。
ふと、周囲の視線に気づいた。
足を止めて、食い入るようにこちらを見つめ、耳をそばだてている――そんな生徒が二、三組というレベルではない。登校中の生徒の、ざっと八割はいるんじゃないかと思うほどだ。
たしかに私服姿の男子が校門をくぐれば、目を引くのも当然だ。でも、それだけが理由ではないことも、よくわかっている。
「あの……」
「どうしたの――あっ」
僕が居心地悪そうに横目で視線の群れを見やる、彼女はすぐに察してくれた。
「ごめん、こんなところで声かけちゃったから……」
彼女は申し訳無そうに両手をあわせ、声をひそめて言った。
「わたしのことはいいから、先行って」
「はい、失礼します」
「うん、また後でね」
小さく振られた手に見送られながら、僕は早足でその場を離れる。
胃の奥に、ずっしりとした重みが広がっていく。
その原因は、周囲の視線に晒されたことじゃない。
春休み前からなにも変わらずそこに立っているあの人を前にして、知りたくなかった一面とのギャップがあまりにも苦しかった。
これから先、僕は彼女とどう接していけばいいのか。
春休みの間、ずっと答えを探していた。
けれど、いざカグヤ先輩を目の前にしても、やっぱり答えは見つからなかった。